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<東京怪談ノベル(シングル)>


ナザール・ボンジュの口づけ

不思議な夢を見たあの日、淡い水色に染まったガラス玉――ナザール・ボンジュ。
あんなことがあった後も、みなもは、不思議とそれを捨てられずにいた。
それどころか大切に持ち歩かなければならないような気さえして、丁寧にハンカチに包み、制服のポケットへ入れている。
これを持ち歩いていれば、もう一度『彼女』に会えるような気がするから。
動揺していたせいか、心にもないことを口走ってしまった。
もし再び顔を合わせることができるとしたら――そのときは、『彼女』に謝ろう。
そんな淡い懺悔にも似た後悔が、みなもの胸に渦巻いている。
その意志がみなもの本質に由来するものなのか、それとも人ではない何かに『呼ばれ』たゆえのことなのかは、分からない。
けれど、『彼女』の存在自体にも不思議な魔力が存在するのは確かだった。

意味深な発言をしていた蓮は、はたして『彼女』のことをどこまで知っているのだろう……。
彼女ならば、もう一度『彼女』の世界へ行く方法を知っているかもしれない。
そう考えたみなもは、アンティークショップ・レンへ再び足を運んだ。

ショップの入口をくぐるとすぐに、店主である碧摩・蓮が姿を現した。
「その様子だと、あれが現れたんだね?」
彼女はにやにやと意味深な笑みを浮かべながら、みなもの傍へ寄ってくる。
みなもは静かに頷き、蓮に問いかけた。
「あのひとは、誰なんですか?」
「……あたしも、はっきりは分からない。知っているのは、他の生物の精気を吸って生きる魔物ってことだけさ」
「精気を吸う……」
なるほど、それで目が覚めた後に倦怠感があったのだろう。
みなもが納得したように頷くと、蓮は苦笑いを浮かべて逸話を語りはじめた。
「意思の弱い人間は、奴に囚われて『帰ってこれなく』なるんだとさ」
「……でも、そんな悪いことをする方には思えませんでした」
みなもは眉を寄せ、苦しげに呟いた。
「あたしは傷つけるようなことを言ったのに……、とても、優しかったんです」
確かに身体の自由を奪われはしたけれど――、とても、優しいひとだったと思う。
咄嗟の言葉とはいえ、外見のことを悪く言ってしまったあたしにも、分け隔てなく。
だから――きっと、『帰ってこれなく』なった人は、彼女に囚われたわけじゃない。
みずから彼女の傍にいることを望んだ人がいたのだ。そう、思いたかった。
あからさまに渋い顔をするみなもに、蓮は驚いたように目を見開いた。
手にしていた煙管を什器の上にすっと置くと、今度はぐっと目を細め、静かな声でみなもに告げる。
「一応聞くけど、それを手放す気はないんだね?」
「はい、あのひとに謝らなくちゃ、気が済みませんから」
みなもは強い意志を孕んだ声色で、きっぱりと告げる。
すると蓮は苦笑いを浮かべ、溜息まじりに言った。
「硝子玉の色が透明に戻ったら、もう一度『呼ばれ』るはずだよ」
その言葉にみなもはたちまち笑顔になり、大きな声で返事をすると、足早に店を飛び出していく。
彼女の後姿を見送りながら、蓮はもう一度、小さな溜息をついた。
「……一般人に渡らないようにって配慮は、正解のようだな」

自分の部屋に戻ったみなもは、ハンカチに包んだ『ナザール・ボンジュ』を取り出して、しげしげと見つめていた。
必要を感じなかったから蓮には告げなかったが――あの日、水色に染まった球体は、再びその淡い輝きを失いかけている。
いま、自分の目の前にあるのは蓮の店で導かれるように手に取ったあの瞬間と、同じ色をした小さな硝子玉。
冷静になってみれば、そもそも一般的な日本のお守りとはかなり違う形をしているのに、手に取った瞬間それが『お守り』だと理解できた時点で、何かがおかしかった。
(蓮さん。やっぱり――あたしは、彼女に『呼ばれた』んだと思うんです)
ベッドに仰向けに倒れ込んで、みなもは静かに目を閉じる。
蓮の話が本当なら、彼女の誘いは今夜にも訪れるだろう。
一分一秒でも早く彼女に謝りたい。
その一心を胸に抱いて、みなもは透明に輝く石に、触れるような口づけを落とした。

