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うつりかわる季節のように
本日最後の授業の終礼チャイムが鳴り終わると、俺はコンマ5秒の速さで席を立った。もちろん教科書ノートの類はチャイムが鳴っている約30秒の間にすでにきれいに詰めてある。ぬかりない。
俺は廊下を走り出す。
「おい、神木ーぃ。割り勘のメンツ集めてんだけどよー。カラオケ行かねー…」
「か」というしまいの声は聞こえなかった。いや、聞こえたがずいぶんと遠くに聞こえた。なぜなら俺がもう廊下の突き当たりを曲がって階段を下りはじめていたからだ。
急ぐのには理由がある。
一昨日はラーメン「一元」で、昨日は「定食 しづや」、今日は喫茶店「木洩れ日」。いや、今夜の飯の話ではない。バイトの話だ。俺は日々、生活費を稼ぐのに忙しい。バイトのない日などほとんどないといってもいいくらいだ。いや、そりゃたまにはオフの日もあるけどな。ちなみに、明日のバイト先は中華屋「カンチャン」だが、それはおいといて、だ。
本日のバイト先、「木洩れ日」の店長は一言で言って、変なオッサンだ。
万事が変で、面接の時からして「おっけぇ」の一言で採用し、「店にいる時間の分だけバイト代を出すよー。突っ立ってても、飯食ってても、マンガ読んでても、寝ててもおっけ。早く来ただけあげちゃうよー」なんて言った。だまされたつもりでためしに次の日曜に5時間早く店に出勤したら、本当に5時間分の時給をまるまるくれたのだから驚いた。ちなみにそのマンガを読んでも寝ていてもいいと言われた5時間を、俺は英語のテスト勉強に充てて過ごした。英語の先生だけはやたらと厳しい。単語テストで6割を切ると、職員室に呼び出されて説教をくらう。そうするとその日のバイト時間に食い込んでしまうからそれだけはなんとしてでも避けたかったのだ。
そんな変わり者の店長がいる「木洩れ日」は、学校の最寄り駅から五つ目の街にある。駅まで線路沿いに走って、駅前から伸びる通りをしばらく行くと、所狭しと込み入って建っていた繁華街らしい店々もだんだんと減ってくる。そのかわりに現れるようになるのが、少し落ち着いた雰囲気の店だ。俺のバイト先である「木洩れ日」も、きれいに刈り込まれた植え込みに囲まれて、そこにあった。
緑繁る植え込みのちょうど真ん中に、つるばらを絡ませたガーデンゲートが繊細なアーチを描いている。ここを潜って店に入る。
まあ、初めてこの入口を見た時は、さしもの俺も思った。ここは俺の来る所じゃなかったんじゃないだろうか、と。
もともと「木洩れ日」がバイトを欲しがっていると教えてくれたのは中華屋「カンチャン」のハゲ店長だった。
なにぶんにも高校生という学生の身だ。高校生のアルバイトは親権者の同意がないとちょっとダメ、だとか、校則はどうなってんの大丈夫なの、だとか、面識がない人間が相手だと面接にいってもあれこれ聞かれた挙げ句に門前払いをくらうことが多い。なので、そういう面倒事をそれとなくパスするためには、知り合いのツテでバイト先を紹介してもらうのが一番なのだ。
だが「木洩れ日」の話を聞いたとき、「カンチャン」はお世辞にも繁盛しているとは言えない店なので、俺は思った。「木洩れ日」とやらいう店もきっとヒマな店に違いない、と。
「カンチャン」が繁盛していないことと「木洩れ日」の繁盛具合はまったく関係ないだろうと言う向きもあるかもしれない。たしかにそうなんだが、ひとつ言い訳が許されるなら、その時俺は思ったのだ。こんなに無精で商魂逞しくないハゲ店長の知り合いの店ってんなら、きっと年中無休で閑古鳥が鳴いているような店だろうと。
だいたい「木洩れ日」なんていう店の名前を、俺は聞いたことがなかった。バイト先候補になりそうな店の情報にはそれなりに通じていると自負しているこの俺が知らなかったのだ。流行っていない店だろうと思ったとしてもしかたがない、と思いたい。
