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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜を行く者



 ついにこの時が来たのだ。
 予想はできていた。覚悟も。任務を負うなら自分しかあり得ないことを、彼女は重々承知していた。
 司令室に向かう足が自然と速くなる。あくまで冷静さは失わず、凛と背筋を伸ばし、靴音を高く響かせて歩いた。廊下で同僚とすれ違えば、余裕を持つ者の微笑を浮かべて挨拶を交わす。男達の視線は自然と彼女に吸い寄せられた。同性すら、憧憬の眼差しできびきび歩く彼女の後ろ姿を追った。
 彼女は美しかった。少女から女性に移り変わる年齢特有の瑞々しさに溢れ、整った面(おもて)には幼さと大人の魅力が入り混じる。良く手入れされた艶やかな長い黒髪が、歩調に合わせてさらりと揺れた。スーツにタイトスカートを身につけているが、豊満な肉体にはやや窮屈そうだ。匂い立つ美、という表現がこれほどぴたりと来る女性もそうはいまい。

「失礼します」

 琴美は司令室の戸を開けた。
 ブラインドで日照を遮った薄暗い部屋。マホガニー製のデスクの前に座り、司令官が彼女を待ち受けていた。
「特別指令だ」
 司令官はごく手短に言った。それで十分――彼女は承知していた。
 ここからが彼女の時間だ。
 自衛隊・特務統合機動課所属の暗殺者、水嶋琴美の時間は。



「ついに指揮官の所在地を突き止めたのですね」
 デスク越しに渡された極秘書類をめくり、琴美は落ち着いた声で言った。
「このチャンスを逃すわけにはいかない。この任務が務まるのは君くらいのものだろう」司令官が答える。
 琴美は書類から顔を上げる。「暗殺ですね」
 司令官は黙って頷いた。
 敵はセクトと呼ばれる悪魔崇拝教団。日本と言わず世界中からその存在を危険視されるテロリスト集団で、自衛隊は早急の対応を迫られていた。その実働部隊指揮官の暗殺が、今回琴美に課された任務である。
 琴美は書類に添付されたターゲットの写真を見た。琴美は形の良い眉を顰める。
 四十歳ほどの中肉中背の男だが、卑劣な行いを重ねた結果、隠しようもない醜悪さがその顔には滲み出ていた。男の薄汚れた魂の肌触りが感じられるほどだ。
 嫌悪感を覚える一方、これでいいという思いもある。これなら躊躇いなく手を下せる。数ページに渡る罪状のリストは、そのまま男の不快な容姿に結びついた。
「あさましいこと。悪魔に魂を売り渡した人間の顔つきですね」
 僅かに目を細め、見下すような口調で琴美は言った。
「その通り。正義は果たされねばならぬ」
「お任せ下さい」
 琴美はタイトスカートからすらりと伸びた両足を合わせ、小さく敬礼をした。彼女の口元には自信に満ちた微笑が浮かんでいた。


 琴美は司令室を辞去したその足で「部屋」に向かう。
 支度は急がなかった。
 部屋に入って施錠すると、琴美はスーツの上着を脱いで、椅子の背もたれにかけた。
 一口に言えば更衣室だが、琴美にとっては特別な意味を持つ部屋である。彼女はここで、美しい女から、容赦なき暗殺者へと変わるのだ。
 ロッカーには琴美のためにあつらえられた戦闘服が収められている。服を取り出し、まずは綻びがないことを確かめた。
 それからタイトスカートのホックを外す。腰を少し左右に揺すると、スカートはすとんと床に落ちた。ブラウスとストッキングも脱いでしまい、レースの下着だけを身につけた姿で、琴美は全身鏡の前に立った。
 躍動的な肢体がそこにはある。豊かな乳房は重力に逆らうようにしてつんと上を向き、引き締まったウエストと形の良いヒップがコントラストを成して、しっかりと上半身を支えていた。腰から太股、足から爪先に至るまでのラインは、まるで計算し尽くされたようだ。
 膚(はだえ)の下には、見た目からは想像もつかぬ力が漲っている。適度についた筋肉は脳から送られた信号を的確に受け取り、一分の無駄もない動作を実行に移す。その全身が武器だ。だからメンテナンスは怠らなかった。獣が爪を研ぐように、琴美は最大の武器である身体を常にベストの状態に保っている。
 度重なる危険な任務にも関わらず、琴美の身体にはただ一つの傷もついていなかった。白い肌を何者も汚すことはできない。滑らかな肌は、琴美の暗殺者としての能力を自ずと物語っていた。
 鏡の前でくるりと回って全身をチェックすると、下着も取って、ストッキングの上に置く。そして戦闘服の着替えにかかる。
 琴美の戦闘服は最先端の素材でできており、豊満な肉体のために、いずれも特別に縫製されていた。素肌の上に直接スパッツを履き、上半身には密着したインナーを身につける。肌を守るのと同時に、ややもすれば邪魔になりがちな胸の膨らみを程良く締めつけて支える役割を負っていた。
 スパッツの上には、辛うじてヒップを覆う長さのプリーツスカートを履く。戦いの中で激しい動きをすると、スカートは琴美の動作に合わせて綺麗な軌跡を描いた。
 上着は着物を彷彿とさせる。袖は五分まで短く詰めており、帯を巻いた形に改造されている。水嶋琴美の出自を考えれば得心のいくデザインだ。彼女は忍者の血を引く家系の生まれだった。
 着物風の上着に短いプリーツスカートという組み合わせは彼女のシルエットを引き立てた。
 椅子に腰を降ろすと、膝まである編み上げのロングブーツを片方ずつ、裸足の足に履いていく。靴紐を穴に通し、丁寧に結ぶと、踝を軽く回してきちんとフィットしていることを確かめた。ブーツにはヒールがついていて、姿勢の良い琴美の立ち姿を一層美しく見せる。
 琴美は椅子から立ち、改めて全身を姿見に映し見た。
 申し分ない。暗殺者、忍、俊敏な獣――今の自分は何者にもなり得る。
 そしてまた何者でもない。
 琴美は夜の闇にいとも容易く溶け込んだ。闇に乗じた琴美の姿を捉えられる者は少ない。常人ならざる素早い身のこなしで、琴美は文字通り夜を暗躍する。
 仕上げにグローブをつけ、太股にはベルトでくないを括りつける。琴美はこの得物を自在に操った。
 その状態で四肢を伸ばしてみる。何も問題はない。準備は整った。
 後は日没を待って出撃するだけ。


 彼女は椅子に腰を降ろすと、目を閉じ、深く息をつく。両の胸の膨らみの下で心臓が鼓動を打っていることを意識した。
 琴美は己の能力に自信を持っていた。無知や無謀さゆえの、根拠のない自信ではない。彼女は肉体を操る術を知り尽くすと同時に、死の感触をも心得ていた。
 どう戦えば良いか。どこを狙えば確実に敵を仕留められるか。琴美は良く知っている。死は常に彼女の隣りに存在していた。
 だから出撃前は心を沈め、自らの鼓動に耳を澄ませ、自分が生きていることを確かめる。時が来れば、その揺ぎない生命で以って、彼女は敵のそれを奪いにいく。


 時間だ。琴美は目を開けた。
 さっと立ち上がり、隙のない身のこなしで部屋を出ていった。
 ヒールの音を高く響かせ、艶やかな髪を揺らし、琴美は慣れ親しんだ夜に溶け込んでいく。
 彼女の行方を阻むものは何もない。



FIN.