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<東京怪談ノベル(シングル)>


黒い童話

 昼がやってくる。図書室の中にも、昇った太陽の光がまっすぐ床に落ちてくる。
 海原みなもは四角い陽だまりの中で本棚と向き合っていた。彼女が立っているのは、図書室の一角。古今東西の童話と絵本が集められたコーナーだ。
 背をあたためる光線が心地いい。本棚にうつる彼女の影と、それをかこむ金色の題字も、太陽に照らされ輝いていた。

 数十分前、彼女はこの図書室へとやってきた。提出するレポートを仕上げるための情報が必要だったからだ。
 幸い、資料はほどなく見つかった。
 小さな書庫には、本が十二分に揃っていた。角がすりきれている本がある。誰も触れた形跡のない、新品同様の本もある。探せば探すだけ、新しい本が顔を出した。

(何か読もうかな)
 両手で資料抱えたみなもが、心の中でつぶやいた。
 目の前には、いにしえの御伽噺たちが眠っていた。
 視界いっぱいに連なる背表紙に片手を伸ばすと、触れる指のわずかな風にほこりが舞う。ふるい皮脂と紙の香りが、鼻の奥をくすぐった。赤いカバーを横へなぞれば、がさがさした繊維が指の腹を刺激する。題字の凹凸を確かめれば、積もったわたぼこりの感触も伝わってくる。
 いったん、みなもの指が、休符を演奏する指揮者のように本から離れた。人差し指がぴくりとふるえた。一呼吸置いた後で、もう一度背表紙の角に指をかける。
 空気の入る隙間もなくきつく並べられた本は、手前にひっぱるだけではびくともしなかった。生まれたのは、爪に抵抗する感覚だけだ。
 軽く息をつく。両腕で資料を抱き込む。
 左手には、新しい絵本のディスプレイがある。腰の高さまでしかない低い本棚は、あざやかな黄色に塗られていた。その上に、光沢のある表紙が並んでいる。女の子が両手で花を抱えて笑っている。うさぎが白い涙を流す横で、カラスたちが空を見上げ物思いにふけっている。
 みなもの好奇心をくすぐったのは、今回は、彼らではなかった。
 視線を右へ泳がせると、金の刺繍で飾られた単色の表紙が並んでいる。
(何か読もう)
 はがれかけた題名をひとつひとつ読んでいく。焦げたレンガの品定めをしているようだった。
 ある本が目に留まった。題字が消えてなくなっている、古い本だ。まっすぐに、背表紙へ指をのばす。角に人差し指をあてて、強くひっぱる。
 不意に、本が棚から逃げるようにするりと抜けた。先ほどの抵抗からは信じられないほどあっけなく。
 彼女は本を取り落とした。背表紙がじゅうたんにぶつかる、くぐもった音。

 読書コーナーにいる客達が、こちらを見ている……と、錯覚する。本棚に隔てられた向こう側から、存在しない視線を感じる。みなもの頬がわずかに紅潮した。
(誰も見ていない)
 自分に言い聞かせるように首を振る。ばらけた髪がまぶたを打ち、ぱさぱさと鳴る。
 足元を見下ろすと、クリーム色のページが見えた。落下の衝撃で本が開いてしまったのだ。
 細く吐かれた息が前髪にかかる。長いため息だった。狼狽や気恥ずかしさがそのまま呼吸になっていた。時間をかけて左足を折り、じゅうたんへ膝をつく。
 拍子と床の隙間に指を差し込み、本を持ち上げた。

「一日だけ、変わっていただけないだろうか」
 背後で、老人がそう言った。


 森の真ん中で、みなもは目を覚ました。
 突然のことだった。しわがれた声の主を振り返る間もなかった。本の真ん中、ページを閉じている紐が金色の光を放った。次の瞬間には、本棚は消えていた。じゅうたんに芝生が生え、太陽は葉に隠れ、壁は大木へと姿を変えていた。
「ああ」
 小さな狼狽が、みなもの口からこぼれた。むせるような新緑のにおいが、肺いっぱいに広がる。
 彼女はオオカミになった。
 腕にも足にも顔にも毛皮が張り付いている。耳が、頭の上でぴくぴく動いている。ためらいがちに辺りを見回せば、首の皮膚がよじれ、たわむ。息を吸い込むと、突き出た鼻が遠く音を立てた。