そんなこんなで、ハゲ店長に書いてもらった地図を片手にこの花冠のようなガーデンゲートの前に立った時、思わず目眩を感じてしまったことを、俺は認めようと思う。
後から知ったのだが、「木洩れ日」は客席が常に満席になるほどの店で、デザートは特に美味いという評判からテイクアウトのためだけに訪れる客も後を絶たない。店を訪れるリピーターのクチコミだけで十二分に回っているので、ここ数年はほとんど広告を打ったことがなかったのだそうだ。そして、客席のほとんどを埋め尽くすのは「木洩れ日」オリジナルのスイーツ目当てにやってきた女性客、女性客、女性客……。道理で俺が知らなかったわけだ。
ガーデンゲートから伸びるちょっとした小径の先のクリーム色した小さな洋館のドアを開けると、甘ったるい菓子の匂いとコーヒーの香り、そして、香水の匂いが入り交じった空気をいやでも胸いっぱいに吸うことになる。
元は外国人居留者の家だった洋館を、先代の店主が買い取って店に改装したのだそうだ。つくづく俺とは無縁な店だと思う。
「お疲れさまでーっス」
テイクアウトの会計を待って並んでいる女性客たちの間をそっとすり抜けて事務所へと入った。
今でこそだいぶ慣れたが、バイトを始めた頃は、学ランの背中にビシバシと無遠慮な視線を感じて、それはもう息が詰まると思った。
それに、だ。「その学ランはロッカーにでも適当に入れといて」と言われて、一番最初に店長からわたされたのはフロア用のシャツとエプロンだった。あの時の衝撃は忘れられない。
「えっ。俺、厨房じゃないんスか?」
「なんで?」
「なんでって……。え、あの、面接の時に厨房を希望したいですって、俺」
頭の外見も中身もアートです、みたいなバクハツ頭をした店長は、チョビヒゲを摘みながら、あはー、と首を捻り、
「まっ、細かいことはいいじゃないの〜」
俺の肩をバシンと叩いた。
「九郎クンはさぁ、ゼ〜ッタイ接客に向いてると思うんだよねェ〜」
自他共に認める無愛想男の俺をつかまえてそんなことを平然と言うんだから、このオッサン、菓子とコーヒーの顔以外は見えていないに違いない、と思ったアルバイト初日だった。
出会いからしてイレギュラーだった「木洩れ日」でのバイト生活は、こんな調子でとことんイレギュラー路線を突っ走ったのだが、あんまりにも予想外だと早々にあきらめもつく。「いらっしゃいませ」、「ご注文を承ります」、「ありがとうございました」で愛想笑いを浮かべるたびにひきつっていた頬の筋肉も、近頃は震えなくなってきた。慣れってのはオソロシイもんだよな。
「九郎くーん、お疲れー! あ、着替えたらさ、このケーキ、ケースに出しといて。あ、下の段ね」
厨房から店長の声がかかった。いかん、早く着替えねば。
手早くエプロンの紐を締めながら事務所から出る。
トレイにぎっしりと乗ったアプリコットのタルトと、フランボワーズ・ムースを受け取って、ショーケースの戸を引いた。これを、商品が減っているトレイに見栄え良く補充していかなければならない。慎重に、丁寧に、一つ一つを向きを揃えて並べていく。
と、入口のあたりで涼やかな鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませーぇ」という店長の間延びした声がして間もなく、厨房から店長が顔を覗かせた。
「ごめん、九郎くん。ボク、今ちょっと手が離せないんだわ。それ、そこに置いといていいから、お客さんテーブルに案内してくれる。一名様ね」
はいはい。午後のお茶タイムもそろそろ終わろうという時間だが、そんなのは関係なくこの店は忙しい。だが、今日はまだマシな方だ。本当に忙しいときは、一つの仕事をこなそうとしている間に二つ三つ四つ五つと新たな仕事が降ってくる。
