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ありがとうありがとう
聖祭も前に、中庭は放課後にも関わらず、いつにも増してにぎやかである。
聖歌隊だけでなく、音楽科の声楽専攻が歌の発声練習しているのが響き、音楽科塔からは聖祭の演目であろう楽曲が流れてくる。
美術科の展示物であろうオブジェや絵が運ばれていくのも見える。
「本当に今日も賑やか……」
通りすがる皇茉夕良はそう独り言を言いながら、感嘆の息を吐いた。
茉夕良もまた、さっきまで自分の学年の演目を練習してきた所だったのだ。
既に空から青の色はゆっくりとパステルピンクに変わりつつあるのに、静かになる気配がない中庭を横切りながら、理事長館を目指した。
こんなに賑やかなら、いるのかしら。もしかするとまたどこかに行っているのかもしれない……。
今日は海棠秋也に会いに来た訳だが、人付き合いの苦手な彼が人通りの多い中庭を横切れるんだろうか。
少し心配しつつ、白亜の館、理事長館の敷地内に足を踏み入れた。
「失礼します。こんにちはー」
声をかけてから、いつものように理事長館の中庭へと入っていく。
耳を澄ませるが、いつも聴こえてくるチェロやピアノの音は聴こえてこない。
もしかして、やっぱりどこかに行ってしまったのかしら?
しばらく歩くと、いつもの白いテーブルと椅子には何も置いてはいなかった。やっぱりどこかに行ってしまったのね……。
茉夕良は仕方なく引き返そうかと踵を返そうとした。
その時だった。
「誰?」
「あ……」
声を掛けられて振り返ると、そこに立っていたのは秋也だった。
「えっと、どちらに行ってたんですか? 今日は騒がしいからいないのかなとばかり……」
「塔」
「えっ?」
「音楽科塔」
「あ……」
少しだけ茉夕良は驚いたような顔をした。
よく見ると秋也は制定鞄と楽譜を手に持っている。
何だ、普通に授業帰りか……。
茉夕良は少しだけほっとした。
「聖祭、海棠さんは何の演目をするんですか?」
「ピアノ三重奏」
「あら、チャイコフスキーの?」
「…………」
秋也は答える替わりに頷いた。
ますます驚いた。人の前に出るのが嫌な人なのに、ちゃんと出るんだ。
茉夕良はそう思いつつ、今日の要件を思い出し、口にしてみる。
「あの、今日は1つだけ質問があって来たんですが」
「何?」
「はい。……この間、「そろそろ彼女を解放したい」って言っていたから、あれはどういう意味なんだろうって思って」
「…………」
沈黙が重い。
理事長館の敷地外はあれだけ音楽で溢れていると言うのに、茂みを境に音を全て遮断されているかのように感じる。
でも……。
茉夕良は秋也の返答を黙って待つ。
嫌でしゃべるのを拒否しているって言うより、言葉を考えている感じ……?
やがて、秋也の唇が動く。
「……そろそろ逃げるのを止めようかと思ったから」
「えっ?」
「…………」
「……だから、これが音楽科での最後の演奏」
ぼそぼそとしゃべる言葉に、茉夕良は黙って耳を傾ける。
もしかして。
話を聞いてくれる人を、ずっと待っていたのかもしれない。この人は。
それに。
……初めて名前を呼んだ、海棠さん。
でも……。
「あの、音楽科辞めるって言うのは、どういう意味ですか?」
「…………。バレエ科に、もう1度戻ろうって思ったから」
「……!」
茉夕良は思わず息を呑んだ。
思えば、秋也はずっと手が綺麗だった。音楽をしている人間とは思えないほどに。
この人は誤解されやすいだけで、ずっと知らない所で練習していたのかもしれない。
「皇」
「はい?」
茉夕良が少し小首を傾げると、秋也はわずかにだが、口角が上がった。
思わず、目を大きく見開いた。
「……話聞いてくれてありがとう」
「……いえ」
本当に、驚いた。
思えば、秋也が笑っているのは初めて見たような気がする。
<了>
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