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校舎海域
学校というのは、とかく怪奇現象の多い場所である。
同じ年頃の子供ばかりが何百人と集まり、毎年ほぼ変わるところのない教師の教えを淡々と受けては一定周期ごとに入れ替わっていく、そんな過程を何十年と続けていく施設など学校をおいて他にまず見られない。それほどまでに特異な空間は、実に閉鎖的でもある。閉ざされた領域の中で、世代の違う子供たちが重ねていくさまざまなもの――学業、経験、思想、人とのつながり――そういったものが幾重にも積まれて混じり合い、怪談という名の伝説を生むのかもしれない。
ましていわくのある地に建てられた学校ならそれはなおのことで、その点だけでも私立神聖都学園は格好の舞台となりうる素養を秘めている。実際、怪奇現象を追いかけて校内を駆け回る怪奇探検クラブなるものが存在するほど怪異のネタは豊富だ。
その多くは単なる噂として楽しまれる程度にすぎないが、その他愛ない話題の中に本当の「何か」がまぎれこんでいても不思議はない。それは音もなく学生たちに近づき、彼らが気付いた時にはすでに戻れない、魔の境界の中で目の前に用意された扉を開いてみせるのだ。我らの世界へようこそ、と。
「バイバイ、ゆ〜な!」
「月夢(つきゆめ)さん、また明日。」
「うん。気をつけて帰ってね。」
放課後、数少ない友人たちに柔らかな笑みを投げかけ小さく手をふって、優名はいつものように彼女たちを見送る。寮に住んでいる優名は友達と一緒に寄り道をしたことさえないが、怪奇現象に関心がないのと同じくらいに彼女は学校の外にも興味がなかった。趣味の刺繍や半身浴、石榴鑑賞といったものの方が優名には魅力的である。
帰って宿題をすませたら刺繍の続きをやろうかしら、などと考えながら優名は校門に向かう皆とは反対の方向へ歩き出した。
そんな彼女を廊下の途中で呼び止めたのは、どことなく冴えない容姿の中年男である。
「そこの学生さん、寮に住んでる人? ある怪奇現象について調べているんだけど、ちょっと話を聞かせてもらってもいいかな?」
「怪奇現象、ですか?」
教師ではなさそうだけどそんなことを調べてどうするのかしら、と思いながら優名は首をかしげて男を見返した。その様子から不審がられていると察したらしい男が気まずそうに頭をかく。
「あ、おれは怪奇現象の調査に来たオカルト専門探偵の雨達(うだつ)と言います。」
「探偵……」
男が名乗り、優名がおうむ返しに呟いた次の瞬間、廊下の窓ガラスがピシリと鋭い音をたてた。向かい合った二人が同時に窓へと目を向ける。すると、照明のついた廊下が暗く感じられるほどの白光が窓の外の景色を飲み込み、ガシャン、とガラスが砕ける音と共に二人の視界をゆがめた。目に映った映像がすべて粉々にはじけ飛び――それは優名の意識も一瞬でさらってしまった。
気が付くと夕方だったはずの景色は闇と薄明かりに閉ざされ、廊下にいたはずの他の者は優名に声をかけた自称探偵の雨達をのぞいて誰一人見当たらない。割れたはずの窓ガラスは元通りだが、その外は夜空と眩しいほどの月しか見えなかった。
「これは一体……?」
「どうやら向こうから調査に協力してくれる気になったらしい。」
優名の呟きに雨達がそう答えると、どこかで薄い氷を踏み割るようなピシピシというかすかな音が響いてきた。それが徐々に近づいてくる。
「な、何でしょうかこの音?」
「こっちに来る。」
その言葉の直後、天井や床をはじめ校舎全体が海のように波立ち、幾多の波紋が円を描いてゆらいだ。ずらりと並んだ教室の扉や窓が小波を立てたかと思うと、コンクリートの海から目には見えない「何か」が飛び出し二人の頭上を走り抜けた。目に映る景色を吸い込み、ゆがませ、キラキラと月光を跳ね返して輝きながら長い廊下に落ちた影の中へと消える。