(あれはオオカミの声だったのね)
 図書室で聞いた呼び声を思い出す。
(あたしと……あたしと変わって、どうするつもりなの?)
 熱い息が口から喉へ流れる。

 オオカミの皮をかぶったヒトの姿は、森によくなじんだ。
 早くなった呼吸や、風を敏感にとらえる濡れた鼻が、みなもの中に森を取り込む。透き通った空気の味。湧き水のせせらぎがかすかに聞き取れる。
 金色の目が潤んだ。灰色の毛皮が風の波紋をぎこちなく写し取った。
(出口を探そう)
 彼女は歩き出した。四つの浅い足跡を残して。

 深い森だった。幾本もの枝が伸び、絡み合い、葉を広げ、厚く空を覆っている。天然の天井を仰ぎながら歩くと、わずかにあいた新緑の隙間から、針ほど細い光が目に飛び込んできた。
 思わず立ち止まり、視線をそらす。
 獣の両腕が、黒い地面を踏みしめている。灰色のごわごわした毛皮に土の粒がくっついていた。粒を払おうと右手を持ち上げた瞬間、妙な感覚が指に走る。よく見れば、黄色く変色した鉤爪が、地面に四本のえぐり傷をつけていた。花壇の土を素手で掘り返したときと同じ感覚だった。唯一の差異は、爪と指の間に細かい砂利がつまらないことだけだ。
 みなもは喉を鳴らした。ため息は低く小さな唸り声になって牙の間から漏れ、緑の中に吸い込まれていった。

 森には道があった。剥き出しになった土はよく踏み均されていた。両側からアーチを作る老木たちは、曲がりくねった根で色とりどりのキノコを抱いている。木々の間にたたずむ黒い岩は苔をまとい、苔は水滴で飾られていた。若葉をすべり落ちたしずくが、みなもの鼻先に落ちて、砕けた。

 オオカミは咳のような声を出した。鼻先で、しずくが溶けて消えた。
 止まっていた前肢が、ようやく冷たい大地を踏んだ。しゃくしゃくと足音が鳴る。ゆれる尻尾が後ろ脚を撫でている。
 意志とは裏腹に、胃袋が弱音をはいた。
 四肢にも皮膚にも、胸の中にも、あらゆる違和感を抱え、彼女は歩いた。


 赤ずきんを見つけたのは、それからすぐのことだった。
 森の中には広い花畑があった。花畑といっても、小さな白いつぼみや、触れただけで落ちてしまうもろい花をつけた雑草が、芝生と共に植わっているだけの場所だ。今のみなもが手も足も尻尾も伸ばして寝そべれば、それだけでいっぱいになってしまうほどの、狭い花畑だった。
 そのそばに、赤ずきんがいた。森の道からわずかにはずれ、茂みと茂みの間から、風に揺れる花をじっと眺めていた。

 みなもの低い視点には最初、赤い布きれが茂みの上にひっかかっているように見えた。思わず足音を忍ばせて近づくと、少女の顔が現れた。ずきんから飛び出した栗色の巻き毛が、額の上で、そよ風と共に踊っている。
 少女の姿を捉えたオオカミは、とたんに瞳を曇らせた。二つの耳を力なく伏せる。止まった脚の下で枯葉がつぶれ、音を立てた。

 赤ずきんが振り返る。彼女はじっとオオカミを見ていた。オオカミの双眸も、少女を見つめ返した。
「オオカミさん、こんにちは」
「こんにちは」
 獣の鳴き声が芯を帯び、はっきりと言葉をつむぐ。
「何してるんですか、赤ずきんさん」
「おばあちゃんのおみまいにいくの」
 顔をほころばせ、抱えたバスケットを持ち上げてみせる。

