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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜を行く者 -敵陣へ


 人の目に捉えられないものがある。
 夜の闇と、風だ。
 闇は視界を奪うが、手を伸ばせばつかめるというものではない。ただ茫洋としている。風は肌に感じることもできれば、舞い散る枯れ葉の行方を追うこともできるが、やはり手でつかめない。
 水嶋琴美はその両方だった。漆黒の戦闘服に包まれた琴美の姿は闇に溶け、捉えようと手を伸ばせば、風のようにするりと逃れてしまう。彼女の身体に流れる忍の血がそれを可能にした。
 琴美は文字通り暗躍する。特務統合機動課から出動して半刻、夜の闇はいよいよ色濃くなっていた。
 目的地は、特務統合機動課と長らく敵対関係にあった悪魔崇拝教団セクト――その実働部隊の指揮官の首だ。
(皮肉なこと)
 琴美の口元に微かな笑みが浮かぶ。勝利を確信する微笑だった。
(悪魔崇拝というからには、悪魔で対抗しようというつもりかしら)
 闇に生きるのは、何も悪魔ばかりではない。
 街の灯りを眼下にビルの屋上から跳躍し、足音も立てずに着地する。両足が体重を受け止めた衝撃に、インナーで締めつけられた琴美の豊かな胸が揺れた。
 琴美は立ち上がり、屋上から街を見下ろす。一見平和な街。ゆっくりと瞬く明かりは暖かそうで、どこかで後ろ暗いことが行われていようとは想像もつかない。だが琴美は知っていた。それこそ灯りの数より多くの犯罪が、今この瞬間にも発生しているのだ。
 正義は勝つ、などと言うつもりはない。琴美の任務が「正義」であるかどうか――少々手荒な方法で犯罪の芽を摘むことが正義なのか――今まで一度も自身に問わなかったわけではない。それでも琴美に迷いはなかった。自分の能力は犯罪を是正するために用いられるのであり、現時点で、勝利は確定している。
「行くわよ」
 琴美は一歩踏み出す。敵陣は目前だ。
 強い風が吹き上げていた。

  *

 セクトの実働部隊の間ではある噂が流れていた。「悪魔」が彼らを付け狙っている、というのである。
 一度目をつけられれば決して逃げることはできない。まるで悪魔と交わした契約書のように容赦なく履行される「死」。それが彼らに迫っているというのだ。
「喜ばしいことではないか。それでこそ我々の崇拝する悪魔だ」
 実働部隊の指揮官は、唇を醜く歪めた。悪趣味な指輪がはまった彼の手には、ワインのグラスが握られている。
「しかしその鎌が我々の頭上で光っているとしたらどうするのです」
「君は悪魔の話をしているのかね、死神の話をしているのかね」指揮官は面白くなさそうに幹部の発言を一蹴した。「その噂の出所を突き止めたら罰を与えておけ」
「は。しかし……」
「十分だ。酒が不味くなる」指揮官は冷たい視線を幹部に向けた。
「申し訳御座いません」
「ふん」
 指揮官は鼻を鳴らすと、椅子に深々と沈み込んだ。
 薄暗い部屋には指揮官と幹部の他に五人の男がいた。いずれもセクトの中核を成す人物で、実働部隊の腕利き達が部屋の内外を固めている。
(死神とやらが実在するなら、その姿を拝んでみたいものだ)
 部隊と渡り合うなら、それなりの精鋭でなければならない。ましてや単独であることなど――
 そのとき、扉の外でくぐもった打撃音が響いた。
 場に居合わせた幹部達は一斉に扉の方向を振り返った。
「何事だ?」
 指揮官は僅かに椅子から腰を浮かせる。
 まさか死神――
 脳裏を嫌な想念が掠める。動物的な直感だった。しかし「死神」の姿は、彼らの誰もが予想し得なかったものだった。
 扉が開く。逆光に黒いシルエットが浮かび上がった。長い髪に豊満な胸、引き締まったウエストとすらりと伸びた長い足。
 死神は女だった。
「気安く悪魔などを崇拝するものではありませんわね。すべて我が身に返ってくるのですから」女の声が響き渡る。「これまでの悪行により、死んでいただきます」