「――みなもさん?」
名前を呼ばれて、ゆっくりと瞼をあげる。
何度か瞬きをしてから辺りを見回すと、先日と同じ森の中に立っていた。
みなもは迷わず、その柔らかな声に返事をする。
「はい、あたしです」
すると一陣の風とともに、『彼女』が姿を現した。
まるで前回の再現のようにも思えたが、彼女の緑色の髪だけは、普通の女性のそれを模した形をしたままだった。
それを見つけると、みなもは悲しげな顔をして、眼前の女性に深々と頭を下げた。
「お姉さん、この間はごめんなさい」
「あら、どうして謝るの?」
覚えがないといった様子で首を傾げる女に、みなもは切々と告げる。
「だって……あたし、好きじゃないなんて言ってしまって」
「いいのよ。嫌いって言われた訳じゃないもの、かまわないわ」
「……でも、伝えたかったんです。あたしは、お姉さんの本当の姿もちゃんと受け入れます、って」
みなもが心の内を包み隠さず告げると、『彼女』は優しく笑う。
「それじゃあ、お詫び代わりにもう一度貴女の力をちょうだい? それで無かったことにしましょ」
その言葉を聞いて、みなもは静かにはにかんだ。

「みなもさん、わたしに会いたいと思ってくれたの?」
みなもが真剣な顔をして頷くと、『彼女』はくすくすと笑い声をもらした。
「わたし、正直な子は好きよ」
蛇の姿をした彼女の長い髪の先端が、意思を持ってみなもの肌をするりと撫でる。
同時に、人間と同じ手のひらが、みなもの両頬をやんわりと包んだ。
あたたかな温度に思わず目を細めると、彼女は再び笑い声をこぼす。
「さっき、わたしにキスしてくれたわよね」
「……え? あ、……は、はい」
首を傾げそうになるみなもだったが、すぐに彼女の言葉の意味に気付いて顔を赤らめた。
彼女はおそらく、『あちら』でみなもが硝子玉に口づけたことを言っている。
「……つ、伝わっちゃうんですか?」
恐る恐る訊ねるみなもに、艶やかな笑みを浮かべた女が答える。
「伝わるわよ。ずっと、わたしと一緒にいてくれたわよね。ありがとう」
「いえ、そんな……お礼を言われるようなことじゃないです」
はにかむみなもに対して、彼女は首を横に振った。
「嬉しかったのよ。だからお返し――ね?」
そう言った彼女の唇が、ぐっと近付いてくる。
心臓が飛び出しそうになるのを必死でこらえて、みなもはただ、彼女の心を受け入れることに徹した。
再び彼女を拒絶するようなことはしたくない。
たとえ彼女がそれを嫌がらないとしたって、自分の信念に反することをするのは、いやだから。
「ん――」
全身を、熱が這いまわるような感覚に包まれて、みなもは微かに声をもらした。
不思議な感覚に身をよじるが、抗おうとすればするほど、熱は執拗にみなもの精神を責め立てる。
淡く浮かんだ熱を吐き出すように、息を吐く。
女の髪から長く伸びた蛇が、みなもの頬に頭を寄せ、愛おしげにすり寄ってきた。
まるでペットが懐いたかのようだった。
警戒心のかけらも見せない彼らの頭に、みなもは導かれるように、触れるだけのキスを落とした。

夜はまだ浅い。
じっくり、たっぷり、彼女たちと言葉を交わすこともできるはず。
だからきっと今夜は、前よりも素敵な夢が見られる。

みなもは期待に胸を躍らせて、『彼女』のすべてを受け入れるべく、もう一度静かに瞼を下ろしたのだった。