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<東京怪談ノベル(シングル)>


ナザール・ボンジュの誘い
夏の日差しがさんさんと降り注ぐ、平日の昼下がり。
試験期間のために、午前中だけで授業は終わった。
帰宅して勉学に勤しむのが学生の本分だとは分かっていても、
走りだしたくなるような夏のさわやかな空気に、抗うことなどできようか。
多くの学生がそうするように、海原・みなももまた、帰りぎわに寄り道をすることにした。

アンティークショップ・レンの仄暗い店内には、所狭しとばかりに古今東西の骨董品が並んでいる。
中には見るからに怪しげな品もある。
みなもは、そういったアンティークグッズの中から、目に留まるものを一つ一つ持ちあげて、つぶさに見つめていた。
「気になるものはあったかい?」
好奇心旺盛な客の姿を見つめながら、店主の碧摩・蓮は、店の奥に設えられた椅子に腰かけ、紫煙を燻らせている。
声に反応して振り向いたみなもは、丁度良かったとばかりに、手中におさめたガラス製のお守りについて、店主に問いかけた。
「蓮さん、このお守りは?」
「ああ――そいつは、ナザール・ボンジュさ」
「ナザール・ボンジュ……?」
「気に入ったなら、安く売ってあげるけどさ……そいつはちょっとした曰くつきの品だよ。いいのかい?」
「このお店に、いわくの付いていないものなんてあるの?」
みなもが苦笑してそう言うと、店主はからからと笑う。
「そりゃそうだな。大なり小なり、何かしらは『持ってる』ものばかりだ」
「ちなみにどんな訳あり商品なのか、聞いてもいいですか?」
その言葉に、蓮はううん、と、しばし考えるような素振りを見せる。
「まあ、持って帰れば分かるさ。あたしの口からは何とも言えんね」
そう言われると、余計に気になるのが人間というもの。
みなもも例外ではなく、――まるで何かに誘われるかのように、そのお守りを譲り受けることにしたのだった。

「買ってはみたけど……、何が起こるのかなぁ」
試験勉強もそこそこに、みなもはベッドに寝転んで、手に入れたお守りをじっと見つめていた。
蓮は、持ち帰ることを止めようとしなかった。
それならば大した害は無いものなのだろうが……、彼女が言葉尻を濁したのが、どうも気になる。
人には言いづらいようなことが起こるのだろうか?
いろいろ思案してはみるものの、なかなか、これといった答えも思いつかない。
みなもは諦めて、静かに瞳を閉じた。
右の掌には、あのお守りを握りしめたまま……。

「――さん。みなもさん」
誰かが呼ぶ声がする。
うっすらと目を開けると、そこは深く仄暗い森のような場所だった。
自分の部屋で眠っていたはずなのに。
驚いて辺りを見回すみなも。
しかし周囲は見渡す限り、高い木々の生い茂る、緑の世界。
ただの夢だとは思えない。……或いはこれも、超常現象なのだろうか。
そう思えるほど現実感のある空間に、みなもは立っていた。
(もしかして……、これが、あのお守りの……?)
そう気付いた瞬間、みなもの頬を、ざ――と生ぬるい風が撫でていく。
「――ようこそ、私の世界へ。海原みなもさん」
ガラスのように透明な声が、どこからともなく聞こえてくる。
「誰……?」
問いかけるように呟くと、みなもの目の前に、一人の女性が姿をあらわした。
この世の者とは思えないほどに整った顔、うらやましいほど大きな瞳に、モデルも顔負けのプロポーションをした、妙齢の女だ。
ただし、流線を描く彼女のしなやかな髪、その先端には……
「へ、び」
目を閉じ、もう一度開く。けれど見間違いではない。
長く伸びた彼女の髪の先からは、まるで爬虫類の顔のようなものが、ちろちろと舌を出し蠢いている。
(まるで――『メデューサ』みたいな人)
みなもが呆然と見つめていると、女は困ったように眉尻を下げる。
「爬虫類は苦手?」
「……はい、好きではない、です」
「そう。それじゃあ仕方ないわね」
くすくすと艶やかな笑みを浮かべて、女はその場でくるりとターンする。
すると今の今まで怪しげに蠢いていた彼女の髪は、瞬く間にふつうの女のそれへと変わった。
「これで、どうかしら」
驚いて言葉を発することさえ忘れてしまったみなもに、女はゆっくりと近づいた。
そして白くしなやかな腕を、みなものそれに絡ませる。
「――お、お姉さん!? 何を……」
慌てて抵抗しようとするみなもだが、至近距離で彼女の大きな瞳を覗きこんだ瞬間、
身体がじんわりと痺れ、硬直して、石のように動かなくなってしまう。
「若くて可愛いあなたの力を、少しだけ分けて……ね?」
ねっとりとした声だ。耳元で囁かれて、みなもはびくりと肩を震わせた。
「お、お姉さん、だめです……あたし」
「お願いよ。……ねぇ。少しだけ、じっとしていて」
すぐにでも逃げ出したいと思うのに、身体は言うことを聞いてくれない。
じわりじわりと迫りくる未知の感覚に、みなもは堪らず悲鳴をあげた。
「や……っ! だめっ!」
「可愛いわね……。男の子に、触られたことも無いのかしら?」
くすくすと艶やかな笑い声をあげて、魔性の女がみなもの身体を弄ぶ。
腰や首筋をねっとりと撫でられて、みなもは涙目になりながら、懇願した。
「お願い……は、離して、くださいっ……」
そこでようやく満足したように、女はみなもを解放した。
ぐったりと座り込んでしまったみなもの隣で、恍惚とした表情のまま、女はうっとりと呟く。
「ご馳走様。すごく美味しかったわ……あなたの、力」
「――おねえ、さん」
「また食べさせてね。約束よ……?」
女はそう言うと、みなもの顎につう、と人差し指を滑らせる。
少女がもう一度びくりと肩を震わせるのを、満足げに見守って、女はすうっと姿を消したのだった。

「……な、なんだったの、一体」
目覚めると、いつもの自分のベッドの上だった。
身体がだるく、いつもより少し重たい感じがする。
みなもは軋む体をぐっと捩って、ゆっくりと上体を起こした。
……と、そのとき。
ちりん、と小さな音がする。はっとして開いた掌の上には、あの透明なお守りが残されていた。
だが、一つだけ、眠りにつく前と違っている部分がある。
「このお守り……こんな色だったっけ……」
蓮の店で手に取った時は、確かに無色透明だったはずのお守り。
それが今はなぜか――淡い水色に染まっていた。

――ナザール・ボンジュ。
中近東に広く存在する目玉の形をしたお守りで、それは『メデューサの眼』を意味すると言われている。

蓮があのお守りの『曰く』についてどこまで理解していたか――真実をみなもが知るのは、もうしばらく先の話だ。