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<東京怪談ノベル(シングル)>


羽は芽吹く



 他の人から見た自分と、自分自身が思っている己の性格とは必ずしも一致するとは限らないらしい。
 というのも、今日は友達からこんなことを言われたから。

「みなもって、姉妹だったよね? 一番上だっけ?」
「ううん、あたしは真ん中なの」
「うそー! でも、みなもはしっかりしているから凄いよね」
 ここまでなら、あたしは苦笑いして終わっていたと思う。いつものことのように「家族は忙しいから、自分でしなくちゃいけないことが多いの」って言いながら。
 でも今日は違っていた。
 別の友達がこう言ったのだ。
「みなもって、何でも出来るよね!」
「そうそう〜。私が出来ないことでも、みなもはササっとやっちゃうんだよね! 私を軽く飛び越えて行っちゃうの」
「それはあなたがダメなせいもあるでしょ〜。みなもは完璧なんだから、あなたと比べること自体が失礼なの!」
 そう言って笑い合う友達。
(……違う)
 友達は、単純にあたしのことを褒めてくれているだけ。
 悪意がないのはわかる。
(でも、違うもの……)
 あたしには出来ないことだらけ。家事と勉強。人間と人魚の間に挟まれて、いつも迷ってばかりいる。何かで一番になった記憶もない。みんなに置いていかれないように、地道に勉強して、人魚の能力を高める練習をして――それでやっと人並みに追いつけるくらいなんだから。
 天才でも秀才でもない。人間でもなければ人魚でもない。完璧な存在になんかなれない。それがあたしだった。


 自分で考えているよりも、あたしは落ち込んでいたらしい。
「…………うぅ」
 なかなか寝付けなかったのに、目を覚ましたのは夜の二時だった。
 ――背中が汗で濡れていた。
 起き上ると胸の谷間からお腹の窪みまで汗が垂れていって、寒気がした。頬に張り付いた髪を指で梳いて、あたしはため息をついた。
 ……嫌な夢だった。
 夢の中では、あたしは抜き打ちテストを受けていた。見たこともない英単語が並んでいて、周囲からは答えを書き込む音だけが聞こえる。あたしは自分の白紙の答案と向き合いながら、指が震えそうになるのを堪えていた。
(本当に嫌な夢……)
 汗を拭いて下着を替えても、また布団に潜り込む気にならなかった。
 眠気も飛んでいたし、今寝ている場合じゃない気がしたのだ。深夜だって言うのに、変だけど。
(…………)
 何回か寝返りを打ったあと、あたしは明りをつけて机に向かった。
 どうしてもあの夢が気になって眠れないなら、いっそ少し勉強した方が良い。焦る気持ちが静まれば眠れる気がしたからだ。
 宿題はもう済ませていたから、本棚から参考書を取りだした。今から計算問題をやるのは頭がハッキリして逆効果になりそうだったから、英単語を覚えよう。問題を解く訳じゃないから、眠くなったときにすぐやめられるし……。
 ページをゆっくりと繰っていく。このページはもうやったし、次のページも、その次も、もう……。
 ――懐かしい香りが、あたしの鼻腔を通りぬけていった。
 お日さまに当たった本の匂いだ。この参考書は、数か月の間、本棚に置いたままだった。本は変色していないものの、雪色の薄いカーテンを通して、淡い陽の光の湖へ浸されていったのだろう。
(最近は開いてなかったものね、この参考書……)
 本はインテリアじゃないのにね。自分に苦笑いしたくなる。
(あれ? でも……待って)
(理由があった気がする……この本を開かない……理由……)
 そのとき、参考書から何かが落ちた。
 それは風も切らずに、ゆっくりと、柔らかく机の上に着地したのだった。

 ――純白の羽。

 次の瞬間、あたしは身体中の毛が逆立った気がした。
 その羽が何を示すものなのか、何でこの参考書を開かずに置いていたのか。その理由を明確に思い出した。
(天使病……!)
 羽を介して、触れるものを天使にしてしまう、あの病。
 なのに、今、触ってしまった!
「だめ!」
 咄嗟に自分の肩を抱いて、爪を立てた。今の内に抑え込めれば、と思った。
 ギリギリと、鋭く爪で刺激している肌――よりもっと深いところから、神経が、血液が、鼓動が、息付き始めるのを感じた。ズクズク、ズクズクと、内側から外側へと幾度も突いてくる。あたしではない生命が蠢いているのだ。
「…………だめ……」
 ――捩じれた声があたしの唇から零れていった。
(完全に抑え込むには……もう……遅い……)
 椅子から転げ落ちても、あたしには起き上る力さえ湧いてこない。
 身体の中を流れている血が、蛇のように畝っていた。
(目覚めちゃったんだ……天使が……)
 その衝撃は、天使の目覚めと表現するには生々し過ぎるものだった。


