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<東京怪談ノベル(シングル)>


片翅の蝶


 愛した夫達との死別を迎えてから、幾年が過ぎたのだろう。時間の感覚など、とうの昔に薄れている。永遠の時を生きる女、藤田あやこにとって、人との離別など日常茶飯事であると言えた。……そこに感情と、引き裂かれるような痛みさえ伴わなければ。
 今のあやこに想い人はない。彼女の情愛の全ては夫達へと捧げられ、そして、彼らと共に死んだのだ。
 これ以上の伴侶はいらない。あやこはそう固く信じて、疑いもしなかった。

「――あやこ」
 ニューヨークの街、喧騒の中。聞き覚えのない声に呼び止められ、あやこは足を止めた。肩越しに振り返ると、身奇麗な若い女が立っている。鼻筋の通った美しい女だ。これだけ整った外見ならば、過去に出会ったことが一度でもあったなら、必ず記憶に残っているはずだ。しかし、心当たりは浮かんでこない。
 小首を傾げながら、訝しげに尋ねてみる。
「あなた、何故私の名前を」
「僕だよ、あやこ」
 声色は慈愛に満ちている。彼女の独特の言い回しに、あやこはハッと息を呑んだ。
 声に違いはあれど、前の夫が自分を呼ぶ調子に酷く似通っている。
「まさか、あなた……」
 おそるおそる、あやこは亡き夫の名を口にした。目の前のうら若き令嬢ははにかんで、小さく頷いた。

 令嬢の話を聞くにつれ、驚くべき事実が明らかになっていった。
 彼女は亡き夫の角膜移植者であり、その為か、彼の記憶を受け継いでいるという。
 それは悠久の時を生きるあやこを愛するため、夫自らが掴み取った唯一の道だったのかもしれない。幾度転生を重ねようとも、必ず妻を見つけ出し、愛し抜こうという意思。彼のその意思こそが、二人を再び結びつけたのだ。
「あやこ。僕は君を愛している。今までも、これからもだ。何度生まれ変わろうと、たとえ僕の死が二人を分かつとも……僕の愛は君だけのものだ」
 妙齢の女性はあやこの目の前で、切々と想いを語っている。語調は間違いなく夫のものだったが、あやこは戸惑っていた。
「あやこ。どうか、僕ともう一度結婚して欲しい」
「結婚? ……あなたと?」
「このニューヨークでは、既に同性婚が合法化されているはずだ。問題はないだろう?」
 確かに問題はない。法的な問題は、何も。
 夫との再会は彼女にとって、願ってもない話だった。彼女もまた同じように夫を愛していたからだ。しかし、まさか夫の記憶が見知らぬ女に継承されるなど、誰が予測できたことだろう? 面識のない女の顔をして、夫は愛を囁く。しかし、囁いている唇は紛れもなく女のものだ。聞けば目の前の彼女は、記憶の継承はあれど、育ちは純粋な良家の子女だという。外見も、状況も、あやこの期待していたものとは全てが違ってしまっている。それでもあやこは、未だに彼を愛し続けている……。
 考えれば考えるほど、頭がどうにかなってしまいそうだった。
 あやこはオッドアイから放つ視線を、うら若き女――この場合は、夫と呼ぶべきか――に対して巡らせた。欺瞞の匂いは感じられない。それどころか熱っぽい眼差しを返されて、彼女は再び頭を抱えた。

 振る舞いも、会話の端々に潜む記憶も、何もかもが前夫そのものだ。けれど、どれだけ共に過ごしてみても、彼女が「女性」であることもまた事実だった。
 何かが違う。薄いヴェールが掛かったように、あやこの心はいつまでも晴れずにいた。
 ある日、令嬢は整った顔に微笑みを湛えながら、何度目かの申し出を口にした。
「あやこ。役所へ行こう」
「役所へ……」
「ああ。そして婚姻届を出すんだ。これで僕達はまた夫婦になれる」
 あまりに夫が嬉しそうに言うものだから、あやこは煮え切らない気持ちを奥歯で噛み潰すしかなかった。