 オオカミも笑った。濁った笑い声だった。
「ごちそうと、あなたの笑顔があれば、おばあさんはすぐ元気になりますよ」
「うん!」
 ますます表情を輝かせ、赤ずきんは大きくうなずいた。かごの中でワインが転がり、かぶせてあったハンカチがずれる。焼きたてパンのにおいが溢れてただよう。たっぷり塗られたバターが、熱で溶ける音がする。
「ねえ、オオカミさんはどこにいくの?」
「あたしは」と言いかけ、咳払いをする。口の中が乾いていた。
「わたしは、このまま森の外に出るつもりです」
 鼻で道の向こうを指してみせる。
「外?」
「そうです」
 少女も森の奥を見つめた。肩の上で髪が揺れる。
「いいな」
 オオカミは彼女を見上げた。

 草木の合間から差す太陽の光が、一人と一匹の輪郭を金色に染めている。

「さあ」
 先に口火を切ったのはオオカミだ。
「早く行かないと、パンが冷えてしまいます」
「そうね」
 赤ずきんがバスケットを抱えなおした。
「じゃあね、オオカミさん」
 片手をひらひらと振り、彼女は駆け出した。ベイビーブルーのスカートがふくらんだ。


 赤ずきんを見送ったオオカミは、花畑を眺めていた。
「あたしは、『赤ずきん』のオオカミ――」
 後ろ足を折り、露の残る芝生に座る。尻尾を丸め、地面を撫でる。花畑の先を見守る瞳の陰りはますます濃くなっていくばかりだった。
 白い花弁に日光が落ちている。研ぎ澄まされた嗅覚に、かぐわしい花のにおい。ミツバチが耳の傍をかすめ、すぐ傍の白い花に降りた。ぎゅうぎゅうに固められた花粉のだんごは、いまにも弾けてしまいそうだった。
 深い森の花園から、甘いまばゆさが溢れてゆく。光の流れが灰色の毛皮に当たり、割れて、森に飲まれていく。
 オオカミはゆっくり振り返った。光の流れはやはり、森の入り口で土と木々に吸い込まれて消えていた。
 遠くへ目を凝らす。
 道を隔てた向こう側へ。
 そこにも光が見える。
 森はそこで終わっていた。

 みなもはあっという間に駆け出していた。四つの脚がかわるがわる地面を叩き、土くれを弾き飛ばす。
 太陽の明かりに見えたのは、まがえようもない都会の景色だった。道を切り裂き、木の根を飛び越す。低木の枝が折れ、体中を引っかいた。
 その向こうに町が見える。灰色の空を支えて聳え立つビルの下で、数え切れないほどの人影が行き交っている。
 だが、彼女の足は、はたと止まってしまった。
 森から飛び出そうとしたところだった。獣は弾き飛び、地面へ叩きつけられた。短い悲鳴がひびいた。外の世界が、みなもを拒絶した。透明な風船にぶつかり、押し留められたようだった。爪を立てた前足がむなしく空を切る。震える喉から、細く甲高い鳴き声があがった。
 なんとか立ち上がり、もう一度そこへ飛び込む。どれだけ体を押し当てても、空気の壁は破れない。かわるがわる下ろす脚が何度も枯葉を砕く。
 目の前には、見慣れた街が広がっている。排気ガスのにおいさえしてきそうなほど近くに。
 唸り声と共に牙を剥く。重く荘厳な声質は、それ以上に悲痛だった。

 だがその唸りもすぐに消えた。
 町の景色はいまや、彼女の目には、映像のように映っていた。
 空もビルも人々も道路も、見える だけ だった。遠景はかすみ、人々の顔に霞がかかる。首は回らない。人々がどこへ向かっているのか確かめようと目を動かしても、景色が固定されていて、動かない。写真を目の内側に貼り付けたみたいだ。
 コンクリートの世界へ飛び出そうとしていた脚を、ようやく止める。
 人々がみな同じ顔をしているのが、よく見えた。

 喉から吐き出される息のリズム。舌の根元が湿る。腹の中が、空気で満たされていく。
 首は突然自由になった。都市から目をそらし、森へと戻る。足の裏が草を押す。折れた緑の雑草が香る。