 数分の間が永遠にも感じられた。身体は石のように強張っていたけれど、あたしの意識は天使病によってグニグニと潰れて消えかかったり、そうかと思えば突如として膨れ上がったりしていた。
「あああああぁぁぁああああ……」
 痛みに耐えられなくなって悲痛な叫び声を発していた筈なのに、だんだんと自分の心持ちがわからなくなってくる。
(だって天使になれるんだから)
(純粋な存在になれる)
(自分に落胆しなくて済む、もう、何も感じなくても――)
 肌から溢れ出て来そうになる、幾つもの羽たち。その焼けるような痛みを待ちわびていたような錯覚さえ――。
(だめだめだめだめだめだめだめだめだめだめ)
 あたしは自分自身に鞭を振りおろすような気持ちで、幾度も流されそうになる意識を留めていた。我を忘れてしまったら最後、あたしの身体は天使に侵されてしまうだろう。それだけは避けなければいけなかった。

(逆にこれはチャンスなのかもしれない)
 と、あたしは自分を勇気付けた。
 この天使病を制御することが出来れば、あたしは自分自身の能力に対して自信を得られる。
 だって、以前出来なかったことが、ここ最近の経験を経て出来るようになったことが証明される訳で――これはとても嬉しいことだから。
 そして同時に、自分を安心させられることでもある。
(……落ちこぼれ人魚じゃないんだ、って思える筈だから)
 劣等感から生まれる希望。それがあたしの意識を繋ぎとめていた。


 左目の瞼に同化している“逆鱗”で羽をつぶさに観察すると、やはり羽から一筋の光が零れている。
(これが神力……?)
 あたしには判断がつかないけれど、この光の輝きは生命の瞬きのよう。触れることによって、その瞬きを体内で共有することになってしまう――、
「…………ッ」
 あたしは自分の体内に入り込んでいる、その光を包み込むように、ケリュケイオンを光の中へ混ぜていった。
(体内で行うのは初めて……)
 ――ピクン。つま先が小鳥のように微かに震えた。
 ケリュケイオンの金属的な感触と、温かな天使の生命が融合していくのは、何だか変な感じ。
 痛みを通り越して、くすぐったいような、身体を引っぱられるような――。
 甘い声があたしの唇から零れた。
 あたしは理性と本能の間で、軽く身体をよじったり、ピンと伸ばしたり。猫のように、しなやかに動く。
 ケリュケイオンを混ぜてさえしまえば、天使病を制御するのはずっと楽になった。
 ――と言っても、暴走しない程度に防げる、というだけだけど。
 羽を一枚一枚折りたたむように、あたしの肌の下へ仕舞い込んでいくのだ。肌と羽が擦れるような感触のせいで、あたしは何回も笑いそうになるのを我慢しなければならなかった。
 ……もし笑い転げてしまったら、勢い余ってたくさんの羽を皮膚から出してしまいそうだったから。天使というより、不格好なヒヨコみたいに。
(初めてのことなんだから、ゆっくりやっていけば良いもの)

 そうして、あたしなりに天使病を制御出来た――と感じた頃。
 あたしは鏡を見ながら、優しく自分の肌を撫でてみた。頬を触って、首筋を通り、鎖骨の窪みに指を滑らせて、胸の膨らみをなぞった。
 撫でていくと、小さいけれど不自然な凹凸が肌にあって、肌に隠された羽の存在を感じられる。
 鏡に映った姿は、遠目ではいつもと同じ姿に見えるものの、近付いて見れば違う。白い肌が薄く透けていて、その中では真っ白な羽が微笑むように広がっていた。
 以前、天使病に罹ったときとは違う結果だ。
 ……出来たんだ、あたしにも。

 あたしはもう一度肌を撫でて、ゆっくりと息を漏らした。
 ――肌の奥から、ひとつの生命が甘く香り立つような気がした。



終。