|
ゆめのかけら
青霧・カナエの左腕には真っ白い包帯が巻かれている。先日の戦闘でうけた傷が、思った以上に深かったのだ。その傷を見て、奈義・紘一郎の顔が曇る。丁寧に処置を施されたあと、
「今後しばらくの間は、怪我を直すのがお前の最優先事項だ」
それは、戦闘訓練の免除を意味していた。
●
壁にかかっているアナログの時計は、2時半を指し示していた。昼ではなく真夜中である。
「……」
ベッド以外に家具らしい家具のないシンプルな部屋で、カナエは迷っていた。包帯を巻いてくれたあと、確か奈義は自分に、怪我を治すのが最優先と言ったはずだ。それなのに、深夜の呼び出しだ。この場合、どちらの命令に従うべきだろうか。最優先事項とまで言われたケガの治療か、それとも最新の召集命令か。
すこし長めの瞬きをして目を開ける。その間に取るべき行動は決まっていた。
ベッドから立ち上がったカナエは、おもむろに夜着を脱ぎ、ベッドの柵にかけてあるいつもの服に着替え始めた。
「腹が減ったんだ、何か作ってくれ」
「……はい」
自分を呼び出した主――奈義は、真夜中だというのに研究室で目を爛々と輝かせていた。壁際に並ぶ計器類が規則正しい音を立てている。赤や青のランプの点滅が目に賑やかだ。途中で止めることはできない何らかの実験の途中で、それは大変順調なのだろう。
けれど、カナエの側に問題がひとつある。いったい何を作ればいいのかだ。これまで作ったことがあるものといえばコーヒーくらいである。
ゆっくり時間をかけて、じっくりとコーヒーをドリップする。そうして持っていったところ、渋面で受け取られた。
「眠気覚ましにはなるが、これじゃあ腹は膨れないだろう。恐らく、厨房に行けばなにかある」
言われたとおり厨房へ向かうと、業務用の巨大な冷蔵庫の片隅に、冷えたサンドイッチがあった。
それが始まり。
●
「カナエ、誰か来たら俺はいないと言って適当にあしらっといてくれ」
「いないと言えばいいんですね」
「そんなところだ。俺の邪魔をさせなければいい」
「分かりました」
その日も「治療の経過を観察する」と朝から呼び出され、そのまま奈義の研究室にいる。奈義の仕事ぶりはそれこそ八面六臂で、僅かな異常音も聞き逃さず飛んでいって直し、メーターの針の動きがこれまでと違うパターンを示していると分かればログを分析しメモを取る。かと思えば、机に向かったまま1時間も2時間も考え事に没頭する。煮詰まれば部屋を出て行ったまま2、3時間は帰ってこないが、戻ってきた途端猛然とパソコンに向かいなにやら難しそうな計算をこなす。その間カナエに話しかけてくることはほとんど無い。怪我の様子を聞いたのは一日に一度きりだ。
カナエの仕事といえば、奈義が無意識のうちに散らかしていく部屋を片付けることと、来訪者の対処である。
ドアがノックされた。立っていたのは、同じ組織の研究員だ。
「奈義さんはいますか? ちょっと知恵をお借りしたいと思いまして……」
歳若い男は、出てきたカナエにびくっとしながらも平静を保とうとする。
「いません」
対してカナエの返事は簡潔だった。
「いない……ですか」
部屋の中からは明らかに人の足音がしており、それどころか歩き回る姿がチラチラと見えている。青年は動揺が表情に出そうになるのを押さえつけ、
「いやその……ほんの少しだけでいいんです、手間はとらせないので……」
「いません」
ここまで来ると、強烈な嫌味にしか聞こえない。青年は嘆息すると
「……わかりました。邪魔をして申し訳ありません」
引き攣った笑みを浮かべながら去っていった。
同じようにして、カナエは5人ほどの来客を見事に撃退した。そんなやりとりを、奈義は気づいてすらいないようだった。
「どうして、僕をここに置くんですか?」
そんな質問が口をついて出たことがあった。奈義はその言葉を遮り
「そんなことを考える暇があるなら、知識を身につけるんだな。図書室と視聴覚教育室の入室許可はとってある」
と返された。はぐらかされたのかもしれなかった。
二つの部屋へ赴いてみると、一生かかっても読みきれないだろう本や映像が整然と並んでいた。入門書的なものから、論文誌まで様々だ。その情報量に圧倒されて、1日目は何もせずに帰ってきてしまったが、次に来たときにはおずおずと子供向けの童話と料理の本数冊を借りて帰ってきた。「簡単料理100レシピ」や「料理の基本とコツ」などという本の間に「人魚姫」という表題が目に止まり、奈義は目を丸くしていた。
