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<東京怪談ノベル(シングル)>


概念黒犬
 都内の町並みを眺めつつトコトコと少女は歩いていた。
 青の長い髪を揺らし、セーラー服が風に揺れる。まだまだ暑さの厳しい中、彼女1人だけがやけに涼しげだ。
 ……しかし、彼女の表情は厳しい。
 海原・みなもはここの所ずっと悩んでいた。先日彼女が遭遇した怪異「ブラックドッグ」についてだ。
 事件は一応の解決をみた……という事になっている。
 だが、それでも彼女個人としては納得できない部分も多い。故に、次にブラックドッグと遭遇する事があるのなら、少しでも新たな情報を手にしておきたい。納得出来る解決を手にする為にも。
 しかしながら問題はその「情報」だ。
 既に彼女は図書館の本も大凡の所は読み切ってしまった。もはや新たな情報を得るのは難しいかのように思われる。それがみなもの頭を悩ます原因となっていたのだ。
 もはやこれ以上は手のうちようが無い……そんな思いの中、彼女は今日も都内をふらりと散歩中。気分転換が目的だった。
 次第に人気の少ない方へと向かってしまったのはやはり少しでも涼しい所を求めてだろうか。古びたビルが林立する路地をみなもは行く。
 日光にじりじりと焼かれつつも、ふと彼女は脚を止めた。見上げた先は古びたビル。その1階部分が大きく開け古書店となっていたのだ。看板は古木を利用したものらしく、断面に「古書肆淡雪」という文字が刻まれている。
「こんな場所もあるんですね……」
 都内のイメージの中では古くさい雰囲気を持つその場所にみなもの口から言葉が零れる。
 同時に彼女の中で過ぎるモノがあった。
(「古書店という事は、もしかしたら」)
 その思いを確かめるべく彼女は人気の無い書店の中へと入り込む――。

 書店内は意外なほどにひんやりとしていた。周囲の壁を隙間無く本が埋め、それがビルの上方どこまでも続く――。
 ビルの外見から思わぬほどの蔵書量にみなもは僅かにたじろいだ。何せ、本のあまりの量に日中でも薄暗い程だ。
「ブラックドッグの本、ですか」
 男性の声にみなもは再び気を取り直す。
 少々おっとりとした印象のその人物は、この古書店の店主で仁科雪久というらしい。
 彼女の前には冷たい緑茶が置かれており、のんびりとした世間話に巻き込まれ……ようやく本題である捜し物の事を話題に出せたのだが、如何せんこの様子では期待できないだろうか。
 数種類例を挙げられたものの、どれもみなもが過去に目を通した本ばかり。いくら何でも期待をしすぎたかと思った所で、雪久が小さく首を傾げた。
「……ちょっと待っててくれるかな」
 そう言い残すと雪久は書店の奥へとばたばたと駆け込んでいく。
 1人残されたみなもは所在なげにぽつんと佇み、置かれた緑茶に手を伸ばす。冷たい緑茶が喉を潤す感覚を楽しみつつ、ぼんやりと周囲に目を向けてみた。
(「それにしても、凄い量……」)
 あののほほんとした仁科にこれだけの本が集められるものなのだろうかと思う程の、圧倒される量。
 暫しして。
「やあ、お待たせしましたね」
 雪久が持ってきたのはあからさまに怪しい本だった。
 まず見た目から胡散臭い。厳重に鎖が巻き付けられ、鍵のかかった本なのだ。箔押し部分は剥げかけ、表紙も見るからに古びている。
「少々書庫から取り出すのに難儀してしまってね。私が叔父から譲り受けたモノなんだけれど……」
「…………」
 ついみなもが黙り込んでしまう程に、その本は何か「奇妙な感じ」がする。
 黙り込んだ彼女の様子に雪久は少し慌てたようにつけくわえる。
「……ええと、他のモノが良い……かな? とりあえずこれ以外にはブラックドッグと言われて思いつく本が無かったのだけれど……」
 雪久の言葉にみなもはハッとする。
 あれだけ大量のブラックドッグに関する本を見てきたにも関わらず、これははじめてみる本だった。
「いえ、これでお願いします」
「じゃあ、鍵を探してくるよ。叔父が言うには少々胡散臭いモノらしく、危険だからと鍵をかけているのだけれど……」
 雪久の言葉は本を読むという行為とはかけ離れたものだった。
「危険、ですか?」
