|
ナザール・ボンジュの言い訳
「そこまでだ!」
すでに日常と化した風景に、前触れなく異端の者が踏み入れた。
いつものように『彼女』との語らいを楽しんでいた海原みなもが、驚いて振り向くと、そこには怪しげな仮面を被った正体不明の男が佇んでいた。
「うら若き乙女を手篭めにする非道な悪魔よ、今すぐ立ち去るがいい」
まるで詩の一節を読みあげるかのように、朗々と男は告げる。
彼の指先は、明らかにみなもの横をすり抜けて、『彼女』を差している。
「お姉さんの知り合い、ですか?」
問うように視線を向けるみなもだったが、彼女は困ったような顔をして、首を横に振るばかりだ。
しかしこちらの状況など気にも留めない様子で、男は己の演説に酔いしれていた。
「お嬢さん、ご安心ください。私は神と人の王との間に生を受けた、聖なる者」
「はぁ」
「しいて言うなら――、英雄『ペルセウス』とでも呼んでほしい」
薄く開いた唇の隙間から、きらりと光る白い歯が見える。
白々しいまでに台詞めいた言葉を聞きながら、みなもはぼんやりと考えた。
(もしかして……、この人いわゆる『空気読めない』人なんでしょうか?)
だとしたら、どう転んだってこちらの話など聞いてくれはしないだろう。
ペルセウス。それはかの神話において、メデューサを倒したとされる男の名前である。
数多の蛇を従え、相手を硬直させる術を心得る『彼女』をメデューサと称すのならば、いかな自身を正義の使者と名乗ったところで、みなもにしてみれば、この男は彼女を排斥しようとする悪者に他ならない。
みなも自身は、彼女に手篭めにされた覚えなどない。自分の意志でここにいる。
それなのに――、まるで彼女が疑う余地のない『悪』であるような言い方をされて、なんだか気分が悪かった。
ゆえに抗議するように、男に反旗をひるがえす。
「あたしは、お姉さんが悪い人だとは思いません」
だが、反論したみなもを制するように、男は優しい声色で告げた。
「お嬢さん、いけない。君はその魔物に魅了されて正常な判断ができなくなっているんだ!」
「そんな、魅了なんて――」
ありえない。そんな馬鹿なこと、あるはずない。
けれど切り捨てようとしたみなもの傍らで、彼女が悲しげに笑った。
「いいのよ、みなもさん。いずれはこういう日が来ると、私も覚悟していたの」
「お姉さん……っ! 違う、お姉さんは悪くないでしょう。あたしにいつも、優しくしてくれたもの」
みなもは偽りのない気持ちを告げた。けれど彼女は、あくまでかたくなに、みなもの言葉を否定する。
「人間を魅了して、この地に縛り付け、元の世界へ帰らないようにしたのは確かに私よ」
「罪の意識はあるようだな」
「ええ……もとの世界を案じる人に、帰らないでと願ったのも私。相応の報いは受けましょう」
きっぱりと告げる彼女に、みなもは突き放されたような寂しさを覚え、胸をきゅっと抑えた。
だが、そんな少女の切なささえ、永劫の時を生きた女にはお見通しだったらしい。
彼女は微かに、けれど確かに、笑いながらみなもに告げた。
「みなもさん、ただ、これだけは信じて……。私は、誓ってあなたに魅了の力を使っていないわ」
語りかける彼女の表情は真摯なものだった。
信用に値する。みなもは確信し、彼女の言葉に頷いた。
「苦しんでいた私の叫びに……気づいてくれて、手を貸してくれて、ありがとう」
満面の笑みで告げる彼女に、少女はただ、頷きだけを返した。
「さて、別れの言葉はそろそろ良いかな。それでは魔物討伐といかせてもらおう」
別れを惜しみつつ身体を離した二人の前で、仮面の男が高らかに告げる。
向き直る『彼女』と対峙した彼は、おもむろに自らが被っていた仮面を引っぺがした。
そして鏡のように磨き抜かれたその仮面の裏側を、彼女へ向け――ようとした、……が。
「あら?」
仮面を外した男の素顔を『彼女』はまじまじと見つめると、やがて大声で叫んだ。
「やだ、あなた――すごく私のタイプだわ……!!」
「……え?」
瞬く間に一変した場の空気、眼前で繰り広げられる謎の展開。呆気にとられ、茫然と彼らのやりとりを見つめるみなもの前で、恐るべきやりとりが交わされていく。
「ねえ、年はいくつ? デミゴッドって本当? 多少のことじゃ死なないわよね?」
真顔で詰問する彼女に、男はたじろぎながらも首を縦に振っている。
「多少じゃ死なないってことは……吸い放題ってことよね」
「え、あ、まあ、そうかもしれないですね」
「じゃあ、何も私が死ななくたって、あなたが一緒にいてくれればいいんじゃない!」
どういう理論だ、と思わないでもないが、彼女は自分の出した回答にいたく満足している様子で、にこやかにほほ笑みながら彼の腕にがっちりと抱きついている。
「みなもさん、ありがとう! 私、幸せになるわっ」
「……は、はい、良かったです。でも彼の気持ちは……、」
「私ガ犠牲ニナッテ済ムノナラ、ソレモマタ一ツノ真理デショウ、ハハハ」
(……もしかして『ペルセウス』さん、魅了されてません……?)
みなもの心にぽつりと浮かんだ疑問。
その答えが見つかることなく――時間切れ。朝が、やってきたのだった。
*
「……ということがあって、あのお守りはどこかに消えてしまったんです」
はあっと長いため息を吐き出して、みなもはアンティークショップ・レンの店主、碧摩・蓮に事の顛末を報告した。
みなもの長話にたっぷり付き合い、時に茶々を入れつつも基本的には静かに耳を傾けていた蓮は、紫煙をくゆらせながら苦笑いを零した。
「まあ、想像していた結末とは少し違うけど、英雄の自己犠牲で物語が終わるというのなら、それもいいだろうよ……」
「あのひとが傷つかなくて良かったけど、なんか……少し、モヤっとしてるんですよね」
「おや? もしかして、英雄の代わりに、ずっと『奴』と一緒にいたかったのかい」
「……そう、なんでしょうか? あたしには、よく分かりません」
そう返事はしてみたものの、――もしかしたら、蓮の言う通りなのかもしれないと、みなもは思う。
きっと自分の『精気』なんて彼女の腹を満たすようなものじゃなくて、
彼女から与えられるばかりの関係だったのだろう。薄々だけれど、気づいている。
それでも彼女はみなもを呼び続けたのは……きっと、ただ純粋に、みなもに会いたかったんだと思う。
向けられる好意を好ましく思う自分がいることに、みなもは気づいていた。
それが人々が言う『恋』と、同じなのか違うものなのかは、まだ分からない。
けれど、それでも。
(あたしは……あのひとに教えてもらったことを、きっと忘れない)
なぜだか分からないけれど――そう、確信していた。
|
|
|