しかし、視界の端にちらと映りこんだだけで”それ”は優名の目を奪った。冷ややかな光と闇の明滅が息をするのも忘れさせる。
”それ”は明らかに人為を超えた力と存在感をまき散らし、五感と心をむしり取るナイフのような邪悪さと美で周囲を満たした。
恐怖からか、それとも別の何かを心待ちにするような様子で身をすくませた優名の手を取り、雨達は駆け出した。
手を引かれて走りながら、優名は黒い水晶のような瞳を見開いて背後をふり返る。まるで”それ”を探すように。
醜いものを拒絶することは簡単だ――ただまぶたを閉ざせばそれですむ。しかし、美しいものからは目をそらすことさえ難しい。それは美しいがゆえに心を惹き付け、意識を奪い、見る者を支配する。それがいかに死を招く恐ろしいものだと判っていても拒絶することは難しく、生まれた時から死ぬまで離れることはないと誓い合ったはずの首と胴が永遠の別れを告げる鐘の音さえ届かない――。
「おい、大丈夫か?」
雨達にそう声をかけられて優名は我に返った。顔を前に戻すと、幅の広い探偵の肩ごしに廊下が延々と無慈悲に続いているのが見える。
「廊下が……あの先は寮に通じる扉があるはずなのに。」
「ああ、出口らしきものは全部どこかに行ってしまったみたいだ。さっきのあれにつかまるのはまずそうだし、逃げながらここを出る方法を考えよう。」
探偵のそんな言葉をぼんやりと聞きながら、優名は廊下だけを切り取って先端をつなぎ合わせたような無限回廊の中にいることを悟った。その背後から美しい恐怖が迫ってくる。
しかしそれは優名たちを狙っているのかいないのか、縦横無尽に駆け回るばかりで攻撃しているという風でもなかった。ただ逃げ出したい恐怖だけが視界を奪うほどにたちこめた霧のような濃度で追ってくるのだ。
二対の靴が蹴る床を割って、亀裂が走り抜ける。
足元が砕け、優名は短い悲鳴をあげてゆがんだ床に足を取られバランスを崩した。そこに向かって見えない波が突き進む。
優名は自分に迫り来る”それ”から目が離せないまま、体をこわばらせた。凍りついた血が全身の動きを止めてしまったかのようだ。
そんな優名を抱えて雨達が”それ”の進行方向から飛びのいた。そのはずみで優名の制服のポケットから小さな鏡がこぼれ落ちる。
”それ”が映りこんだ鏡面が割れ、砕け散るのと同時に世界が再度吹き飛んだ。
「抜け出せた……んでしょうか……?」
「そうみたいだな。」
床に座り込んだ二人の傍らには割れた鏡が転がっている。廊下には人と喧騒が戻り、窓の外には見慣れたグラウンドと夕方の倦怠感ただよう日差しがあるばかりだった。
「大丈夫か? 声をかけたせいでお前さんも巻き込んでしまったみたいだな。ごめんよ。」
おれは職業柄そういうものには縁があるからと言った雨達は砕け散った鏡を申しわけなさそうにながめて、今度弁償すると優名に約束をした。それから、
「どんな怪奇現象なのかはよく判ったが、あれで消えてなくなったのかはっきりするまでは調査を続けるから、改めて話を聞きに来ることもあるかもしれない。とりあえずお前さんの名前を教えておいてくれないか?」
優名は差し出された手を半ば呆然と取って立ち上がりながら、「高等部二年の月夢優名です。」と呟くように答えた。
「へえ、お前さんにぴったりの綺麗な名前だ。よろしくな。」
雨達はにこやかにそう言ったが、怪奇現象に心を躍らせるような性格ではない優名は、オカルト専門の探偵と果たしてよろしくして良いものだろうかと思いながらひかえめに微笑み返した。目の奥に焼きついている、恐怖の名残を拭い去ろうとするように。
了
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