●
マシンのアラームがけたたましい音を立てる。奈義は舌打ちをしながら機械の電源を落とし始めた。どうやら、失敗したらしい。
「あとちょっとなのにな……」
頭をがしがしと掻くと、不意に白衣を脱ぎ捨てた。
「少し留守にする」
「はい」
「戻ってくるまでに夜食を用意しておいてくれ」
「はい」
「冷たいサンドイッチはもう食べないからな」
バタンと大きな音を立ててドアが閉じられ、カナエ一人が部屋に残される。
あの時の――抱きしめられたときに全身に感じたあのぬくもりは幻だったのだろうか。あの日以来、カナエを気遣うような素振りはほとんどない。日に一度ある経過観察の時にも、ただ義務的に状態を尋ねるだけだ。朝、カナエに雑用をひと通り言いつけると、あとは研究に没頭してしまう。次に話しかけるのはさっきのように出かける時か、そうでなければ夜、今日はお終いにするという一言だけだ。
それでも、一度も言葉をかわさない日はなかった。怪我を診察する手つきはいつも丁寧だった。
だからこそカナエは信じてしまいそうになる。
自分が、奈義にとってただの戦いの駒以上の存在であるという幻想を。
奈義が彼の研究室に戻ってきたのは、出ていってから2時間後だった。
体からは塩素の匂いがした。髪もまだ少し濡れている。けれど表情はさっぱりしていて、どうやらリフレッシュできたようだ。泳ぎに行っていたのだということを、カナエはもう知っている。
「なにか作ってあるか」
「はい」
運ばれてきた皿を見て、奈義は表情を和らげた。
「野菜スープか。冷えた体には良いな」
中の野菜がてんでバラバラな大きさに切ってあるのがちらりと見えたが、深くは追求せずスプーンを口に運んだ。ごくりと嚥下して、わずかに首をかしげる。
「味がうすい……というか、ほぼないに等しいな。調味料は? 何を入れたんだ」
「ニンジンとキャベツとタマネギです」
「そうじゃない、調味料……あぁ、そういうことか」
奈義は、カナエの返事を聞きすべてを察した。カナエが借りてきた本には、調味料と材料は少し離れた場所に書いてあった。材料を気にしていたカナエは、調味料について意識することなく、無視したまま料理を進めていったのだろう。本来ならばコンソメやら塩コショウで味付けするところが一切省略されている。素材そのままの味だ。
「全く……、空腹じゃなきゃ食えたもんじゃないな」
そう言いながら、二口目を口に運ぶ。一口食べるごとに文句を言いながら、それでもスープはみるみる減っていく。その光景を、カナエはずっと眺めていた。自分が作ったものを、奈義が食べている。それだけなのに、視線を外すことはできない。
スープを飲み干しスプーンを置くと、奈義は白衣を羽織りながらパソコンの前へと向かっていく。ため息をつき、目を開いた時には表情が切り替わっていた。仕事を再開するようだ。
「皿を、片付けます」
「頼む」
奈義はちらりともカナエの方を見ない。
彼――カナエ自身の束の間の休息もこんなふうに、瞬きひとつする間に終わってしまうのだろう。
今はただ、ほんの短い夢を見ているだけに過ぎない。
目が覚めればまた、死と隣り合わせの日々――
●
「カナエ、そこに座って」
「はい」
いつものように散らかった奈義の研究室。一応来客用と言われている椅子に座り、奈義と向かい合う。
「腕を見せて」
左腕に巻かれた包帯が、するすると解かれていく。その手つきは、こちらが戸惑うほどに優しかった。
怪我が治っていることを確かめ、奈義は満足そうに微笑む。
「もう外しても良いんじゃないか」
それは、小休止という名の魔法が解ける呪文だった。淡く儚い夢は覚め、途切れていた日常が始まる。
奈義の手には、巻き取られた包帯が夢の残滓のように残っていた。気づけばカナエは、それに手を伸ばしていた。
「どうした?」
「それ、ください」
「好きなのか?」
「……さぁ」
改めて問われるとうまく答えられない。
ただ、奈義からカナエの手のひらに渡ったそれは、すでに手放しがたいものになっていた。
End.
|
|
|