 その嗅覚が、懐かしいにおいを捉えた。赤ずきんのにおいだった。彼女は道からはずれ、オオカミを追ってきたようだった。茂みと茂みの間に腰を下ろし、スカートをたくし上げている。その中に小さな花園があった。抱えきれないほどたくさんの花が、彼女の持ち上げられたスカートの中で眠っていた。
 視線を持ち上げると、低く太い木の枝に、芳香がただようバスケットが掛けられている。その中にも、色とりどりの花がささっていた。

 荷物をそっちのけで森の外を覗いていた少女に、獣の忠告が飛んだ。
「こら、寄り道なんかして」
 赤ずきんは驚いて顔を上げた。が、すぐにうつむく。
「だって、お花が」
「お嬢さん、あなたは道の外にでてはいけないんです」
 喉を鳴らし、吼える素振りを見せる。
「さもないと」
 軽くかぶりを振り、口を薄く開く。
「食べてしまいますよ」
 並んだ白い牙を、わざとらしく噛み合わせてみせる。
 口を尖らせながらも、赤ずきんはしぶしぶ腰を上げた。スカートの上から花弁がこぼれた。

「さ、いきなさい」
 華奢な膝を、鼻面で押しやる。
「おばあさんがパンとワインを待っていますよ」
「お花は?」
「そのかごに入っているものだけで、十分ですよ」
「わかった」
 こっくりうなずき、スカートから手を離す。根元からつまれた花も、とれてしまった花びらも、オオカミと少女の間に落ちた。あの花畑よりはずっと狭いが、白いじゅうたんが一枚敷かれた。
 少女はスカートを叩きながら背を向け、木の根の上に上った。背伸びをしてバスケットを手にとるのを、オオカミが見届ける。

「ねえ、オオカミさん」
 小さな背中だった。
「あなたは、今までで一番、すてきなオオカミよ」

 オオカミは目を瞬かせた。
「どうして?」
 返事はなかった。



 彼女が去った後、みなもは再び都市を眺めた。
 都会の景色は、先ほどと何もかも同じだった。かがんでも、背伸びをしても、どれだけ首を回しても、「『同じ場所を同じ角度から見ている映像』を見ている」。
 目を閉じる。目を閉じると、夜の景色が見える。はじめはものの輪郭だけが映っていた。目をつぶりながら目をこらすと、夜の町がじわじわと浮かんできた。目を開けば、昼の町が見える。

 みなもは感じていた。前進の皮膚とオオカミの毛皮が癒着していくことを。
 頭の中で、ぱりぱりと音がする。肌を覆っていた毛皮が、肉体を侵していくのがわかる。
(オオカミになってしまうんだ)
 悲しみでもなく、落胆でもなく、納得でもないつぶやき。
 受容だと、みなもは考えた。
(ならばあたしは、どんなオオカミよりもすてきなオオカミになろう)

 景色が鮮明になった。オオカミの目とみなもの瞳が、ひとつになったのだ。
 視覚だけが鮮明になる。タイルのヒビも、コンクリートのくぼみのひとつひとつも分かるくらい鮮明に。音は聞こえなかった。それは彼女にとって、とても奇妙な感覚であった。人々が横断歩道を渡る足音や、車のエンジンの音さえしない。それでも、白線のわずかな厚みが作る影を見つけられたし、タイヤの滑り止めの奥に挟まる泥の粒の数までわかる。

 だからみなもは彼女を見つけた。
 それはみなもだった。オオカミの皮をかぶっていない、正真正銘の人間の姿をした、海原みなも、だ。
 彼女は、高層ビルの一階にある小さな喫茶店のテラスで、モーニングセットを頼んでいた。メニューを広げる指の第一間接のくぼみが見える。その指が差す料理の値段もわかる。
 いつものあたしだわと、オオカミが一人ごちる。
 サンドイッチを咀嚼する、もう一人のみなも。レタスのちぎれる小気味いい音を想像する。塩と水滴が散り、皿に置かれたもう一枚のパンを湿らせる。
 オオカミの腹が鳴った。胃袋がぺちゃんこになっている。乾いてしびれる舌が、パンに塗られたバターの油と、野菜の水分に溶ける食塩を、舐めたがっている。
 このオオカミの、本来持っているオオカミ的本能と、今宿っているみなもの理性が、明らかに浮かび上がってきた。
 オオカミになったみなもの口の端から、一筋、涎が落ちた。理性がそれをもみ消そうとしていた。

