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Never Call Of The Bottom Forever
夏の風物詩といえば怪談もその一つだが、ファッションのように年によって語られる内容には流行り廃りというものがあり、定番の怪談はともかく都市伝説のようなものは生まれては消えていくのが常である。ましてその物語の「真相」を知る者は皆無に等しい。
現在、海に出ると囁かれている人魚や幽霊の話についてもそれは同様で、真実を知るのはごく普通の少女らしい生活をしている人魚の末裔の海原(うなばら)みなもと、雨達圭司(うだつけいじ)というオカルト専門の探偵のみ――いや、あと一人、みなもの中にいるもう一人のみなもたる携帯電話の付喪神(つくもがみ)の三人だけである。
彼らが噂話の真相を知っているのは偶然からではなく、その件に関わる当事者だからだ。
何十年か前に近海で船が沈み、その時に船首像の一部が船からはずれて陸に打ち上げられた。やがてその船首像に付喪神が憑いたが、海の底に沈んだままの船に戻りたがっていた船首像はみなもの持っている水の力――正確にはその「データ」を携帯電話の付喪神であるもう一人の”みなも”から盗み、「海原みなも」という少女に姿を変えて母体の船の捜索をしていたところを人間に目撃されている。水を制する力を使って海で自在に行動するその様から、人魚や、かつて沈んだ船に乗っていた人の幽霊が現れたという噂が生まれたのだ。
もっとも、盗まれたデータはすでに”みなも”の元に戻り、そのことから船首像は無事に船を見つけたと考えられるが、みなもはそれをきちんと自分の目で確かめたいと、雨達にその協力を求めた。もう一つ、とても大切な計画のためにも。
「付喪神に体を貸すだって?」
海に向けて車を転がしていた雨達は、驚きのあまり助手席にいるみなもに顔ごとふり返って言った。
そんな彼に前方を見るよう指で示し、みなもはこくりと頷いてみせる。
「もう一人の”あたし”に人間の日常を体験させてあげたいんです。でもきっと慣れないことが多くて苦労すると思うので、その補佐もしてもらえませんか?」
「嬢ちゃん、それはいくら何でもお人好しがすぎるんじゃないか? あっちは元々その体を欲しがっていたのにわざわざそれを与えるなんて……そのまま乗っ取られたらどうするんだ。」
決して夏の強い日差しばかりが原因ではなさそうに、苦々しく目を細めて雨達が言う。
だが、それにもみなもは穏やかながらも確信のこもるはっきりとした語調で応じた。
「それは大丈夫だと思います。何故かと説明するのはとても難しいですけど……不思議ですね、あたし自身を信じることはともかく――もう一人の”あたし”を、あたしは信頼できるんです。」
その返答に雨達は大きなため息をついて、降参だと言うように肩をすくめこう答える他なかった。
「お前さん、そういうところは本当に頑固だよな。判ったよ。ただし――これはもう一人の嬢ちゃんに言うが、もし乗っ取ったりしたらおれは容赦しないからな。」
”みなも”は水の感触や、体を自分の意思通りに動かすことに感動と興奮を覚えながら、
「義足や義手を手に入れた人の気持ちというのはこんな感じかしら。体だけじゃなく自由を手に入れたような気がするわ。」
と、熱っぽい口調で言って大小無数の生物が住まう深い海の世界をうっとりと眺めた。
元は携帯電話の付喪神である”みなも”は当然海で泳いだこともないので、それも経験させたいというみなもの提案により、海の底へ船を見に行くのは「体を貸したあと」ということになったのだ。今、みなもの体は完全に付喪神の”みなも”の意思のみで支配されている。みなも本人の人格はコピーされ、データとして、防水加工を厳重にほどこした携帯電話にインストールされた状態で”みなも”に同行していた。
『物に憑くというのも不思議な感じですね。』
