コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


ナザール・ボンジュの微笑み

海原・みなもは、手中の硝子玉を時折ちらりと見つめながら、迷いない足取りで路地を進みゆく。
先日、二回目の不思議な夢のあと、初めてのときと同じように淡く色づいた手の中の球体。
それは今、三たび色を失い、透明な姿へと戻っていた。

『彼女』に囚われて『帰ってこれなく』なった人がいたらしい。
アンティークショップ・レンの店主である碧摩・蓮は、確かにそう言っていた。
詳しいことは知らないと彼女は言っていたけれど……もう一度だけ、聞いてみよう。

蓮の話、そして『彼女』の示した事象をあわせて読み解けば、
これはおそらく、あの神秘的で美しい存在が内に秘める『力』を可視化した物体なのだろう。
けれど……、そんなものを作ってまで、あの存在を管理する理由はどこにある? どんなものだ?
そしてそもそも、――あの存在はどうして、あの場所にいるのだろう。

浮かんでくるさまざまな疑問。
再び『呼ばれる』前に、ひとつでも知っておくことができれば、
ほんの少しでも『彼女』のやさしさに応えることができるのではないか。
そんな淡い期待を胸に抱いて、みなもは三たび、アンティークショップ・レンの門をくぐった。



みなもが扉を開くやいなや、店主の蓮が棚の影からぬっと顔を出した。
「周期的に、そろそろ来ると思ってたよ」
突然あらわれた彼女の姿に驚き、思わず半歩、後ずさるみなも。
しかし一方の蓮はと言えば、そんな客の動揺など気にも留めない様子で、
そのまま踵を返すと、つかつかと店の奥へ歩いていく。
そして背の低い什器の空いたスペースに、軽く腰掛けるようにして煙管をふかす。
「今日あたり、またあれに『呼ばれ』そうなんだろ?」
全てお見通しと言わんばかりに余裕の笑みを見せる蓮。
みなもはただ、静かに頷くしかなかった。
「……は、はい。また色が……薄くなってきたんです」
「だろうな。そいつは一定の周期で『力』を吸わなければ存在を維持できないらしい」
前回みなもが訪れた後、なんとなく気になってしまい、その『存在』について詳しく調べたのだと、蓮は笑った。
「……でも、それじゃあたしが手に取る前は、誰の『力』があのひとを生かしていたんでしょう」
ふと浮かんだ疑問だった。みなもはほとんど無意識に近い状態のまま小さな声でつぶやいた。
蓮は少し考える素振りを見せ、軽く腕組みをしたまま、漫然と言う。
「さあねぇ。……ただ」
「ただ?」
「奴にとって『十分』なエネルギーが、100だとする」
「……はい」
「前の人間からは100のエネルギーを得られたから100日間生きながらえた。だが――あんたから100のエネルギーが得られないなら?」
蓮の言葉に、みなもは少し考えて、はっと顔をあげた。
「だから、今は1週間もしないうちに現れてる……?」
「確実ではないが、大方そういうことだろうよ」
自分の力が足りないから、間接的に『彼女』に迷惑をかけてしまっているのでは。
そんな想いがみなもの胸を支配する。
……今夜、もし彼女に『呼ばれ』たならば……。
その時はことの真偽を問うてみようと、みなもは心に決めたのだった。



「――みなもさん」
優しい声が聞こえる。
みなもが静かに目を開くと、そこには既に、あの森が広がっていた。
そして自分のすぐそばに、蛇の髪を持つ、今はもうよく知る女の姿がある。
「お姉さん……、あたしの力じゃ、お姉さんを生かすことはできないんですか?」
焦燥にかられて、出会い頭にそんな問いを投げかける。
けれど余裕のないみなもと対峙する『彼女』には、やはりヒトではない何か――永い時を生きる者が持つ、特有の落ち着きがあった。
「大丈夫よ、みなもさん。私が呼べば、あなたが来てくれる……。そうしている限り、私は消えたりしないわ」
「でも……もっと強い力を、あたしがあげられれば、いちいちこんな面倒なこと、しなくて済むんじゃ」
けれど不安げに問うみなもを、『彼女』は優しく制する。
「あなたはそんなこと、考えなくていいの」
「……お姉さん」
「私がお腹いっぱいになるためにはね、もっと大人のひとじゃないと難しいのよ」
くすくすと笑い声をこぼして、『彼女』は艶やかに笑う。
彼女の意図するところを掴めないまま、みなもが首を傾げると、女は少女の耳元に唇を寄せて、
「もう少し先……みなもさんが男のひとに可愛がってもらえるようになったら――そのときは、今よりもずっとずっと甘い蜜、ちょうだいね?」
と、囁くようにかすかな声で、告げた。
しかし、
「それって、もう少し大人っぽい身体つきになったら、ってことですか……?」
同年代のうちでは比較的色恋沙汰に疎いみなもに、彼女の言葉が示す意味が通じる訳などない。
合点のいかないみなもは、困ったような表情を浮かべて相手に問いを投げようと、口を開く。
「……違、いますか? それなら、一体どういう――」
けれどその言葉は、あえなく遮られた。
まるで答えをはぐらかすかのように、無数の蛇をあやつる女は、みなもの身体の自由を奪い去る。
そして、みなもの言葉をもろとも飲み込むように、少女の穢れない柔らかな唇を、己のそれで塞いだ。
みなもの言葉を封じ込めたまま、『彼女』の唇が僅かに開かれ、隙間から細く長い舌がちろりと顔を出す。
しかしその舌の妖艶なる赤を、みなもの目が映し出すことはなかった。
伸べられた先端は外気に触れることなく、少女の唇を割り、歯列をなぞりあげて、小さな口腔の隅までも蹂躙し尽くしたのだから。

(――ああ、朝ごはんの用意をしなきゃいけないから、早起きしないとって、伝えないと)
ぼんやりとした頭の隅で、そんなことを考える。
けれど全身を襲う不思議な浮遊感に酔いしれるうち、そんな懸念も、いつしかどこかへ忘れてきてしまったように。
気だるさと快感の真ん中で、みなもは静かに瞼を下ろし、『彼女』に身を委ねたのだった。