「ねえ!」
 オオカミが吼える。「あたしにあたしを返して下さい」
 向こう側のみなもが顔を上げる。
「だめ。海原みなもは、あたしなの」
 両手で持ったサンドイッチを、二つに割る。
「やりたいことがあるの。夕方まで待って」
「どれくらい、待てばいいんです?」
「五時間。五時間でいいわ。それまで待って」
 みなもになったオオカミが首を振った。
「大丈夫。あたし演技は上手いのよ。誰が見ても、あたしは『海原みなも』」
 小さくなったサンドイッチを一口で飲み込み、笑う。
「だてにオオカミ役を繰り返し続けてないわ。『みなも』役だって、へまはしないから」


 オオカミは地面を蹴った。
 五時間。五時間も、空腹を耐えられるはずない。
「あの子に頼めば、ひとつくらいパンを分けてくれる」と、みなもが言う。
「違う」と、オオカミが言う。「『赤ずきん』のオオカミは、赤ずきんを食べなくてはいけないから、おなかがすくの」
 低木の茂みを突っ切れば、すぐに道へ出る。鼻をならせば簡単に、赤ずきんの揺れる髪のにおいを探ることができた。パンとワインのにおいも残っている。花の香りも、かすかにする。
 獣は光より早く走った。筋肉が躍動する。全身の毛並みが、燃えるように逆立つ。

「オオカミはパンを食べれる?」
「無理よ」
「それじゃあシチューは?」
「食べれないわ」
「木の実も食べれない?」
「食べれないの」
 はっきり聞こえる自分の声と、心で問う獣の声。
「でもあたしは食べれるわ」
「でもあなたはオオカミよ。今パンを食べれるのは、あたし」
「あなたはあたし」
「あたしはあたし」

 オオカミの体は老いていた。みなもにはそれがわかった。
 息は荒くなり、鼻がきかなくなる。泥と人間のにおいが混じって届く。四肢の間接が腫れ始め、ぎしぎし音をたてている。目が乾いてくる。だらしなく垂れ下がる舌に、空気がしみる。
 苦痛に顔をゆがめ、足を止めた。
 赤ずきんの行方を確かめようと、地面のにおいをかぐ。

 それから彼女は走り出せなかった。
 人間達のにおいが、踏み荒らされた泥と草のにおいに混じり、判別できなくなってしまったのだ。森の中に住む獣と人々が頻繁に行き来しているその道で、赤ずきんのにおいだけを選び出す方法を、みなもはもっていなかった。
「あたしはオオカミなのに」
 と、オオカミは言った。

 だが、手がかりはあった。
 道の上に点々と、白い花弁が落ちていたのだ。誰かに踏みにじられた花びらは、道と同化し、舞い散ることなく残っていた。においを確かめる。たしかに、あの花畑とおなじにおいがした。

 みなもはたどり着いた。レンガ作りの、古い屋敷に。
 玄関をくぐる。庭は静まり返っていた。枝葉の合間を縫って落ちる日光をたどって、ふらふらと歩く。そこかしこに、住人の生活の痕跡があった。干されている鍋、水気の残る植木鉢。シチューの具にしたのだろう、土に半分埋もれた動物の骨。
 すべてが獣の五感を刺激した。
「赤ずきんさん」
 萎縮する胃の鈍痛に耐えながら、声を張り上げる。
「わたしにもパンを分けてくださいませんか」
 静まり返った森に、遠吠えはよく通った。
 庭を横切り、裏へ回る。窓は高くに取り付けられていた。後ろ足だけで立ち上がり、窓のふちへ前足をかけようとするが、届かない。
 座り込んだオオカミは、前足の爪を見た。やわらかい土に食い込んだ、美しい爪。
 耳を澄ますと、屋内の物音が聞こえる。煮えるスープの音、食器の重なる音、引かれた椅子が床を引っかく音。少女と老人の笑い声。

