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<東京怪談ノベル(シングル)>


【Angel Fingertip2】

 屋根の一部が崩落し、空の青さがくっきりと露になっている。雲間から降りる光の階のような陽光に、廃墟内で舞う塵が奇妙な輝きを持って白鳥・瑞科を覆っていた。
「降伏を認め、武器を放棄し、従うと言うのであれば貴方の身の保障はいたしましょう。ですが」
「俺は」
 朗々と語る白鳥の言葉を、霧嶋・徳治こと鬼鮫が遮った。
「いたぶるのは好きだがねぇ」
 組織から受け取った彼の調査報告書を思い返し、改めて鬼鮫という男の残虐さを体感した。
 彼が残虐非道な行いへ走った、元々の原因も報告書には記されていた。妻と娘を殺された――男の心に易々と復讐心は宿っただろうし、実際に復讐も果たしただろう。だが、そこに同情の余地は微塵もなかった。
「貴方はお好きでも、それを良しとしないのですよ」
 白鳥は、晴れた青空へ僅かに視線を向けた。
「神は」
 その名を口にするには、白鳥の姿はあまりに扇情的過ぎるが、彼女にとってそれは瑣末なことだった。
 視線を鬼鮫へ戻すと、無愛想なままだった男の顔が不敵な笑みで歪んでいた。
「神なんてモンをおまえは本気で信じているのか?」
 大仰に顎を突き上げ、ひたすら人を見下す侮蔑にまみれた鬼鮫の双眸を前に、白鳥はあくまで冷静を保つ。
「そんなモンが実際にいれば、俺はこんな風にはなっちゃあいないと思うんだがな」
「貴方が堕落した原因は神にあるとおっしゃるのですか?」
 はあ、と呆れたように溜息を吐き、
「貴方が犯した罪は、“貴方だけの”罪ですわ。そこを履き違えないでいただきたいですわね」
「そうか。それなら仕方がない。赦しがないなら降伏する必要もないってことだ」
 鬼鮫が肩を竦めて言った。
「むしろ、赦しなんてぇ見下し論なんざ、こっちから願い下げだがな――ッ!」
 ダークブラウンのロングコートを翻し、白鳥へと突っ込む鬼鮫。鈍く光る黒い革手袋をみしり、と鳴らしながら握り込み、防御の体勢へ入った白鳥の脇腹に拳を叩き込んだ。
「つッ――」
 咄嗟に左腕のガードを下げ、直撃を避けはしたものの捻りが加わっていた打撃は容赦なかった。
 ボクサーさながらの拳を連続で打ち込んでくる鬼鮫に白鳥は辟易したが、深緑の瞳は単調なパンチの軌道を見切る。
 幾度目かの拳が白鳥の頬を掠めた時、サイドステップで横へ飛び退ると同時にナイフを投擲して牽制した。
 乾いた音を立てながらナイフが鬼鮫の足元へ突き刺さると、さすがの狂人も足を止めた。息も切らさず、距離を取った白鳥をひたすら見つめ続ける。
 白鳥の柔軟な肢体はそのおぞましい視線を柔らかく跳ね返す。編み上げブーツの下で、砂が食まれた。刹那、白鳥の姿は鬼鮫の視界から消え去った。
 青空を背に剣の切っ先が瞬く。
 だが、打ち下ろした先に鬼鮫の身体はなく、ガツンとした硬い床板を叩き斬ったに過ぎなかった。すぐに剣を持ち上げ、鬼鮫の姿を探すと視界の端に動く黒い影をみつけた。視認と同時にナイフを投擲。
 その内の何本かに手ごたえを感じたが、対峙した鬼鮫は気にも留めずに自らの身体からナイフを引き抜いていた。
 コートの下に防御服があることを察した。たぶん防弾も兼ねているのだろうから、投げナイフで深手は負わせられない。
 鬼鮫という男は拳闘と近接戦闘が得手なのだろうか。それならば、剣や投げナイフを駆使し徐々に体力を奪い、トドメを刺せば良いかと考えた。
 白鳥は純白のケープの裾を、流すように後ろへ払った。
