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<東京怪談ノベル(シングル)>


年増女のギックリ腰坂便り

湿った空気が充満する空間を蝙蝠が音もなく旋回する。
仄暗い石窟の岩肌には、まるで意思を持つかのように蔦が不気味に蠢いていた。
「うわっ、このヒル、でかっ!」
先を行く茂枝・萌が悲鳴をあげ、狭い通路に彼女の声がこだました。
不穏な言葉を耳が拾ってしまい、いやな汗が藤田・あやこの背筋を伝う。
この洞窟に生息する吸血生物たちは、血ではなくヒトの経験を糧とする特殊な生態を持っている。
ゆえに若返りを期待して、わざわざ「吸われに」来る人間が後を絶たないらしい。
しかし放っておいていいものではない。――この現状を、どうにかできないものか。
IO2に届けられた奇怪なタレコミ情報は、しかしてどうやら本当らしかった。
あやこの足下では今まさに、「吸われ」すぎたと思しき女がほふく前進――もとい、ハイハイで外部への脱出を試みていた。
「……生後半年ってとこ?」
呟きを拾い上げる者はいない。ため息を一つ落として、あやこは先を行く萌を追った。
一時見失いかけた萌の背中を見つけて、声をかける。
「ねえ、赤ちゃんが……」
あやこの声に反応し振り向いた萌。
しかし彼女はその瞬間、目を見開いて、あやこの背後を指差した。
「あやこさん、う、う、後ろッ!」
萌の悲鳴が石の狭間で反響する。
嫌な予感を振り切るように、あやこはゆっくりと振り向いた……

「というわけで、今日からお世話になります。藤田あやこです」
紺色のブレザーを身にまとい、教壇の上であやこは深々と礼をした。
クラス中の視線が一所に向けられる。
彼女が女学生らしからぬ豊満なボディをしているから――ではない。
そう。
あの後、吸血鬼に諸々奪われたあやこは16歳の乙女に逆戻りしていた。
成熟した果実の色香こそ無いが、みずみずしさにあふれたゆるやかな曲線を描く肢体は、それでも変わりなく美しい。
自己紹介を受けたクラスの面々は、思わぬ時期にあらわれた美少女転入生に興味津津なのだ。
しかし。
「藤田さん! 職員室の場所、教えてあげようか」
「知ってる」
「藤田さん! 化学準備室の」
「それも知ってる」
「藤田さん! ギックリ腰坂学園校歌h」
「3番まで歌える」
休み時間、色めき立つ級友たちを前にしようと、あやこに隙はない。
なぜなら――ここは、あやこの母校だったのだから。

「萌ちゃんのオススメっていうからどんな面白い学園かと思ったら、まさかの母校なんだもん。驚きだわぁ」
からからと豪気に笑うあやこに、萌は相変わらずの無表情で言葉を返す。
「私もびっくり。あやこさんがOGだったなんて……」
「驚いてるように見えないけど」
あやこが訝しんで問うと、萌は静かに首を振った。
「いえ、驚いてます。まさかたった数日で学園を支配するとは」
「支配ってなに!? 人聞きの悪い! 裏番長とかならともかく、ただの生徒会長よ!」
転入から数日足らずで学園内のトイレの数まで把握した(正確には、かつて通っていたから知っていた)あやこは、長らく人員不足に喘いでいた生徒会に担ぎあげられた。
加えて、受験を控え引退を考えていた前会長が、これはチャンスとばかりにさらりと退陣したため、トントン拍子で会長にまで上り詰めてしまった訳なのだ。
「ところで……次の制服って、どうなったんですか?」
萌が思い出したように呟く。……そう、この学園の生徒会に活気が無かった理由は、これだ。
数年前から新しい制服の問題が浮上していた学園では、古式ゆかしいセーラー服派と、気鋭のデザイナーによるファンタスティックな制服派と、生徒が2派閥に分裂していた。
生徒会役員は決定権を教師から委ねられたが、あまりに熾烈な論争が繰り広げられていたため、裁決を渋る会長が後を絶たなかった。
故に、新会長・あやこの登場は、他の役員にしてみれば渡りに船だったわけだが……
「ああ。あの面倒くさい制服の件ね……」
言いながらあやこは意地悪げに微笑んだ。
嫌な予感に一歩後ずさる萌だったが、時すでに遅し。それはあやこに面倒を押しつけようという、彼女の打算が招いた悲劇だった。
「昔に戻そうかなって!」
満面の笑みを浮かべるあやこ。萌は愕然と膝を折る。
なぜならあやこの言う『昔』の制服――それは、学園最大の黒歴史なのだ。