俺はさっさとトレイを置いて、新たな客が待っているレジ前へと回った。
「お待たせしました。こちらのテーブルに――」
手をさしだし、空いているテーブルへと案内しようとして、俺は棒を飲んだように立ち尽くしてしまった。
一名様ね、と店長に言われた客は、ショートカットで制服姿の、年の頃は俺と同じほどの少女。ちょっと勝ち気そうな瞳が印象的な――。
夏樹、とすんでのところで口に出かけて、慌てて飲み込む。
P名夏樹。近頃妙な事件が切欠で顔見知りになったヤツだ。
なんでこんなところにいるんだ。だいたい学校からは五駅は離れている。というより、家から遠いこの店を選んだこと自体が、学校のヤツらにバレたくないという理由からだったのに。
思わず目を逸らしてしまったが、夏樹の方は……なんでそんなに見てくるんだよ。横顔に注いでくる視線が痛いったらありゃしねぇ。
いや、俺は今「木洩れ日」の店員だ。努めて心を平常心に保たなければならん。そうだ、これは修業だ。日々の気の鍛錬にも通じる修業なのだ。
刺さる視線にいたたまれなくなりながらも、夏樹を角席に案内する。水のグラスを、夏樹の制服の前へと滑らせた。
「ご注文がお決まりになりました頃にお伺いいたします」
よっし、これで回れ右さえすればひとまずは逃げられる。何も言うなよ。話しかけてきたりするなよ。何か思っていてもいいが今は何も言うな。回れ、右!
「九郎って、ここでバイトしてたんだ」
今は一言も発さないで欲しいという俺の願いは、あっさりと破られた。
「びっくりした……。なんでこの店に入ってくんだろって思って見てたら、あんた、ずっと出てこないし」
しーっ!
周りの客が見ていないことを素早く確かめてから、口元に指をあてて見せる。
「今その話はすんなっ」
声を極限まで潜めて言うと、夏樹はあろうことか、俺の手首をつかんだ。
「うわ」
しかも、やたらと力が篭もっている。
「なんだよ、なにす……」
「あんたに聞きたいことがあるの。あったの! ずっと、ずっとあんたに聞きたいって思ってたのに、いっつも教室にいないんだもん。授業が終わってすぐに行っても、いつも、『神木はもう帰ったみたいだぞ』って言われるし!」
「わーかった! わかったわかった! 今は仕事中だ。そこらへんは後にしてくれ。後で」
「後でっていつよ」
「え……。明日、とか?」
「明日だってきっとあんたいないでしょ。授業が終わったら」
まあ、それはそうだ。明日は「カンチャン」のバイトがある。頷いてしまった。
「でしょ? 今日はいつ仕事上がれるのよ」
「終わンのは八時だ。七時で閉店。上がるの八時。あと三時間もあるだろ。今日は無理だ。夏樹は帰れ。とにかく、俺は仕事中だ。戻る」
そう言ってやるとようやく夏樹が黙ったので、俺は厨房に飛んで帰った。
多少冷たい物言いになってしまったかもしれないが、しかたがない。今は実際仕事中だし、忙しいのだ。
「九郎く〜ん」
厨房に戻ると、店長がショーケースの陰からバクハツ頭をひょっこり出した。俺がほったらかしていたタルトとムースを並べていたらしい。
「あ、すいません! やります」
慌ててトレイを受け取ろうとすると、店長は鬼のような速さでそれらケーキを寸分の狂いもなく並べ、俺の顔をじっと見た。そして、にやん、と笑った。
「カ〜ノジョぉ?」
ばっ。
「バカなこと言わないでくださいよっ。見てたんですか!?」
「まったぁ、そんな照れなくたって。かーわいい子じゃなーい。あれだね。九郎くんが、ウチのお店でウワキしてないかなって心配して見に来たんだねぇ〜」
「違いますよ、そんなんじゃなくて!」
「ヒナギクのよーにケナゲで、ヒマワリのよーに一途で、セイシュンだよねぇ〜。いいなぁー、若いって。ボクもセイシュンの日々に戻りたい」
「あああ、ヒナギクだか何だか知りませんけどもう黙ってください! 勝手に戻りゃいいじゃないですか」