 部隊は素早く展開した。
 一斉に複数の銃口が琴美に向けられ、引き金が引かれる。外に待機させているはずの部隊の誰一人応戦に駆けつけないことに彼らが気づいたのは、その一瞬後だった。
 琴美は軽く身を捻り、銃弾を交わした。ごく僅かな動作で十分だ。
「何をしている! 早く女を――」
 再び弾丸が琴美を襲う。が、琴美はそれもさらりと交わした。まるで風のようにひらりひらりと舞い、まるで捉えられない。
 美しい弧を描いて反り返る琴美の身体。両手が床を捉え、高々と上げられた足が敵の顎に入る。その体勢からすっとしゃがみ込み、迫り来る敵に向かってクナイを放つ。あっという間に二人が昏倒した。
 低姿勢で部屋を無人に駆け回り、その後を追うように壁に銃弾の痕が穿たれていく。琴美は常にほんの数センチだけ銃弾の先にいた。集中砲火を跳躍で交わし、テーブルに飛び乗った琴美は鮮やかな回し蹴りを正面の敵に見舞う。同時にクナイを投げ、左右から迫る敵も倒した。
「くっ……なぜ当たらんのだ!」
 指揮官がうそぶく。男は焦って無駄に銃弾を消費していた。
「死神だから、とでも答えれば満足でしょうか?」
 弾を撃ち尽くした大男が、銃を逆手に持って琴美の頭上に振り下ろす。琴美は昏倒した敵の額からクナイを抜き、銃身を受け止めると、すかさず大男の足を薙ぎ払った。
琴美の攻撃はすべてが流れるように美しかった。琴美の動作に合わせて敵が突っ込んでいくようにも見える。
 その動作は軽いのに、琴美の肉体には確かな質量があった。跳躍する度に豊かな胸が波打ち、着地にやや遅れて重力に従う。腰は上体の重みをしっかり受け止め、両足のバネが彼女を次の行動へ導く。重力すらも味方につけているようだ。
 琴美は一人ずつ確実に仕留めていった。彼女の着実で無駄のない攻撃は、かえって敵の恐怖心を煽ったようだ。死神の鎌が自分目がけて振り下ろされる瞬間を、彼らはただ待たなければならなかった。
 そして指揮官を一人残して、ついに全員が倒れた。琴美の胸の谷間には汗が滲んでいたが、彼女自身は息一つ切らしていない。
「潮時ですね」
 琴美は攻撃の姿勢を解き、編み上げブーツの踵を揃えて、真っ直ぐ立った。指揮官と対峙する。
 指揮官は銃口を琴美に向け、じりじりと後退する。
「無駄な足掻きだと、まだわかりませんか?」
 琴美が前に踏み出した瞬間、指揮官は気が狂ったように銃を乱射し始めた。が、どれも琴美には当たらない。悠然と男に迫る。
「当たりませんわ」
「この……死神が!」
「悪魔の名の下に罪なき人々を殺したあなたが、私を死神と呼ぶのですか」
「……くそっ!」
 指揮官は薬莢の空になった銃をかなぐり捨てると、琴美に向かってきた。
二歩、三歩、ダンスのステップを踏むように身を捻り、琴美は攻撃を交わす。力の差は歴然としていた。琴美はこちからは一切攻撃を仕掛けず、敵を受け流した。
 男が力尽きるのは時間の問題だった。必死の一撃を軽く捻られた指揮官はそのまま床に倒れたが、辛うじて無様に転倒するのは免れ、片膝をついた。ぜえぜえと肩で息をして、憎らしげに琴美を見上げる。
「貴様……何者だ」切れ切れの息の下で男は言った。
 琴美は形の良い唇の端を持ち上げ、余裕の微笑を浮かべる。
「あなたのような人間に名乗る名はありません。それよりも、あなたが自白なさる立場です」
「…………」ぎり、と悔しそうに男は唇を噛む。
 琴美の美しい面(おもて)から、ふと微笑が消えた。冷ややかな目で男を見下ろす。
 静かだが威圧感のある口調で、琴美は言った。
「降伏なさい。悪魔崇拝教団の実態を吐いていただきます」