「昔は更衣室なんて無いからね。スパッツやハーパンも無い!」
今はしっかり設置されている更衣室の存在など見て見ぬふり。
体育倉庫の裏で、あやこは笑顔のまま、萌にじりじりと詰め寄っていた。
荷物を小脇に抱えたまま、器用に涙目の萌から迷彩服を引っぺがすと、
あやこは目にもとまらぬ速さで彼女のやわ肌にマニアックな衣類を重ねていく。
「ビキニ! スク水! レオタード! ブルマ!」
……それはさながら、何かの呪詛のようだった。
次々に飛び出すアレな単語にあわせるように、アレな衣服が宙を舞う。
なんとも形容しがたい不可思議な光景だが――何を隠そう、あやこの在籍した『昔』は、これが正式な制服だったのだ。言い換えれば伝統なのである。
乱れ飛ぶ衣類のお祭り騒ぎが終了したところで、いつの間にか出来上がった自身のセーラー服姿に慌てふためく萌を尻目に、あやこは額ににじむ汗をぬぐう。
「我ながらいい仕事っ」
爽やかに笑みを浮かべたあやこ。しかし――そこへ、彼女のささやかな達成感を邪魔する者が現れた。
「藤田ー! 金環食の約束を果たしにきたぞー!」
あやこは眼を見開く。彼女の前にひらりと舞い降りたるは、よく見知った男だった。
「あやこさん、その人は……」
不安げに問う萌。あやこはぎり、と唇をかんだ。
「元カレ。……もとい、ストーカー?」

――斜陽に照らされているのは、二人の年若い男女だ。
セーラー服を身にまとった女学生と、学生帽を目深にかぶった実直そうな男。
「俺……、受験戦争が終わったら、結婚したいんだ……」
青年は明日に瞳を輝かせて、夢を語るように、女に告げる。それが死亡フラグだということにも気付かないまま。
女はそれが自分に向けられた台詞だと気付いて――けれど、静かに首を振った。
「今はまだ、考える時じゃないわ。……2012年の金環食を、婚約指輪にするのはどう?」
それは遠回しな拒絶の言葉。
しかし男は――
「分かった。その時まで変わらず二人でいよう!」
ありえない、夢物語のような話だろう。
それでも、それが男の傷心の寄る辺になるなら――。
そう思った女は、ただ、静かに頷いた……。

「変わらずに生き続ける方法。その答えがこれだ」
吸血鬼の王はひとり、昔を懐かしむように瞳を閉じた。
「吸血鬼になってまで、と君は呆れるだろうが……、2012年はもはや目前! さあ結婚しよう藤田!」
しかし、勝手に盛り上がる男を尻目に、あやこはため息をつき頭を抱えた。
「……男は18歳にならないと結婚できないはずよ、永遠の16歳」
彼女の放った言葉に、男が凍りつく。
「もしかして……気づいてなかった?」
とどめの一撃。
やがて男はわなわなと握り拳を震わせて、二人の少女に襲いかかる。
「ひ、ひとの純情を弄びやがってうわあああああ」
しかしそこは、IO2エージェントを侮るなかれ。
二人のどうしようもないやりとりによって苛立ちが最高潮までせり上がっていた萌の強烈な回し蹴りが、男の顎を直撃した。
情けない声をあげて男が怯んだ所へ、あやこはトドメとばかりに、股間へ容赦ない一撃を叩き込んだ。

……かくして、吸血鬼討伐の任およびギックリ腰坂学園の新制服問題は決着を見たのであった。