相変わらずニヤニヤしたまま、店長は、ふふん、と笑った。
「戻りたくったって戻れないもんねー。なのに九郎くんってば、冷たいんだー。じゃ、皿洗いヨロシク。あ、皿洗い終わったら、おつかい行ってきて。生クリームそろそろ切れそうなんだわ。それからレモンとオレンジひと袋ずつ。と、スイートバジルひとパックとレーズン200gにパセリふたパック。そうそうまだあったや、いつもの店で紅玉3個とクレームドカシスと」
「……あの。紙に書いてもらってもいいっスか?」
俺が皿洗いを超特急で済ませて、「さっすが九郎くん、フットワーク軽ーい。ボクが見込んだだけあるわー」とか言っている店長を尻目に買い出しに行き、戻ってきたあとも、夏樹は角席に居座っていた。
あいつはいったいいつまでいるつもりなんだ。もしやまさか本気で俺が上がるのを待つつもりなんだろうか。この店のメニューは軒並み高いから、紅茶1杯で粘っているようだが、中身はとっくに冷えているだろう。
なるほど、本気なのか。
以前、夏樹から聞いた。
自分は獣人で、強力な力があるらしいのだが、力のコントロールができない、と。だから、自分の意思で力を制御できるようになるための訓練方法を教えてくれ、と言っていた。あの時の夏樹は、たしかに、真剣だった。
九郎くーん、と俺を呼ぶ店長の声が聞こえた。
ちょっと店長、人がちょっと真面目に考えている時に、なんなんですか。
「あ、いたいた。九郎くん、このウォーターポットあげるから、あの角席のお嬢さんのお冷や替えてあげてきて?」
くそっ。バクハツ店長め、わざとだろう!
不承不承、水を取り替えに行く。だが、夏樹のグラスにはもう水は残っていなかった。鞄のノートを見直すぐらいしかやることがないからだろう。」
失礼します、と告げて、氷がカラリと鳴る水を注いでやる。
「本気で俺が上がるまで待ってるつもりなのか」
ずっとうつむいているのが少し心配になって声をかけると、夏樹はちらと俺を見上げた。
「当然よ。だって、こんな時でもないとあんたに会えないもん」
絶対に今日は引き下がらない、とその目が訴えていた。
「しょうがねぇな、店閉まったあとも待ってられるってんなら――」
「あー。少年老いやすくゥ〜、命ぃ〜短し、恋せよオトメぇ〜……」
いつの間にいたのか、店長が詩でも吟じるような調子で言って後ろを通っていった。
「だぁーっ! 店長! なにワケのわかんないこと言ってンすか! しかも、なんか縁起悪いですよ、それ!」
結局、夏樹は八時になるまで俺を待ち続けた。
気を利かせたらしい店長が、店を閉めたあとも夏樹を中で待たせたのが俺としては少し複雑な気分だったが、まあ、外で待たせるのはさすがに可哀想だ。ありがたいと思うべきところなんだろう。
ふたりで店を出ると、人通りはあるものの駅前よりネオンが少ない分、通りは暗く思えた。
「おまえ、歩いてきたのか」
「ううん。電車で来た。ちょうどケーキを買おうと思って来たところだったのよ。そしたらあんたが入っていくのを見ちゃったからびっくりして」
そうだったのか。俺は夏樹の手元を見た。ケーキ箱の入った小さな紙袋があった。やたらと女性客の多い「木洩れ日」だ。夏樹も知っていたということか。
「まさかあんたが甘い物好きだったなんて、って思ったら、バイトしてたからもっとびっくりしたわ」
「いや、俺に好き嫌いはねぇぞ」
なんでも食べる。食べられるものなら食べる。節約するには、まず、贅沢を言わずになんでも食べることを心がけることだ。
「そうか。たまたま、だったんだな。とりあえず、俺は電車賃節約のために乗らんが、駅までなら送ってやる」
「え。送るって、いいの?」
駅まではさりげなく距離がある。このあたりはともかく、駅近辺は猥雑な雰囲気の店も多い。こいつの場合、暴漢に絡まれたからといって被害を被ることにはならないだろうが。
