コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


     The Mind To Call

 「海原(うなばら)さん。海原みなもさん!」
 「はい?」
 耳元で名前を呼ばれ、みなもは大きな目をぱちくりさせて我に返った。眼前にはよく知った家庭科の教師の顔がある。
 彼女は呆れたような表情を浮かべ、みなもの手元を指差して言った。
 「キャロットケーキを生のまま床に食べさせるつもりじゃないのなら、それ以上傾けない方がいいわよ。」
 これを聞いて調理実習の最中だったことを思い出したみなもは、あわてて視線を手の中に落とした。ボウルが急角度に傾き、ピンク色に染まった生地が今にも流れ出して足元に甘い地図を描きそうな気配である。
 それをすんでのところで何とか阻止し、ほっと息をついたみなもは、「何か悩み事?」と尋ねてきた教師に首を振って答えた。
 「そういうわけでは……もう大丈夫です。」
 「本当?」
 「はい。」
 そう、その言葉に嘘はなく、決して悩みがあるというわけではなかった。ただ今朝の目覚めの悪さが彼女の気分を沈ませていただけである。
 しかし、確かに何かひどく気分の悪い夢を見たように思うのだが、起きた瞬間にそれは不快感と気だるさを残して霧散してしまった――すりつぶしたニンジンが小麦粉に混ざって姿が見えなくなってしまうように。
 ――悪夢でケーキを作ったらどんな味がするのかしら?
 少なくとも、どんなにニンジン嫌いの人でもキャロットケーキの方がまだおいしいと言うに違いないわ、とみなもは思い、いつまでも忘れてしまった夢のことを気にしても仕方がないと、料理に意識を集中することにした。手作りの成功の秘訣は心をこめることだろうから。

 そんな彼女が雨達(うだつ)に会ったのは、その放課後のことである。
 雨達はオカルト事件を専門にしている探偵だが、その仕事は油を売ることと等しい。ふと思い立って急に誰かが彼に当日の予定を尋ねても、都合の悪い日などあったためしがなかった。どうやって生計を立てているのかはなはだ疑問だが、みなも自身もつい昨日、人間を取り込んで糧とする携帯電話に襲われたところを雨達に助けられたばかりであったから、彼のオカルト専門の探偵としての実力は皆無というわけではないらしい。
 しかし、友人からは報酬を取らないと雨達はみなもの謝礼を断ってしまったし、そのことで何か礼をしたいと思っていたみなもは、手作りの菓子を贈ることを思いついたのだった。
 「調理実習で作ったものなんですけど、良かったら……。」
 そう言ってみなもはおずおずと手製のキャロットケーキを差し出した。学校で作ったものであるため見栄えのいい包装などされていないが、ラップでくるまれたケーキにそっと小さな花がそえられているあたり、彼女の心の温かさが見て取れる。
 雨達は顔をほころばせて「ありがたくいただくよ。」と機嫌良くそれを受け取った。
 みなもは他に何事か言おうとしたが、すぐに眉を寄せ、口をつぐむ。伝えたいことがあるような気がするのにどう言葉にしていいのか判らず、結局、くちびるを引き結んで黙り込んでしまった。
 うつむいた彼女の白い顔に長い髪がさらさらと降りかかり、表情をうかがおうとする雨達の目から隠してしまう。
 「どうかしたのか?」
 「いえ、何も。」
 みなもは困惑を隠しながら、そう答えて微笑むのがやっとだった。
 ――あたしは何を言おうとしたのかしら。
 それは口にした瞬間、何か違うものに形を変えてしまうような、目が覚めたら忘れてしまう夢のような、そんな繊細なものであるように思われた。

