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<東京怪談ノベル(シングル)>


夢うつつ



 遠くでセミが鳴いていた。もうとっくに陽は落ちているというのに、セミの鳴き声があるだけで心もち気温が高く感じられるような気がする。夕立があったせいもあるのか、アスファルトの熱はもう大分静まっているようだ。
 物部真言はバイト先であるコンビニの買い物袋を提げて、人通りの少ない路地の上をゆっくり歩いていた。明日はバイトもなく、個人的な予定も入っていない。時間はもう日付の変更を目と鼻の先に控えた頃合となっている。路地に面した家々の窓から漏れる電気の数も少なく、辺りにはセミの声ばかりが響いていた。目を上空に向ければ、雲がかった月が淡い光を落としているのが見える。――どうせ部屋に戻っても、特にすることもない。だからというわけでもないが、これまで足を向けたことのない路地に足を踏み入れてみたのは、本当にただ気が向いたから、という理由の他にはなにもない。
 小さな川が流れている。それに沿い葉桜を揺らす桜の木々が並んでいた。そういえば、と、ふと考えて足を止める。そういえば今年の春は何かと忙しく、慌しく過ごしている内に桜の見頃も逃してしまっていた。それどころか気がつけば気がめいるばかりの梅雨の時期も越え、いつの間にかこうしてセミの声のする季節を迎えてしまっていた。
 葉桜の向こうに視線を送る。――どうやら公園があるようだ。辺りを確かめる。シャッターのおりたクリーニング屋の前に自販機があるのを見つけ、そこで缶コーヒーを買ってから公園の中に足を寄せてみることにした。
 
 公園は意外に広く、やや伸びた草がくるぶし程の位置にまで達していた。遊具の数はそれほどに多くはないようだ。花壇が広く作られていたりするのを見るに、例えば犬の散歩をしたり、あるいはシートを敷いて弁当を囲んだりするのに向いている場所であるのかもしれない。街灯が点在し、静かに明滅している。風が吹いて辺り一体の緑を静かに薙いでいった。
 草の中を進み、やはり見頃を追えて久しい藤棚の下にある木製のベンチに腰を落として缶コーヒーを口に運ぶ。――とても静かだ。風の心地良さと、缶コーヒーの冷たさに居心地の良さを覚えて静かに目を閉じた。
 そうして、ふと、か細く聞こえた音に目を開く。セミの声は止んでいた。風は吹いているが、草を薙いでいく音は途絶えている。無音に近いような状態だ。けれどその音は途切れ途切れに真言の耳を撫でていく。唄っているようにも思えるその音に、気がつけばベンチを立って歩き始めていた。
 その唄に、声に、言い知れない懐かしさを覚える。呼ばれているような気がして歩き進め、ほどなく真言は公園の隅にある一本の大きな桜の木を目にとめた。
 唄は止んでいた。その主を探すように辺りを見渡す。心に浮かんだその名前を口にしようとした矢先、真言はふと異変に気付いて振り向いた。
 あるのは真新しくさえ感じられる公園の中には唐突な印象さえ感じられるような、大きな桜の木だ。その木が満開の桜を咲かせている。月が放つ淡い光を受け、白々と花ひらく桜が夜風に揺られ雪のように散っていく。
 眼前に広がっている情景を異様なものとして理解しながらも、それよりもその見事な美しさに目を奪われ、真言はふと桜に向けて足を寄せた。ぼんやりとした光を放っているようにも見える桜に数歩を寄せる。花びらが風に震えるようにはらはらと散り、まるで淡い雪のようにゆっくりと真言を囲んだ。足元は見る間に桜の落花で埋められ、音もなく降る白々とした月光も合わせ、あたかも一面の雪景色の中に身を置いているような錯覚に囚われた。
 目を瞬く。文字通り、まるで夢を見ているかのような光景に、一歩一歩確かめながら足を進め、そうしてようやく桜を咲かせている木に手が届く距離にまで達した。
 指を伸ばし、幹に触れる。その感触に、これが夢ではなく現実であることを改めて認識した。黙したまま片手だけで幹に触れ、頭上を埋める満開の薄墨を仰ぐ。風に舞う花びらのいくつかが頬に触れて、その瞬間にさらりと一筋の雫となって地におちた。
 唄が聴こえる。夜風に乗って、そのまま消えてしまいそうなほどにか細く揺れる声に耳を寄せ、再び周りを見渡してみた。やはりどこにも声の主の姿はない。肩を落とし、小さな息を吐く。
「――おまえもそこにいるのか」
 桜の降る夜の闇の、どことも知れぬ場所に向けて声をかけた。唄が刹那止み、次いで応えるように鈴の音が耳に触れる。
「……そうか」
 共に見ているのか、この桜の色を。
 思い、再び目を伏せた。
 はらりと桜が頬に触れる。触れたそれは、しかし桜の花びらではなく淡く踊る雪だった。
 今は真夏だ。つい先ほどまではセミが鳴き、陽が空にある内は茹だるような暑気が街を覆っていた。桜など咲いているはずもない。まして雪など降るはずもないのだ。
 けれど、これはきっと、目覚めたまま見ている夢なのだ。考えながら目を開けて桜を仰ぎ、そうして、ふと、真言は気がついた。