「なんかあって、ほら、また力が暴走したとかなったら、おまえ、嫌だろ」
そう言うと夏樹は、妙な顔で俺を見て、それから少し俯き、鼻をこすって笑った。
「……じゃあ、いっしょに帰ろう」
「駅までだけどな」
飲み屋に吸い込まれたり吐き出されたりする大人たちが行き交う中、夏樹はぽつりと呟いた。
「ごめんね。今日は、なんか、九郎に迷惑かけちゃったかも」
「……ああ、まあ。だが、俺に聞きたかったんだろ? 力をコントロールする方法を知りたいって、前に言ってたあれを」
「うん」
俺も夏樹の頼みを忘れていたわけじゃない。ただ、無意識ながら少ししぶっていたところもあるんだろう。
「俺が教えるんでいいのかって思うんだよな。なぜって俺も修業中の身だからだ。人に教えられるような立場じゃねぇ。だけどどうしてもって言うんなら、だ。基本中の基本で、最も大切な方法を言っておこうと思う。俺は獣人のことは皆目わからねぇが、自分をコントロールする技を習得する方法としては万国共通のやりかただ。ヒントぐらいにはなるかもしれん」
夏樹の「早く教えて」と言わんばかりの必死な眼差しを受け止めて、俺は頷いた。
「瞑想、だ。言葉なら聞いたことはあるな? 瞑想ってのは、自分の内部に意識を集中させることだ。たとえば、不測の事態が起きたときに、人や動物はパニックに陥ることがあるだろう。身体的にも精神的にも制御、そして均衡を失った状態だ。じゃあ、なぜ均衡を失うかというと、気が散じているからだ」
「気が、散じている?」
「ああ、そうだな、少し言いかえたら、だ。気が散じているってのは、外界からの未知の刺激に対して、自分の意識が指向性を失っている状態のことだと思えばいい。たとえば、夏樹が道を歩いていて、石につまずいたとする。一瞬、あっと思うだろ? だが、この手のことは珍しいことではないから――つまり、経験したことのある刺激だから、次にどうすればいいのか、どの足を出せばいいのか、っていう対処のしかたに順当に意識が向き、集中を維持することができるわけだ。その結果、コケずに済む。だが、これが生まれて初めて石につまずいた人間だった場合はどうだ? 一瞬の間に、未知の刺激を分析しようとしたり現状を把握しようとしたりする意識と、対処方法を模索しようとする意識が錯綜してしまう。この時に、混乱が起きる。混乱している間は、集中することができないから、結果的にコケたりすることになる。夏樹が力を暴走させた時ってのは、そういう状態だったと思えばいい。混乱するということは、集中できないということだ。これはたとえば武闘家の場合なら、隙になるよな。だから、ありとあらゆる刺激に慣れるために、実戦を、経験を積む。どんな刺激に晒されても集中を維持できるように鍛えるんだ。俺たちの場合も似たようなもんだ。自分がどんなときにどう反応するのか、自分の心と身体がどう反応するのかをひたすら見つめることと同時に、どんな刺激に晒されたときでも、常にニュートラルでいられるように、あるいは、自分の意図する状態にもっていくことができるように、集中力を鍛えなければならん。そのための手段が瞑想、だ」
「瞑、想……」
夏樹がぼうっとした顔で俺を見ている。たいしたことを言ったつもりはないんだが、物凄いものでも見るような顔で俺を見てくるのだから、少々きまりが悪い。
「あー、とにかくだな。夏樹もやってみりゃわかる。瞑想で集中力を訓練すると、自分の思い通りに意識を閉じたり開いたりできるようになる。これが、自分をコントロールすることの基礎になるんだが、俺が百言うより、実際にやってみた方が早い」
この手のことは聞いて理解するものではないよな。実際にやって身体で理解するものだ。いや、瞑想は奥が深いし、極めるとなったら難しいことだが、実際にやれば、やりかたをマスターするだけなら、たいして難しいことではないとわかるだろう。