 『目が覚めたら消える夢……。』
 液晶画面にそんな呟きを打ち出して、南の海を思わせる鮮やかな青色をした携帯電話は眠りとしか呼びようのないものから覚めた。
 しかし、画面に浮かべた文字の内容とは裏腹に「彼女」の見た夢は消えることなく記憶――内臓メモリに残ったままだ。
 物に憑(つ)く意思を持った存在、携帯電話に憑いた付喪神(つくもがみ)。それが「彼女」である。携帯電話であるから夢など見るはずがないのに、確かに「彼女」はそれを見たような気がした。寝覚めの悪さを覚えた朝から、煮え切らない思いを抱いて布団に入る夜までの、人間の少女の平凡な一日の夢を。
 その平凡さにはどこか「彼女」を惹きつけるものがあった。教師との他愛ない会話や自分の手で菓子を作る感触、温かく脈打つ胸にわきあがる感情さえ狂おしいほど愛しく、何故かやけに懐かしい。
 そう思うのは”海原みなもという人間の少女を取り込んだ”からだろうかと、夢の中でも同じ名前で呼ばれていたことを思い出しながら「彼女」は考えた。普通の携帯電話のふりをして人間の目に付くところに現れ、それを拾った少女を襲って記憶も体もすべて取り込んだのはつい先日のことである。今や少女の何もかもが「彼女」のものとなったため、まるで自分がその少女自身であるような錯覚が、メモリの中に蜃気楼のごとくデータとして残っているのかもしれない。人間が時に失われたはずの手足の感覚を覚えているように。
 『どうすれば人間になれるのかしら。』
 声を持たず、文字でしか感情を表すことのできない「彼女」は、自分に手作りの菓子を渡す手がないのを悲しく思った。自分の足で誰かの隣に立てるのがうらやましい。電子音や文字などではなく、かわいらしい声で言葉を、思いをつむげるのが痛いほどの憧れとなって無機質な携帯電話の中にただ一つある機械ではない「彼女」の「心」を打った。
 人間になりたい、という願いは付喪神なら大抵の者が持っている。自分の意思ではろくに身動きできない彼らは、”もし人間が一人、器として差し出されたならこぞってそれを奪い、人になる”だろう。付喪神には顕現化するための器が必要なのだ。
 しかし今「ここ」にその器となる人間はいない。「彼女」のいる付喪神の世界に本来人が来ることはないはずなのである。
 『誰も来てくれないなら自分で作れないかしら。』
 「彼女」はふと、一つの可能性に気が付いてそう呟いた。幻肢痛(げんしつう)のようにメモリに焼きついている人間の姿を、「イメージ」を器にはできないかと。
 『あたしは付喪神だもの。イメージに憑くことだってできるかも……。』
 そこで「彼女」は顕現できるほどの強いイメージを作り上げるために、海原みなもの姿やしぐさ、生活などを事細かにくり返し思い起こすプログラムを自分の中に組み上げそれを実行した。記憶を反芻(はんすう)し、忘れないよう心に刻むように、何度も何度も。
 くり返しは機械の器を持つ今の「彼女」にはお手の物である。最適化され無駄のない反復――それはすさまじい速さで回数を重ね、やがて一つのイメージを生み出した。
 青い髪、青い瞳、華奢で長身のしなやかな体、柔らかな声やしぐさ、歩き方、海原みなもという少女が持つ小さな癖までが「彼女」の中で再現され、形となる。そのイメージ通りに体を動かすための意識シミュレートをこなした「彼女」がそれに憑き現実の世界に姿を見せた時、誰も彼女をみなもでないと疑う者はいないだろう。

 「最近、妙な事件が起きているようなんだ。」
 下校時刻に突然家まで送ると言ってみなもの前に現れた雨達は、しばしの雑談のあと、そんな風に話を切り出した。
 「ちょうどお前さんくらいの歳の女の子がふらりと現れ、誰かと一緒にふいといなくなる、らしい。神隠しみたいなもんだ。世間じゃただの失踪扱いでそれほど騒がれていないが、一応注意しておこうかと思ってな。」
 「怖いですね。」
 雨達の話を冗談だとでも思ったのか、みなもはそう言って無邪気に微笑んだ。それから足を止め、曲がり角の先を指差す。
 「送ってくれてありがとうございます。家はもうすぐそこですから、ここでいいですよ。」
 「そうか? それじゃあ、気をつけてな。」
 もし彼女の家族に会ったら説明が面倒かと、自分のうさん臭さを多少なりとも自覚している雨達は、おとなしくその場で手を振るみなもに別れを告げた。長い髪を揺らして去っていく少女の後ろ姿を見送り、駅のある繁華街の方へと戻る。
 しかし、駅の周辺に集まる様々な制服に身を包んだ学生たちの中に、さっき別れたはずのセーラー服姿の少女を見つけて「あれ?」と首をかしげた。
 「嬢ちゃん、家に帰ったんじゃなかったのかい。」
 「あら、あたしはたった今『出てきた』ばかりですけど。」
 雨達をふり返ったみなもそっくりの少女は、彼女とまったく同じ声でそう答えた。
 「何だって?」
 どこからどう見てもよく知った少女であるはずなのに、何か不吉なものを感じて顔をしかめた雨達がうなるように言う。
 みなもの姿をした「彼女」は、まるで長い間牢獄にいて、ようやくそこから解放されたような晴れやかな笑みを浮かべかわいい声で言葉をつむいだ。
 「キャロットケーキはおいしかったですか? それとも、あれはただの夢かしら。」
 そう言ってにっこり微笑むみなもの姿が町中のあちらこちらに見えたような気がして、雨達は悪夢で作ったケーキでも食べたような顔をした。



     了