 この木は、もうおそらく寿命なのだ。

 次の春を待つこともかなわず、この古い桜の木は今宵静かに事切れてゆくのだ。
 今見ているものは、終焉を迎える桜の木の末期の望みをかなえるための夢なのかもしれない。真言が見ている夢ではなく、おそらくはこの古い桜の木の。
 真言がなぜそれに立ち会っているのかは分からない。呼ばれたような気がしたのは確かなのだ。考えて、わずかに首をかしげた。
 遠く近く、馴染んだ声が聴こえる。
 ――俺には、この木を送ってやることなど出来ない。
 呟き目を伏せる。
 万物には必ず死というものが訪れる。それがどのようなものであれ、終焉というものだけは必ず平等に訪れるものなのだ。そしてそれは真言の手には遠く及ばないものでもある。ただ呆然と見取ることしか出来ない。
「すまない」
 一言そう落とした瞬間、桜の花と雪と月光とが重なり渦をまくようにして真言の周りをまわり、そして瞬きの後にはもう形も残さずに消えてなくなっていた。
 
 残されていたのは白々と世界を照らす淡い月光だけだった。あとは枯れた桜の木と、何食わぬ顔で流れていく夜の風と、それが薙いでいく草が起こす小さな波。真言は桜の幹に触れていたままの指先に目を落とし、そして再び耳を澄ませた。
 唄はもう聴こえない。鈴の音ももう消えていた。
 一夜の夢。
 ――否、決して夢ではなく。
 幹に触れていた指先をそっと離し、いつの間にか手の中に握りしめていたものをそっと検めた。
 雪のように真白な桜の花びらが一枚だけ、そこに残されていた。しかし不意に流れてきた夜風が真言の手の中から花びらを奪っていく。
  
 空を仰ぎ、雲の向こうに隠れたままの月に目を細ませた。
 この桜は、最期に良い夢を見ることが出来たのだろうか。
「おまえも、送り出してやったのか。……それで俺を呼んだのか?」
 応える声はない。セミが鳴き始め、草が揺れる音が耳を撫でる。
 小さなため息をひとつこぼすと、真言はゆっくりと公園を後にした。その背中を、月だけが静かに見つめている。
 




再びのご発注、まことにありがとうございました。
お任せくださるとのお言葉に甘えさせていただきまして、わりと遊ばせていただきました(汗)。ちょっとでもニヤリとしていただけるとさいわいです。

それでは、またのご入用がございましたら、またぜひともお声掛けくださいませ。
お待ちしております。