時々眉間に皺を寄せながら、難しい顔で俺を見ていた夏樹が、少しして、こっくりと頷いた。
「なんだか、すごいね。全然想像つかないけど……。その、瞑想っていうのをどうやるのかも、想像つかないけど、でも」
でも、と夏樹は顔を上げた。
「方法はある。あるってことだよね」
ネオンの明かりの中で見た夏樹の顔には、思いがけなく晴れやかな喜びがあった。
「じゃあ、俺は行く」
ホームからの発車アナウンスが聞こえる。流れる人波の中で、夏樹がらしくもない様子で頭を下げた。
「うん、ここまでわざわざ送ってくれてありがとう」
「いや、別に……。こっから帰ると途中のスーパーでタイムセールやってっから、ちょうどいいし」
閉店20分前のタイムセールだと半額になる。これが1時間前だと2割引き止まりだ。半額と2割引きとの差は大きい。これで一週間の食糧をゲットすれば、日曜までは軽く保つ。日曜までは。そうだ。
「なぁ、夏樹、おまえ、次の日曜って空いてるか?」
「へっ」
裏返った声を上げた夏樹が、がばりと俺を見た。
「に、日曜? 空いてるけど、ええっと、な、何?」
何を言うのか。
「何って、特訓したいんだろ? ちがうのかよ」
「あ。あぁ……。ちがわないけど」
意外にも歯切れの悪い返事だ。
「ていうのはだな、次の日曜はバイトがないんだ。店に丸一日修理の業者が入るとかって。その日なら俺は空いてるから、夏樹に予定がないなら、瞑想法その他に付き合ってやろうと思ったんだが、難しそうならまた次にするか」
どうやら夏樹の都合が悪いらしいのでそう言うと、夏樹は ものすごい勢いで首を振って、夏樹は、次の日曜にお願い、と言った。
「いいのか? 別に無理するこたねぇ」
「ちがうって! 次の日曜ね? さっき教えてくれた、瞑想……集中するための訓練、なのかな。それをやってみたい。だから次の日曜。約束」
「木洩れ日の」バクハツ店長の考えることなら、いやってほどよくわかるんだが、夏樹の考えていることってのは時々よくわからない。これが女ってヤツなんだろうか。わからん。
駅の方で、またひとつ、けたたましい発車音が鳴った。
「ああ、もうこんな時間なんだな。そういや、家の人、心配してるんじゃねぇか?」
「大丈夫よ。でも、うん、行く」
じゃあね、と言って改札口へと歩き出す。
その夏樹が、少ししてから振り返った。
大きく手を振ってから、口元に手を当てて言った。
「九郎! 次の日曜、ぜったい約束だからね! 忘れないでね! すっぽかしたら泣くんだからね!」
『泣くんだからね』。
思わず笑ってしまった。
泣くようなタマじゃないだろ。
きっといつでも歯を食いしばってるくせに。
なぜか、そんな言葉が脳裏を過ぎった。
笑った俺が夜目にも見えたのか、小さくなった夏樹も笑った。
そして制服のスカートがくるりと翻った。
駆けだしていく後ろ姿を見送ってから、俺も線路沿いの道へと歩き出す。
今日という一日は、いつもどおりで、いつもどおりでなくて、何の変哲もないようでいながら変な一日だった。
菓子とコーヒーにはプロフェッショナルな店長が変人でばかばかしいのも相変わらずで、あとは夏樹がバイト先に来たってだけなんだが、なんだか今夜の風が澄んでいるように思うのはなぜだろう。
数え切れないほどの窓明かりを連ねた電車が、車輪の音を轟かせて俺を追い越していく。
今日はたしかコロッケが安かったはずだ。こんな時間になったがまだ残っているだろうか。どっちにしても閉店前には滑り込みたいもんだ。
長く尾を引く電車を追うように、俺は線路沿いを走り出した。
ひょっとしたら夏樹を乗せているのかもしれない電車の、灯りこぼれる窓を見つめながら。
<了>
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