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<東京怪談ノベル(シングル)>


準備は念入りに
 平和主義を謳う日本で、武力組織が存在することを一般の人々は知らないだろう。
 かつんかつんとハイヒールの踵を鳴らして小走りに廊下を進みながら、白鳥・瑞科はそう通り過ぎる人々を横目で見やっていった。
 こんな平和な国こそが、秘密組織、結社の動きやすい場所であることを限られた人だけが知っている。魑魅魍魎が跋扈することすらも、決して公にはなっていない。
 はあっと息をついて瑞科が入ったのは、とある企業のビルにある会議室だった。まだ歳若い女性である。グレーのタイトスーツは裾口に黒のレースをあしらったもので、瑞科のお気に入りだった。胸元が開いたデザインであるそれに、白のブラウスも清純的でありつつ可愛らしさを演出している。
 廊下を走ってやってきたため少々暑いとは思いつつも、育ちの良い彼女は着衣を乱すことはしなかった。照明の落ちているその会議室で、最低限の電灯だけは点灯させる。つい先刻まで会議が行われていた部屋には、いくつかの湯飲みが残されていたり、椅子や机が若干乱れていた。先刻呼び出されたのはこの部屋の片付けのためだ。半分は湯飲みが片されているが、もう半分は手つかずになっている。
 手にしている木製のトレイで残りの湯飲みを片し、机と椅子を使われる前の位置に戻す。……途中、瑞科は不意に机の下に手を入れた。
 長机の裏、手が探るように動く。目的のものを見つけてぴたりと手を止めた。誰もいないことをちらりと視線を巡らせて確認し、机の下から取り出す。四角形に折りたたまれたA4サイズのコピー用紙だ。知らない人間が見れば、誰かの悪戯かメモかにしか見えないだろうが、瑞科にとってみれば会議室の片づけなどよりずっと大事なことだった。


 通達No.198336276

 某県において進められている実験の阻止。また実験部隊の殲滅を命ず。
 森林内にて行われる大型貨物自動車を使用した実験であるため、逃げられぬよう厳重に注意すること。
 通達捕捉、始末完了報告等は使者No.628へ行う。


 さらに詳しい場所や内容を確認したあたりで、瑞科は視線を上げた。キイ、と蝶番が鳴る音に反応したのだ。
「確認しましたか?」
 抑揚のない声は女性のものであると分かった。見なくとも分かる。「教会」の使者である。
 「教会」……瑞科が所属している秘密組織を指す言葉だ。普段は「教会」が隠れ蓑に用意しているこの企業で働いているが、有事の際にはこうして「教会」からの指令を受けて任務をこなすのが、武装審問官と呼ばれる地位につく瑞科の本来の仕事である。
「確認いたしましたわ。問題ありません」
 優雅な言葉遣いは柔らかく、彼女の受けた教育の良さを露わしていた。ブラウンのロングヘアーが揺れ、日本人離れした青い目が少し細められた。
「実験は生物兵器の開発に関わるものです。非人道的・反論理的な実験の。あなたには他の人員を応援として呼ぶ権利も与えられていますが?」
 「教会」使者のこの文句は恒例のものだ。彼女らも仕事なのだろう。テンプレートと化しているその質問に、いつも瑞科はこう返していた。
「必要はありませんわ。わたくし自信がありますのよ」
 あくまで優しげに返答する彼女の笑顔は、言葉を裏付けるには十分すぎた。瑞科が自負するのも当然である。彼女の任務遂行率は100%だからだ。
 一切失敗したことがなく、またその達成度も完璧の一言に尽きた。その言葉以外で表現するものは何もない。ただただ、完璧なのだ。標的に触れられたことすらもない。
 そんな彼女の優秀さは「教会」内でも知れ渡っている。だから彼女は自信と余裕を兼ね備えているのだとも。だのに聖母のように優しい。
 使者もそれ以上は言及しなかった。内容全てを脳に叩きこんだ瑞科は、その通達内容が書かれた紙を使者へと返した。使者がその紙に触れれば、あっという間に紙が燃えて僅かな灰は舞って消えた。そういう能力の持ち主なのだろう。
 使者が会議室の壁にそっと触れる。すると壁の一部が切りだされて扉へと変わった。ハイヒールのかかとを鳴らして中に入り込んだ彼女は、その隠し部屋のロッカーを開ける。
 音もなく戸が閉まったのを見計らい、優美でありつつも大胆な動作でスーツの上着を脱ぎ捨てた。ミニのタイトスカートも、ブラウスらも脱ぎ、ロッカーに納められていたコルセットを身に付けた。
 胸を寄せてフィットするように調整し、ずれてはいないか身体のラインをなぞった。ニーソックスに編み上げのロングブーツは膝まだある長さであり、戦闘にも十二分に耐えうるものだ。
 修道女の着るようなシスターの衣装を着ると、美しい脚を覗かせる深いスリットに手を入れて衣装をまっすぐに正す。ぴったりと身体のラインを現すその修道服も、戦闘用に作られた最先端の素材でできているものだ。衝撃を吸収するが、薄く邪魔にならない。
 白のケープを颯爽と羽織り、花嫁がつけるようなヴェールに白の手袋を身につけて完了である。レースで装飾された手袋は彼女の優美さを際立たせた。
 ケープを羽織っていなければ、その魅力的な肢体で注目を浴びてしまうのだろう。幸い夕闇迫る時刻に差しかかってきたため、人目を忍んで出動すれば問題はあるまい。それにここは「教会」の息がかかった企業である。地下から移動手段が手配されているはずだ。
 両の手で肩にかかった長い髪を避け、口元には笑みが浮かぶ。
 色艶のある身体を服の下に隠して、ハイヒールに代わってブーツの音を意気揚々と鳴らしながら。
「お待ちになっていらしてね。今……向かいますわ」
 赤い舌が、ちろりと唇をなぞった。
 彼女の出撃である。