 標的を円の中心に置き、弧を描くように駆けながらガトリングガンのような勢いでナイフを打ち込む。鬼鮫が逃れる隙などどこにもありはしなかった。
 両腕をクロスさせ、頭を抱え込むように防御一辺倒の鬼鮫の姿はとても滑稽に見えた。
 いくら防御服を纏っているとはいえ、相当数のナイフが全身に突き刺さっている鬼鮫に反撃する余力があるとは到底思えない。
 それでも用心するに越したことはないのだからと、白鳥は剣を抜き、ターゲットの胴を払い抜けた。柄を握る手にも、防御服を裂き、その下で脈打つ肉を叩き斬った感触が伝わる。
 剣を鞘へ収めながら、シスターらしい挙措で振り返った。慈悲深い瞳を、ゆっくりと、男が倒れている床へ向ける。
 うつ伏せになった鬼鮫の下で、血溜まりが瞬く間に広がった。
 ――敗北者の姿だった。
「存外にしぶといですわね」
 ふふ、と白鳥はその美貌を楽しそうに弛緩させた。こちらは勝者の余裕である。
 爪を床板の隙間へ差し込み、起き上がろうとする鬼鮫へシスターの憐れみの言葉が降りかかった。
「その苦痛をすぐにも取り払ってさしあげますわ」
 一度は収めた剣をすらりと抜き、両手で柄を握る。男の頭元へ移動し、高々と剣を上げるとそのまま一気に突き下ろした――
 ガツッッ
 白鳥の切っ先は床板に突き刺さったまま、勝利を確信していた戦闘シスターの表情は醜く歪んでいた。
 食道を上がってくる焼け付く胃液の味と鼻を突く酸の臭い。
 コルセットで柔らかな曲線を描いていた白鳥の腰は、床上から繰り出された蹴りによって大きくくの字に折れ曲がっていた。
 続いて鬼鮫のつま先は白鳥の足を激しく払い、どうと転がす。
「くっ、……」
 両手で腹を押さえ、苛烈な痛みを必死にこらえる白鳥。
(「おかしいですわ」)
 白鳥が数秒前に行おうとしていた一撃は、“トドメの一撃”のはずだった。その一撃を喰らう寸前まで、鬼鮫は確かに虫の息であったはずだ。多量のナイフを全身に受け止め、流血した量もハンパなものでなかった。
 鬼鮫は、まるでコートの埃でも払うような仕草で白鳥が投擲したナイフをバラバラと床へ捨てている。
「っ!」
 堪えきれずに白鳥は吐瀉した。
「なんだ。ゲロを吐いた程度か」
 黒サングラスの向こうで笑っている気がした。そして、眼前の男の顔の裂傷が消えていることに気づく。
 そう――眼前の男の顔には傷ひとつなかったのである。
 白鳥は咄嗟に半身を起こし、距離を取ろうとした。いつのまにこんなに近づかれていたのか。
 神に捧げた御心のように白いロンググローブは埃と血に塗れて薄汚れている。その手を必死に伸ばし、鬼鮫から逃れるように床を這った。
 だが、嘲るように鬼鮫は白鳥のシスター服を裾を踏みつけ、床へ縫い止める。深く入ったスリットは音を立てて裂け、白鳥のふっくらとして太ももを陽光の中に晒した。
 動ける右腕で真横に空を切る。同時に彼女の手から最後のナイフが放られた。一直線に、その切っ先は鬼鮫の眉間を狙い澄まして――だが、ナイフは男の耳の上半分を切り落としたに過ぎなかった。
「わたくしが勝つことは神が定めたものですわ。だからけして負けはありませんのよ」
 再生していく男の耳に愕然としながらも白鳥は抵抗した。
 手数だけ見れば白鳥が圧倒的に多いのだが、一撃一撃がすでに軽いものになってしまい、反対に鬼鮫の打撃は数こそ少ないが重く、白鳥の体力も精神力も削ぎ落としていく。
 鬼鮫のもっとも重要な能力に白鳥は翻弄された。
 シスターは唇をきつく噛み締めた。口角から滴り落ちた赫い血は彼女の肌の白さを際立たせ、それがさらに鬼鮫の嗜虐心に火を灯した。
 超常者を凌駕し、屈服させ、滑稽なほどに命乞いをさせた挙句に嬲り殺す鬼鮫の残虐さは、くしくも白鳥の美貌が加速させていったのであった。