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【Angel Fingertip4】
口の中いっぱいに血の味が広がる。もう何発、鬼鮫の拳を喰らっただろうか。吐き出した、血混じるの唾液が白い胸元を無残に汚していた。
大きくステップを後方へ踏んで距離を取ってみても、すぐに追いつかれ、二度も三度も殴られる。
好機を掴むために床にたまった砂を握り、鬼鮫の顔面めがけて投げつけたが効果はなかった。他人を虐げることを好む、愚劣でおぞましい笑顔を浮かべた鬼鮫は、かかった砂をこともなげに払い、
「早く気を失った方がよかったと後悔することになるだろうがな……残念だが、それは無理な相談だ」
床に転がり、血と埃に塗れて自分を見上げる武装審問官の姿がよほど気に入ったらしい。愉悦に満ちた微笑をためらいもなく向けてくる。
男のその姿に、さすがの白鳥も怖気を背に走らせた。
「うァっッッ!」
おもむろに前髪を掴まれ、顔を上向かせられた。強引に反らされた喉元を狙われれば確実に死が待っている。
「は、離しなさい」
骨ばった鬼鮫の手首を両手で握り締め、その肉へ爪を食い込ませた。
「まったく学習能力のないシスターだな」
ずぶりと爪は男の皮膚の中へ突き刺さり、血管を裂いて血を噴き出させ、さらに奥にある腱をも傷つけているというのに鬼鮫は涼しい顔のままだった。
それはひとえに――
「再生なさるんでしょう? ほんとうにうんざりする能力ですわね」
鬼鮫の温かな血が、白鳥の手首を伝い肘先から滴り落ちる。不快な感触に、白鳥は辟易した表情を見せた。
これまで何度も鬼鮫の身体に深手を負わせてやったのに、男はことごとくそれらを治癒させ、あまつさえ欠損部分さえも再生させてみせたのだ。
正直、勝てる気がしない。
白鳥の心はほぼ折れていると言っても過言ではなかった。
夏の青空を思わせる澄んだブルーアイの虹彩は薄れ、陽光に当たり、眩しくその白さを弾き返していた柔らかな太ももは、恐怖から痙攣を起こしている。押さえようにも、その震えは止められなかった。
(「それでも、ここで諦めるわけにはまいりませんの。だってわたくしは……武装審問官ですもの。そのわたくしがここで折れてしまったら、教会には打つ手がありませんわ。だからわたくしは」)
「負ける、……――わけには、まいりませんの」
手探りと勘で剣を掴み取り、床板へ深々と突き立てる。ぐらぐらと不安定な剣でさえも、今の白鳥には十分な支えとなった。
片方のロンググローブはいつのまにか外れていて、部屋の端の方に放置されていた。白く長い指先は血で塗れ、磨かれて艶やかだった爪は折れてボロボロである。
柄を、ぐ、っと握り、立ち上がった。
その姿に、鬼鮫があからさまな侮蔑の表情を見せて笑う。
「ここまで頑張ったことは褒めてやるが、まあ、なんだ。いい加減寝てろ。面倒臭くなってきたからな」
「面倒臭い、ですって? そんな口、二度と利けないようにしてさしあげますわ」
大きく息を吸った後、一気に捲くし立てた。早口で話さなければ、自分のダメージの程度が鬼鮫に知られてしまうと白鳥は思ったのだろうが、すでに痙攣して立つことも難しい状態を晒しているのだから、あまり効果はない。
「今の……貴方の姿を見て、……いったい……誰が、悲しむと、……ハァ……思っているのかしら」
つい、白鳥の口をついて出た言葉に、鬼鮫の表情が一変した。
白鳥のこのセリフに深い意味も他意もない。一般的な心情を吐露しただけなのだが、凶悪極まりない鬼鮫には鬼門とも言えるセリフだった。
乱暴に足音を立てて近づいた鬼鮫の唇は、ぶるぶると震えていた。それは白鳥の震えとは真逆のもので、怒りそのものだった。
予備動作もなく、鬼鮫は拳の裏で白鳥の右頬を殴りつけた。堪える力など残っていない武装審問官は、なす術もなく横へ吹っ飛ばされ、床上を丸太のように転がっていく。
どうにか剣先を床に突き立て、転がる自身の動きを止めた。白鳥には鬼鮫の怒りの真意はわからないが、はっきりと感じ取っていることがあった。
(「――殺される?!」)
顔を合わせたばかり、拳を交えたばかりにはなかった殺意が、今の鬼鮫には強いオーラとして全身を隈なく覆っているのだ。
(「弱気になってはダメですわ」)
白鳥は頭をぶんぶんと振って、恐ろしい想像を払拭させた。
最悪の状態は考えたが、それも次の一太刀にかかっている。白鳥は、痙攣で動きが鈍い両足で床を蹴った。自分でも遅いことは気づいていたが、構わずに斬り込んだ。
両刃の剣を下段から斬り上げる――鬼鮫がその切っ先を指で払う。
左へ払われた勢いのまま、逆手に持ち替えて、腰を捻りつつ横一閃――ふわりと後方へ飛び退った鬼鮫の、不適な笑みだけが残像として白鳥の記憶に焼きついた。
ぎりりと唇の端を噛み切りながら、今度は鋭い突きを鬼鮫へ放つ――――
「ぐはっ――!!」
視界に映る室内の光景が高速で移動した。自分の顔が真横に向かされたのだと気づいた時には、全身の力は抜け、床へ叩きつけられていた。
頭、頬、肩、腹。そのどれもが激しく痛み、そして意識までも吹っ飛びそうであった。
鼻腔から広がる錆びた臭いが、意識を蹂躙する。たらりと垂れた鼻血を拭うだけの力もない。
敗ける――もう戦えない。白鳥は、鬼鮫と己の実力差を思い知らされたのだ。
「もう」
「もう、なんだ」
鬼鮫の野太い声がすぐ上から降ってくる。落ちた天井の隙間から差し込んでいた僅かな陽光を、男の巨躯が遮って、白鳥の目の前は真っ暗だった。
しゃがみ込んだ鬼鮫へ、視線を向ける。視界がボヤけているのは涙なのだろうか。その感触もわからない。ただ白鳥は、自分の敗北を宣言して、この戦闘を終わらせたかった。
「ゆ、……ゆ、ゆる……――し……ッて」
「……無理な相談だな」
刹那、白鳥の鼻先の床へ鬼鮫の拳を叩き込まれた。視界に飛び散る木片と埃。衝撃波だけで裂傷を負った白鳥の鮮血が飛び散る。
熟れた白桃のようなふたつの膨らみも、男を魅了してやまない真珠色の柔肌も、すでに隠されることなく鬼鮫の目に晒された。
窮屈なほどに彼女を縛っていたコルセットも本来の役目を果たしてはおらず、ぴたりと張りつくようにオーダーメイドされた戦闘服は、はらりと肌蹴けて扇情的な色香でもって白鳥をコーティングしている。
「……ぅっ」
白鳥の最後の記憶と情景は、ずるずると自らの足首を掴み上げ、引きずる男の革手袋の漆黒さと、悲しいほどに青い――澄んだ空の色だった。
鬼鮫暗殺に向かった白鳥瑞科からの連絡は、以降教会に届くことはなかった――。
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