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<東京怪談ノベル(シングル)>


ドラッグ・ドランカー 第二章


 自室での着替えを終えた水嶋・琴美(みずしま・ことみ)。
 さあ、今から任務は大詰めだ。
 琴美は背筋をぴんと伸ばし、今一度鏡の中の自分に妖艶に微笑みかけてから、名残もなさそうにくるりときびすを返すと、カツカツとブーツの音も高らかに部屋を辞した。
 水嶋琴美、出撃である。

 カチ…カチャ…。
 琴美はわざと食器を微かに鳴らしてその長い廊下を歩いていた。手にしたトレイには一般の人なら見たこともないような贅沢な食事が乗せられている。琴美は小さく鼻を鳴らした。
 チャンスはあっけないほどすぐにやってきた。仕事に就いた琴美に例の使用人頭が、一人で社長に食事を運ぶように言いつけてきたのだ。
 一人で、と言うところに琴美は社長の好色な意図を感じる。だが、何にせよ、この好機を逃す手はなかった。
 迷路のような屋敷内を暫く歩いて辿り着いた先は、二人の屈強な警備の黒服が行く手を塞ぐように立った扉の前。だが琴美は少しも物怖じすることなく、扉の前の二人に足を軽く折って敬意を示すと、トレイを少し掲げる。
「社長にお食事をお持ちしました」
 黒服たちは顔を見合わせ頷き合ってから、琴美に中に入るように促した。
 黒服が開けた扉から中に一歩入った琴美は、軽い目眩を覚えた。あからさまな成金趣味の部屋に、だ。しかもセンスもなく、荒唐無稽なまでに値の張る品物が置かれているだけなのだ。
 そのただ中に、その男は、居た。
 待ちかまえるように、にやにやと嫌らしい笑みを顔に張り付けた中年の男。髪をオールバックになでつけ、格闘技をやっているのか体は幾分筋肉質だが、顔はお世辞にもいいとは言えない。
 彼が「社長」なのだろう。琴美は人知れず奥歯をぎりと噛み締める。
「お食事をお持ちしました」
 琴美はその場でまた軽く膝を折ると、近くのテーブルにトレイを運ぼうとした。だが、その前に近寄ってきた社長の手が琴美の肩に掛かる。
「お前が新しく入ったメイドか。確かに、いい女だな」
 ぞわり、と嫌悪感が琴美の体の芯を走り抜けた。だが、ここで嫌悪感を露わにしてしまうのは二流のすること。琴美はその嫌悪感に毛羽立つ感覚をゆっくりと治め、テーブルにトレイを置いてから社長を振り返る。
「…社長にそう仰って頂けるなんて、光栄ですわ」
 そう言って艶やかに微笑んだ琴美に「脈」を感じたのだろうか。社長はだらしなく鼻の下を伸ばして、強引に腕を琴美の肩に回そうとする。だが。
 パシッ!
 その腕はあっけなく琴美に払い落とされた。
 一瞬、何が起こったのか解らないという顔をした社長だが、すぐにかーっと頭に血を上らせる。何でも力と金にあかせて思い通りにしてきただろう男に、琴美の拒絶は激昂するに値した。
「お前たち!この女を取り押さえろ!」
 社長が黒服の男たちに甲高く命令を飛ばす。だが、その命令の後も琴美は悠々とその場に立っていた。いつもならすぐに命令を全うする黒服たちが、何の反応も示さない。
「おい!どうした!早くこの女を…!」
 そう言って黒服を振り返って、社長は顔を青くした。黒服たちは、すでに地に伏せっていたのだ。社長はよろりとしてから、見開いた目で琴美を振り返った。琴美はその社長ににこりと微笑み返す。
「『社長』、貴方には『死んで』頂きますわ。罪状は…ふふ、ご自分のしたことくらいお解りですわよね?」
「くっ…来るな!」
 半歩、近づきかけた琴美に、社長はそう言って腕を上げ身構える。なにがしかの格闘技の構えなのだろう。
「やはり、格闘技を修得されているのですね」
「は…はは…、護身術程度だと思うんじゃないぞ」
 確かに、琴美が見るに社長はそれなりの段持ち程度の実力がありそうだ。裏の世界では段など役に立たないどころか邪魔にすらなるので、取ってはいないのだろうが。
 ダンッと地面を蹴って社長が琴美に切迫した。だが、琴美は慌てた様子もなく、最小限の動きでその突撃を避ける。
「くそっ!このっ!」
 それは出来の悪いダンスのようだった。社長は幾度も琴美に肉迫するが、それでも琴美はすっと優雅な足取りで避けてしまう。一度も当てられない。
 社長は業を煮やして速度を上げるが、それでも琴美はその優雅な足取りを乱さない。
 そのうち、社長は息を上げ始める。体力の使い方が違うのだ。全力の攻撃を仕掛ける社長に比べて、琴美は無駄な動き一つしていない。
 ついに、琴美に指一本すら触れられないまま、社長はよろよろとした足取りで後ろへ下がると、調度の一つにダンと背中から倒れ込んだ。
 だが、次の瞬間、琴美は悪寒を感じてひらりとその場から飛びずさる。
「!!」
 パパパパパパパ!
 腹の底に響く破裂音と共に、今まで琴美の胴があった場所を何かが横薙ぎに薙いでいった。壁に穴があき、高そうな壺や置物がいくつも割れる。
 マシンガンが調度の裏に隠してあったのだ。
「はは…ははははははは!」
 マシンガンを構えた社長の高笑いが部屋に響いた。だが。
 キンッ!
 澄んだ金属音が社長の耳に届いた瞬間、社長の手の中にあったはずのマシンガンは弧を描いて彼の手の届かぬ遠くへと飛んでいってしまった。
 咄嗟にテーブル側まで退避をした琴美が、そのテーブルに乗っていた琴美が運び入れた社長の食事に添えてあった銀のナイフをクナイ代わりに投げつけ、マシンガンをはじき飛ばしたのだ。
「なっ!?」
 自分の手の内と遠くのマシンガンを見比べる社長。だが、今からマシンガンを取りに行くことは出来なかった。そんな態度と隙を見せれば、琴美に容赦なく首を掻き斬られることは目に見えていたからだ。
 体力も、銃も失った社長に、もう、出来ることはなかった。
 それを悟ったのか、社長は一気に10も老け込んだような容貌になって脱力した。
 琴美はその社長の側にカツカツとブーツの音を響かせてゆっくりと近づいていく。
「ひいっ!」
 社長は恐怖の表情を顔に張り付かせたまま、床をゴキブリのように這いずって琴美から逃げようとする。だが、琴美は素早くその社長の肩をガツッとブーツを履いた足で強く押さえつけた。
「これで、チェック・メイトですわね」
 琴美は社長を見下しながら、きゅと唇の端を上げ艶やかにそう呟いた。

<了>