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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


君がいる世界


 一艘の船が湖面をゆっくりと横切っていく。ごく小さなボートである。漕ぎ手は特に急いでいる様子もなく、時折思い立ったようにオールを動かしては、東へ西へとあてもなく船を進めた。
 比較的穏やかな夏の日で、空気はからっとしており、水温も冷たすぎるというほどではない。神様が恋人達に微笑みかけた美しい日だった。
 その「恋人達」には、アドニス・キャロルとモーリス・ラジアルも含まれる。彼らは酷暑を避けて郊外にあるモーリスの土地を訪れていた。湖もモーリスの所有地に含まれており、彼らの他に人の姿はない。辺りは森閑としていた。オールが水をかき分ける音が静寂に溶け込んでいく。

「人間の寿命は誰が定めたんだろうな」
 アドニスはボートの上から手を伸ばして水に浸した。水草の影から小さな魚が逃げていくのが見える。
「どうしましたか、急に?」
 向かい合ってボートに乗っているモーリスは、微笑を浮かべてアドニスに答えた。
 オールを動かすと、船は水面を滑るように前進する。といってもどこへ向かっているわけでもなかったが。
「八十年そこそこでは足りない気がしてね」とアドニス。「もう何年生きたか数えるのも面倒になってしまったが、それでも俺はまだ生き足りないような気がする」
 モーリスは不思議そうに恋人の横顔を見つめる。アドニスは照れくさそうな微笑を浮かべた。
「俺の知らない世界なんていくらでもあるんだなと、思ったのさ」
「人類が宇宙へ移住する手立てを得るには、あと二、三世代は交代がありそうなものですけれどね?」
「一度月へ行ってみたいもんだな。いや、むしろ月の影響をまったく受けないところまで行きたい」
「公転周期が地球と大きく異なる惑星だったらどうします? もしかしたら二つ以上衛星があって、三十日新月がつづいて、三十日満月がつづくかもしれませんよ」
 アドニスは口をへの字に曲げて嫌そうな顔をした。「……やっぱり地球が一番だな」
「同感です」モーリスは笑った。満月が近づくにつれ次第に眠そうな顔つきになっていくアドニスである。「それで、この地上のどこに、まだあなたの知らない世界があるんですか、キャロル?」
「ここにさ」とアドニスは水面を指差す。「水中が良く見える。まるで別世界の表面を滑っていくみたいだと思ってな」
 太陽の光を受けてきらきらと乱反射する湖面のすぐ下では、真っ直ぐに生えた水草の間を、名前も知らない小さな魚達が群れを成して泳いでいた。
 故郷のスコットランドにはこんな湖もあったかもしれないが、と思う。日本ではしばらく澄んだ水を見ていなかった。陸の延長にある不安定な大地という感覚しかもたらさない濁った水と違って、透明なそれは、惜しげもなく彼らの足元に広がる世界をさらす――いや、それも太陽の光が届く距離まで、か。俺が見ているのは、未知の世界のごく表面に過ぎないのだ。
「私はね、キャロル。世界中を旅してきましたが、つい最近まで知らなかった世界がありますよ」
「つい最近?」
「ええ。なんだと思いますか?」
「じらすなよ、モーリス」
「折角ですから泳ぎましょうか? 束の間、可愛らしいお魚さん達の世界にお邪魔させていただくことにしましょう」
「おい、モーリス。もったいぶるなって」
 モーリスは目を細めて笑みのようなものを形作る。と、思ったら、オールをボートに置いて、自分一人で湖に飛び込んでしまった。反動で小船が揺れてひっくり返りそうになる。水飛沫がアドニスの顔にかかった。
「モーリス――」
 モーリスは水面から顔を出すと、額に張りついた金色の前髪を片手で退けて、悪戯っぽい目つきでアドニスを見上げた。
「ほら、早くいらっしゃい。きちんと捕まえておいていただかないと。どんどん知らない世界へ潜っていってしまいますよ」
 これ見よがしにアドニスに水をひっかけると、モーリスはどんどん船から離れていった。魚か、君は。と思う。
 もう少し船に揺られていたい気もしたが、一人残されても退屈なので、モーリスの後を追うことにした。
「待てよ、モーリス!」
 湖の真ん中で追いついて、後ろから彼を抱き締める。モーリスはくすぐったそうに首を竦めた。
「それで、どこでネバーランドを見つけたって?」
「ネバーランドでも、ワンダーランドでも、呼び名は何でも構いませんが、行ってからずっと帰ってこれなくなっているんですよ」
「は?」
「さ、あそこに見える島まで競争しましょうか?」
 アドニスの腕からするりと逃れると、モーリスは再び水面に潜り込んでしまった。
「おい、モーリス!」
 あっという間に姿が見えなくなってしまう。
 まったく。魚のような奴だ。


    *


 満月と新月のちょうど半ば。どっちつかずでアンニュイな時期。
 自転と公転、月の満ち欠け、人間の生と死、その限りない変転。
 アドニス・キャロルは、とうの昔に時間の輪の外に放り出されてしまった。
 勝手に回りつづける話の外で一人生きるアドニスの元に、ある日、同じく時から見放された男が飛び込んできた。そう遠い昔のことではない。アドニスの尺度からいったらごく最近だ。
 男の名はモーリス・ラジアルと言った。