 意味を捉えかねみなもが問いかける。危険な本というと、精々危険物取り扱い関係……といったあたりが常識的な考えではある。しかし雪久の言葉はその予想の上を行った。
「ああ、読んだ人物に何かが起るという噂だけれど……大丈夫。私が以前読んだ限りでは何も起らなかったよ」
 それでも鍵をかけているのはそれも含めて装丁という意味合いもあるんです、と雪久は語りつつ、ポケットを探る。
「また待たせてしまうけれど、今度はなるべく早く戻ってくるから」
 みなもをその場に残し、雪久は再び書庫へと戻っていく。
 おずおずとみなもは指先で書の表面へと触れてみる。
 直後、かちゃり、と小さな音がした。
 みなもが目を凝らすと先ほどまでがっちりとかかっていた鍵が外れていた。
「……これって……?」
 じゃらり、と更に音がし、巻き付けられていた鎖が滑り落ちる。
 古びた本はその場に黙し佇んでいる。まるでみなもが読むことを待ち望んでいるかのように。
 思わずみなもの白い手が重々しい表紙を開く。むわりと古い本の匂いが鼻を突き、黄ばんだ紙がはらりとめくれる。
 そのままみなもは頁を捲る。何かに取り憑かれたかのように。
 そこに書かれていたものは、とあるブラックドッグの物語。
 棲んでいた森を追われ、空腹の中、ブラックドッグがうなぞこを目指す物語。
 物語の中、ブラックドッグは海原へと邂逅を果たす。
 更に頁を捲ろうとし、みなもは異変に気づく。何故か頁をめくれないのだ。
 どうしたものかと己の手元を見やり、彼女は小さく悲鳴を上げた。
「な……っ!?」
 みなもが動揺するのも仕方が無いというものだ。
 彼女の白い手はいまやその姿を止めていなかった。そこにあったのは――黒い毛に覆われた前脚。
 左手は未だ人の手のままだったが、右手は黒犬のものへと移り変わっている。
 まさかと慌てて彼女は自分の荷物の中からコンパクトミラーを取り出す。利き手が使えないもどかしさを堪えつつ。
 そこにうつった自分の顔は、半ば黒い毛皮で出来た仮面を被ったかのようだった。
 右目は炎のような紅に代わり、周囲の黒い毛皮も次第に多う範囲を広めている。
(「どうしたら……どうしよう……!?」)
 パニックになりつつも叫ぶ事だけはなく、みなもは事態をどう収束したものかと思考を巡らす。
 だが「どうしよう」から先は出てこない。思考はループし更なるパニックを呼び起こす。
 左腕も気づけば黒の毛に覆われ、確かめてはいないがセーラー服の下の己の身体もそうなっているであろうという事は既に予想できる。
 爪は鋭く伸び始め、そして口内に生えた歯は牙へとかわる。
 せめて助けを求めようと声を出そうとするも、それすら犬の吼える声となっていた。
 彼女の青の髪がごそりと落ちる。それは彼女の混乱を致命的なものにするには十分過ぎる事だった。
 慌てて飛び退こうとした所で、コンパクトミラーが床に落下し、カン高い音と共に割れる。
 破片にうつった己の姿は既に黒い犬のものとなっていた。
 みなもであった存在の目から、一筋の涙がこぼれる。
 ――それが、みなもの限界であった。

 暫しして、彼女は恐ろしい程の空腹感――飢餓感に気づく。
 今すぐにでも何かを喰らわなければという衝動。それは、彼女が先ほどまで読んでいた本に描かれていたブラックドッグの空腹感と類似したものに他ならないのだが、みなも本人はその事実には気づかない。いや、気づく事すら出来ない。
「みなもさん……?」
 そこに現れたのは小さな金属の欠片を握った人間の男だった。
 細身の男という事であまり美味くはなさそうだったが――それでも空腹の足しにはなるだろう。肉を引き裂き、温かな血で満たされた内腑を喰らえば多少はこの飢餓感も和らぐであろう。
 彼女は唸り、牙を剥く。苦しまぬようせめて一瞬で命を奪おうとばかりに男の喉笛めがけて。
 身体をバネにし勢いをつけてその人間へと襲いかかる。だがソイツは避けようとした。
 彼女の牙こそ避けたものの、体当たり自体は避けられない。
「か……っはっ……!」
 バランスを崩し書棚へとぶつかり、更に彼女の体当たりに肺から空気が無理矢理押し出されたのだろう。男が苦痛にあえぐ。かけていた眼鏡がどこかに飛ばされ、倒れ込み露わになった白い喉元へと、ブラックドッグが牙を剥く。
 肉を噛みちぎる感触とともに、温かな血が口腔に溢れ、彼女は歓喜に震えた。