「彼らを食べなければ、ここから出れないの?」
 オオカミは空に向かって言った。空は答えた。
「そんなことないわ。もう少し待って」
「それとも」
 か細い声が、牙を乾かした。

 ふと、扉の開く音がした。
 オオカミは走った。窓から離れ、角を曲がり、庭へ飛び出す。

 銃声。
 鋭い悲鳴が上がった。
 銀の銃弾が、みなもの身体を貫いた。

 玄関に紅のじゅうたんが敷かれた。開いた扉の闇に浮き上がる、青いスカートと赤の斑点。両手で顔を覆い震える少女が、甲高い音を発しつづけていた。
 地に伏した獣を挟んで、男が一人、硝煙を上げる銃を抱えている。

(そうか)
 倒れながら、みなもは思う。
(あたしはオオカミだった)
 首を焼き千切られたような痛みと、溢れる血液の流れと、胃まで届く鉄の味を、他人事のように感じながら。

 狩人には、彼女らの姿がこう見えたはずだ。
 家の周りをうろつく飢えたオオカミが、涎を飲み込みながら、住人の出入りを待っている。気配に気づいた赤ずきんがドアを開けた刹那、飛び掛る獣。
 だから彼は銃を放った。人間を助けるために。

 オオカミのみなもは見た。みなもの姿をしたオオカミが、森の外のガラス越しに、こちらを覗いているのを。その瞳は金色に輝いていた。何かを探す獣の目だった。

「あたしはオオカミじゃない」
 オオカミが言った。
「あたしは人間。森の外にいるの」
 その声は血の泡にまみれ、ごぼごぼという雑音になった。
「どうやって外に出ればいいの?」
 広がる赤い液体は、黒い地面に吸い取られていく。赤は草と草の間を縫うようにして流れた。

「赤い花束ができるな」
 と、誰かが言った。


 オオカミの視点は消えた。


 図書室の隣には、簡素な食堂がある。間を仕切る窓からは、椅子に座るみなもと、机に乗った本が見える。本はぴったりと閉じられていた。となりには、無地のノートが一冊開かれている。その横には、皿に置かれたサンドイッチ。
 ノートの中には、物語が丁寧な文字でつづられていた。添えられているのは、鉛筆だけで描かれた挿絵。何度も何度も書き直されたのだろう、消しゴムで消されつづけたページがすっかり擦り切れてしまっている。
 背中をまるめて鉛筆を握っていたみなもは、書かれた物語を、最後からさかのぼって読み直し始めた。
 陽光が部屋を暖め、閉じられた本の題字を照らしている。
 最後のページは空白だ。その前のページも、消しゴムで消され、真っ白になっている。
 そのひとつ前には、家の周りをうろつくオオカミが描かれていた。それを見つけて驚いている猟師の上半身が、書き足されている。
 鉛筆を握り、なんどかページをたたく。挿絵を眺め、閉じた本の表紙を眺め、眉間にしわを寄せる。

 彼女は花を描いた。そしてそれを消した。
 赤ずきんと共に食事をするオオカミを描いた。そしてそれも消した。
 そして最後に墓を描いた。やはり、それも消した。

 なんどもなんどもかぶりを振り、鉛筆でこめかみを押さえる。
 紙コップが倒れたのは、消しゴムのカスを払い落とそうと、ノートを持ち上げた時だ。軽いまぬけな音がして、コーヒーが音もなくテーブルの上へ広がった。あわててコップを拾い上げるが、もう遅い。熱いコーヒーがノートへ流れ出た。
 繊維の一本一本に染み込む液体は、まるで満開の黒い彼岸花のようだった。湯気を立てるコーヒーは、ノートの最後のページに、くっきりと跡を残した。
 ほのかに熱を持ったノート。ふやけた薄いページはすぐに裂けてしまうだろう。においは、ノートが破り捨てられるまで、ずっとついたままだろう。
 黒く変色した紙に、物語は描けない。
 だから、この物語には、終わりはない。
 こうしてまた、誰にも読まれない御伽噺がひとつ生まれた。