 ニューヨークの役所は、婚姻届を提出しに来たカップルで賑わっていた。
 女性職員は慣れた手つきで、次々と出されるそれらに目を通している。現在受理されているのは、どうやら若い女性二人組のものであるらしかった。
 後ろには黒髪長髪の日本人が緊張の面持ちで佇んでおり、その隣を目が座った生粋のNY娘が陣取っている。更にその後ろからは、順番を待ちくたびれたゲイカップルが野次を飛ばしていた。
「おい、早くしてくれよ!」
 令嬢はあやこの手を引く。
「さあ、僕達も行こう」
「私は――」
 言葉に詰まる。
 私は、……私は一体、どうしたいのだろう。彼を愛しているけれど、この胸は今も戸惑いと不安に満ち溢れている。こんな気持ちを抱えたまま、この人と結婚してしまっていいの? それで本当に……後悔しないの?
 あやこは自問自答を繰り返した。彼女の聡明な頭が、何度も大きく揺さぶられる。
 その末に、ようやくあやこは、繋いでいた手を振りほどいた。
「あやこ?」
「ごめんなさい。少し……考えさせて欲しいの。場所を変えましょう」
 令嬢は酷く傷ついた顔をした。痛む心を鬼にして、あやこは先に踵を返した。

「私は、あなたを愛せるか分からない」
 あやこの言葉に、彼女は絶望を帯びた表情を向けた。二人のいる瀟洒なレストランには到底似つかわしくない光景だ。あやこは口を閉ざし、ワインを傾ける。赤いグラスに映り込むハドソン川。
「何故?」
「あなたが、私の夫の記憶を継承していることは分かったわ。でも、ごめんなさい。私にはあなたが、どうしても女性にしか見えないの」
「あやこ……」
 あやこは俯いたままでいた。求婚を断った負い目があったのだ。
「――それでも、僕は諦めないよ」
 強い信念に満ちた言葉を投げ掛けられ、彼女は思わず顔を上げる。
 令嬢は真っ直ぐな光を宿した瞳で、じっとあやこを見据えていた。
「僕は君を愛してる。君を再びこの腕に抱くまで、いや、抱いた後も……僕はあやこを想い続ける。君の生に終わりがないように、僕らの愛にも終わりがないはずだ。そうだろう?」
 それはあまりにも強引で、直向きな言葉。
 あやこの心に掛かっていたヴェールがようやく払われたようだった。
「やっぱり、貴男なのね」
 彼女は細身の身体をテーブルに乗り出し、潤んだ瞳で目の前の令嬢を見つめた。
「そりゃ、違うところもあるけど……そんなもの、永遠の愛の前には些細な事よね!」
「なら、君は」
「さ、二度目の結婚と洒落込もうじゃないの!」

 ショーウィンドウに飾られた花嫁衣裳を覗き込み、二人の女性は口論を繰り返している。
「やっぱり私は和服がいいと思うのよ」
「昔も和服だったじゃないか。今度こそ、ウェディングドレスにしてくれよ」
「何言ってるの。前が和服だったからこそ、じゃない」
 微笑ましい諍いに、ショッピングモールの誰もが目を細めた。
 結局、今回ばかりはあやこが折れるしかなかった。何せ夫、もとい相方は仮にもニューヨークの令嬢なのだ。
 だが、いざウェディングドレスと決まった途端、二人は額を付き合わせて笑い合った。愛し合う二人の仲直りもまた、微笑ましいものだった。

「汝はその命ある限り、この者とあることを誓いますか?」
「誓います」
 光の降り注ぐ教会で、夫は躊躇いなく返事をした。その後、彼――いや、彼女は穏やかな目であやこを見る。
「……たとえ、この命がなくなろうとも」
 あやこはウェディングベール越しに微笑みを返した。
 挙式を終え、チャペルを出る。ウェディングドレスを纏った二人に、一部の親族は唖然とした表情を向けている。だが、集まった同僚や友人達は皆彼女達を囲み、二人の新たな門出を口々に祝ったのだった。