 ……しかし。
「……みなも……さん」
 そんな彼女を男がきつく抱きしめる。腕の邪魔くささに彼女は不機嫌そうに唸るも、それでも男は気にした様子は無い。
 胸元を血に染めながら、男は恐ろしく真剣な表情で叫ぶ。
「みなもさん! 海原みなもさん!! しっかりしなさい!」
 ブラックドッグと化した彼女でさえ、その気圧されそうな程の声。
 幾度も誰かの名を呼ぶ人間に、ブラックドッグ――みなもはびくりと震えた。
「……あ……」
 小さく、少女の声が漏れた。
 ぼやけた視界の先には、先ほど知り合ったばかりの古書店店主、雪久がいる。
「……大丈夫ですね? みなもさん」
 少し落ち着いたトーンのその声に、ブラックドッグと化していた彼女は、みなもへと引き戻される。
 元の、海原みなもの姿へと。
「……はい」
 小さく答えた所で、みなもは疲労に負けたように目を閉じた。

 再びみなもが目を醒ましたのは古書店の隅であったらしい。
 らしい、というのはとにかく本がみっしりある事からそう判断しただけで、もしかしたら雪久の自室であったのかもしれない。
 ベッドに寝かされ、丁寧にタオルケットまでかけられていた。
「ここ、は……?」
 みなもは身を起こしつつかすれる声で呟く。今いる自分の存在を確かめるかのように。
 僅かにかすれてはいるものの、それは聞き慣れたみなも自身の声に他ならなかった。
「大丈夫かな?」
 にこにこと笑顔で冷茶を持ってきたのは雪久だった。
 先ほどとは着衣が違う事に気づき、みなもは思い出す。そういえば、彼の喉元を食いちぎったのだった、と。
「あ、あの、仁科さん……」
「気分は悪くないかな? 脱水症状になるといけない。よかったらどうぞ」
 ばつの悪そうな様子でみなもはお茶を受け取り飲み干す。口内に僅かに血の臭いが残っていたような気もしたが、それが事実か今ひとつ判別し難い。
 雪久は何事も無かったかのように佇んでいる。寧ろ、先ほどの事を問うて良いものか――。
 悩みはしたが、みなもは心を決めた。
「あの、仁科さん、あたしさっき、ブラックドッグになって、仁科さんの事を……」
 頑張って声をあげてはみたものの、語尾はどうしてもすぼんでしまう。無理もない。間違い無く致命傷になりかねない攻撃だったはずなのだから。
 だが声をかけられた雪久はといえば、困ったように腕を組み何かを悩むような姿勢を見せる。
「……やっぱり覚えてる?」
 彼の問いかけにみなもはこくりと頷く。
「あの本は……どうやら君を捜していたみたいだ」
「あたしを……ですか?」
 雪久が語る所によれば、あの本の内容はみなもとの邂逅を意図して書かれた本だったのだという。
 もっとも、それに気づいたのは今さっきの現象の遭遇してからだったのだが――。
「それも、君の意識の深層を目指していたみたいだ。以前棲んでいた誰かの意識から追われ、新たな宿主として」
 そこまで語り雪久は小さく首を振る。
「いや、もしかしたら誰かが概念としてのブラックドッグを大量に作り出し、意図的にこの本に住まわせたのかも知れない。よりしろとなる人間を捜す為に」
「……もしかして森という表現は、元々作り出されたブラックドッグ達が居た場所……?」
 みなもも本の内容を思いだす。そして、本の存在を。
「そういえば、あの本は?」
「それが……」
 みなもの問いかけに雪久は気まずそうに頭をかいた。
 彼の告げるところによれば、あの本は何時の間にか消えて仕舞ったらしい。
「私としてもアレを書いたのが誰なのかは抑えておきたい所だったけれど……」
 苦々しい表情をみるに、どうやらみなもを迂闊に危険に合わせたことを悔いているらしい。
「……そういえば、仁科さんの傷は……」
「大丈夫。これでも丈夫な方だからね」
 にこりと微笑むばかりで彼は傷の話には触れようとしない。
 様々な話題でのんびりと語った末、気づけば日は傾きつつある。
 雪久が店を閉めるという為、みなもは席を立った。
「もし宜しければ、また立ち寄ってくださいね」
 雪久に見送られ、みなもは暮れゆく東京の空の下へと戻る。
 果たしてあの概念の犬たちは、この空の下、どれだけいるのだろう?
 もしかしたら、他の概念の黒犬たちとどこかで邂逅する事もあるかもしれない。
 そんな予感を覚えつつ、彼女は帰路へとつくのであった。