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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜に泳ぐ 3

ぐらんと大きく身体が傾ぐ。
一瞬、自分の胸のナイフを認め、そのまま視界が天井へと反れる。
優れた平衡感覚が倒れる身体を立て直せないと知らせ、優れた運動神経が純反射的に受け身を取らせに入った。
息が詰まる中で一度激しく床を跳ねた所で、勢いのままに滑りかける流れを手をついて止める。息を吐き出しきった肺がきしみながら広がり、酸素を求めて吸った空気の粉っぽさに咳き込み、それが胸の痛みを主張させた。
腰骨から内臓へせり上げるような吐き気は、かほっ、とからからに乾いた咳をもたらす。
意志で止めることが難しい異物感と実体のないそれを吐き出そうとする衝動に耐えながら、琴美は倒れた時に外れたナイフをちらりと見た。
最前まで自分の胸に突き立っていたナイフは血まみれで、しかし今、衝撃はあれど刺し貫かれた痛みはない。なまじ正確に心臓めがけて飛来したために、下に来ているビスチェ型のボディースーツの最も強固な防御ど真ん中とぶつかったために起きた僥倖だ。あの速度でもう少し心臓からずれていたら、刃は止まることなく肌に到達していただろう。
これを投げた相手は、つまり鬼鮫は、間違いなく一流だ。
「――ハ!」
「がっ……!」
そしてさっきの今で蹴りを繰り出す相手の、咽喉をかっ捌かれた直後の人間とは思えないその動きは異状を通り越して異様だった。
肋骨の隙間へ引っ掛けるように、豊満な胸を下からえぐるように振り切られた爪先に大量出血や呼吸困難の弱さはない。
再び身体全体を宙に跳ね飛ばされ、のけぞらせられながら、更なる戦慄と悪寒が琴美を襲った。
「最近のメイドはナイフもスキルの内ってか、細っこい腕でたいしたもんだ!」
嗤い嘲る音楽記号が至近と言っていい距離で響き、同時に胸倉を掴まれすさまじい力で慣性の只中から引き戻される。
嫌な浮遊感と布の裂ける音とほぼ同時に、額に、頭蓋に激痛が走った。
「……っ……た……!」
まともに頭突きをくらい、正しく撃墜され、血が下がって暗く閉じかける視界の中、開いた襟元から地下の冷気が滑り込んで肌をなでる。
灼熱の眩暈の中その温度の低さにほんのわずかだが助けられ、たたらを踏みながらもかろうじて琴美は三度跳ね飛ばされる事態を防いだ。
おぼつかない足取りと骨に響く苦痛を抱え、それでもふらふらと距離を取ろうとする琴美はしかし混乱の局地だ。
間近に迫られ、鮮血の匂いをかいだからこそ混乱する。
自分を睥睨する両眼にこもる怒気と苛立ちはいい。血泡を吹いたのであろう汚れた口元が乱暴にぬぐわれた跡を残すのもいい。理解できる。確かに自分の振るったナイフは咽喉を切り裂いていた。水音のようなあれはあふれ出る血によって気管をせき止められた状態で呼吸しようとしたが故のものだろう。
そこまではいい。今感じる血臭も証拠となる、凄惨であってもごく常識的な状態だ。
瞬く星のような残像が写りこむ視界にも、首と襟元をおびただしい血で暗く塗り替えた鬼鮫の姿がちゃんとある。
なのにその、血塗れた肌には、傷がない。
それだけの血を流した傷はもちろん、髪一筋ほどの裂け目の痕跡も咽喉にはなかった。
「ちっ、ふらふらすんなよ雑魚が!」
いまや肉でもむしれそうな凶悪な威圧感を伴う両の手が、重心の安定を欠いて後退一方の琴美を追い詰める。
息つく暇もなく繰り出されるそれらを掌を滑らせるようにして流し、そらし、あるいは弾く。身体ごと逃げる余裕はなく、受けたダメージの甚大さから相手の力を利用するというような技術の出せる余力もない。
「弱ぇくせに! タマ取りに来んなら!」
蹴りも拳もこれ以上一度でもまともに当たるわけにはいかない以上、今の琴美にできることは自信の長所の最たる速さでもって回避に専念するということだけだ。
それでも完全に避け切るとはいかないために、鱗を剥がされるまな板の上の魚のように身にまとったメイド服が剥かれていく。
「勝手に腰砕けになってんじゃねぇ!!」
無論まともに受けてないだけで服を通じての衝撃もあるので、鬼鮫の長い腕が繰り出されるたびに琴美に蓄積していくダメージは断続的な悲鳴を上げさせるに充分だった。