    *


 アドニスは時間が止まったような廃教会で寝起きしていた。
 太陽の光も月の光もステンドグラスを通して薄められてしまうので、昼なんだか夜なんだか良くわからない。時間だけでなくあらゆる生命活動からも取り残され、夜間ともなると、空気すら微動だにしていないのではないかと思われるほど静かだ。
 アドニスは静かな隠遁生活に満足していた。外の世界はあんまり目まぐるしく変わりすぎる。何しろ人間といったら八十年も生きれば良いほうで、瞬きをしている間に死んでしまうのだ。今日会って明日死んでしまうような人間にいちいち情を移していてはやっていられない。アドニスは一人で生きることを選んだ。
 ところがモーリス・ラジアルはアドニスが知るどの「人間」とも違った。
 唯一時間を共有できる者。循環から完全に取り残されて生きるアドニスに、たった一人寄り添える男である。
 

 彼らは、互いの存在を確かめ合うように、夜毎肌を重ねる。アドニスがねぐらにしている教会で会うこともあれば、モーリスが多数所有する家や別荘で過ごすこともある。
「それで、今どこにいるんだ、君は?」
 アドニスは隣りで仰向けに寝転がっているモーリスの耳に囁きかけた。モーリスの解いた髪がベッドの上に広がっていた。
「どこって? あなたの隣りですよ、キャロル」
「一回踏み込んで、帰ってこれなくなってるんだろう?」
「またその話ですか?」
「振ってきたのはそっちだろう」
「だから、あなたの隣りですってば」
 モーリスは腕で上体を支え、アドニスの上に覆いかぶさるようにしてキスをした。アドニスは彼の肩に両腕を回して逃げられないようにすると、少し眺めのキスをする。キスは良かったが、はぐらかされてしまった、と思った。
 身じろぎした拍子に、ベッドの枕元からモーリスのものらしい本が床に落ちる。モーリスのものらしいというのは、自分の持ち物ではないので、必然的にモーリスのものになる、ということだ。
 ダイニングとして使っているスペースには、洒落た模様の入ったワインオープナーと美しいグラスが二つ。これもワインを好むアドニスのためにモーリスが持ち込んだものだ。ある朝、椅子の背もたれに引っかけておいたシャツを羽織ったら、モーリスのものだった、なんていうこともある。
「そういえば、間違ってモーリスのシャツを着てしまっていたんで、クリーニングに出したんだった」
「どのシャツですか?」
「薄いブルーの」
「ああ、そういえばクローゼットになかった気がしますね」
「俺のネクタイもどこかに行ってしまったんだが」
「それなら私の部屋に忘れていきましたよ。なかなか洒落た柄ですね」
「あげるよ、そのまま使ってくれ。どうせネクタイなんて滅多にしない」
「では今度私のほうからプレゼントさせていただきましょうか」
 アドニスは笑った。「どっちの持ち物、っていちいち区別する感じでもなくなってきたな」
「確かに」
「……まるで同居してるみたいだ」
 押しつけがましくならないだろうか、と危惧しながら、なるべく平静を装ってアドニスは言ってみた。少し間があって、「ええ。本当に」、とモーリスは答えた。
 アドニスはちらりとモーリスの顔を見る。彼は胸の上で両手を組み、心地良さそうに目を閉じていた。


 話はそれきりだった。
 日中の疲れも相俟って、二人はいつの間にか眠りに落ちてしまった。
 目が覚めたときはもう朝で、けれどもアドニスの廃教会は相変わらず薄暗くて、外に出てはじめて小雨が降っていることに気づいた。
 モーリスの姿はなかった。アドニスがいつまでも眠っているので帰宅してしまったらしかった。
 少し前までは気に入っていた一人ぼっちの生活が、途端に物足りないものに思えてくる。
 おあつらえ向きの雨だ。世界はモノトーンで、退屈だ。
 雨の当たらない場所で煙草を吸っていると、シャツのポケットの携帯電話が鳴った。モーリスからだった。アドニスは煙草を靴の裏で揉み消して携帯に出た。
「もしもし」
「おはようございます、キャロル。ぐっすり眠れましたか?」と、電話の向こうでモーリスが言う。
「ああ。ついさっき起きたところだ」
「起こすのも忍びなかったので、先にお暇しましたよ」
「ああ。……何か忘れ物でもしたか?」
 また、と胸中でつけ加える。いえ、とモーリスは答えた、
「忘れ物はありませんが、言い忘れたことがありました」
「何?」
 一瞬の間の後。モーリスは言った。「同居、できますよ?」
「……えっ?」
 アドニスは携帯電話を取り落としそうになった。いつもの礼儀正しいが飄々とした口調で、ジョークなのか本気なのか、その声色からは読み取れない。
「言い忘れたことって――それか?」
「あともう一つ。どこでネバーランドを見つけたか、とお訊きになりましたね」
「ああ――」
 アドニスはふと空を見上げる。
 いつの間にか雨は止んでおり、雲の隙間から朝の清々しい陽光が射し込んでいた。アドニスは眩しさに目を細めた。
「あなたの隣りにです、キャロル。愛する人が隣りにいると、見飽きた風景すら新鮮に見えるものなんですね」
 携帯電話を手にしたまま、きょとんとしてしまう。モーリスらしからぬ台詞だと思った。けれどもその優しい口調から、彼が心からそう思って言っているのだとわかる。アドニスは思わず口元を綻ばせていた。雨が上がって、空には虹がかかっている。
「そっちからも虹が見えるか?」
「ええ、良く見えますよ」
「折角だが、ネバーランドにもオズの国にも、行く必要はなさそうだな」
 ――なぜなら俺の隣りには君がいて、君は俺にまったく新しい世界を見せてくれるのだから。
 皆まで言わずとも、モーリスも同じ気持ちでいたことだろう。ええ、そうですね、と彼は電話の向こうで答えた。


 今日も美しい一日になりそうだ。

 


FINE.