”みなも”がしっかりと持っている携帯電話の液晶画面にそんな返答を打ち出し、みなもはインストールされた時の感覚を思い起こした。それはまるで体を0と1という細かな砂に変えて、きぐるみの中に流し込むような感じである。携帯電話という器の中にみなもが注がれ、満たしていく。自ら動くことのできない無機物の体は少しばかり窮屈で人の体のつもりでいると実にもどかしいが、体の中でごくごく小さな、そして一つでも欠けてはいけない大事な部品たちが働いているのを自覚するのは奇妙な楽しさがあった。無駄なものが何一つない、丁寧に設計された機械だからこそ感じられる心地良さもある意味「生きているという実感」なのかもしれないとみなもは思う。おいしい物を食べて満足したり、美しいものを見聞きして心を打たれる感覚に近かった。
そんなみなもの下に雨達からの電波が届いたのは海底がうっすらと見え始めた頃である。
『おれの手に入れた情報では、船はそのあたりに沈んでいるはずだ。』
地上のノートパソコンからみなもの携帯電話を探知しナビをしている雨達は、曲がりなりにも元刑事の探偵というだけあってこういった探索にはわりと強い。
もっとも、人魚に変身し海に潜れるみなもと違って彼は生身の人間なので、深海まで同行する勇気がなかったというのが地上に残った一番の理由である。
「あった。きっとあれだわ。」
ほとんど闇に近い海の中を、携帯電話の液晶の明かりを頼りに周囲を見回していた”みなも”は、やがてそう呟いて海の底に巨体を横たえている船に近づいた。海の底では太陽の光が届かないはずなのに、何故かその船だけは墨のような水の中でよく見える。とりわけその船首はぼんやりと光さえ放っているようにみなもたちには思えた。その光は欠けたはずの船首像からあふれている。
少女のようにふっくらと柔らかな頬の線と繊細な長い髪を持つ人魚を象ったその船首像は、どこかみなもに似ていた。名のある職人が作り、その美しさから陸に打ち上げられたあとも人に愛され付喪神が宿ったというのも不思議な話ではない。それは今や完全な姿を取り戻し、ひび割れ一つない堂々としたたたずまいで二人のみなもを迎えた。
『何だか嬉しそうですね。』
喜びにあふれたほのかな光は、みなもの呟きに答えるように数度瞬いたあと、静かにその優しい明かりを落とした。
それから間もなく、地上に戻った”みなも”が最初に発したのは体が重い、という驚愕混じりの不平であった。
「体を動かすとそうなるんだよ。疲労ってやつさ。泳ぐと体力を使うし、腹も減っただろうから何か食べに行こうか。船首像も無事戻っていたみたいだからお祝いだ――お前さんは物を食ったこともないんだろう?」
「ないわ。でも先にこの体の重さ、何とかならないかしら。お腹のあたりから二つ折れになりそう。」
”みなも”はそう言って、みなもがインストールされたままの携帯電話を握った手を雨達の腕に回し、すがりついた。それに驚いたのはもちろん雨達と、携帯電話に憑いているみなもである。
『あの、それはやめた方が……。』
困ったように液晶画面を明滅させながらみなもが言い、きょとんとした顔で「どうして?」ともう一人の”みなも”が首をかしげる。
「おれは独身だから、嬢ちゃんみたいな歳の子供や恋人がいると思われるのはさすがに困る。」
雨達はそう言って腕を抜くと”みなも”を後部座席に追いやり、車を街へ移動させたが、食堂街に着く頃には”みなも”は疲れて眠ってしまっていたので必死に起こさなければならなかった。店に入ってからも注文がなかなか決まらず、料理が来たらその熱さや味に驚き、実に賑やかである。
「何だか本当に父親になったような気分だ。普段の嬢ちゃんがいかに立派に育ったかよく判るよ。」
雨達が言い、食卓の上にちょこんと乗せられた携帯電話の中でみなもが苦笑混じりに液晶の照明をぱちくりさせた。
「体があるのは楽しいけど、慣れるまでは大変だわ。」と言ってその後”みなも”があっさりと体を返してくれたのは、よほど疲れたからに違いない。
「言った通りだったでしょう?」
そう言って微笑むみなもが元に戻って良かったと、雨達は心の底から思った。
了
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