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<東京怪談ノベル(シングル)>


     Read The Devices, Call The Shots

 「海原(うなばら)みなも」と呼ばれている自分の肉体が何やらひどく懐かしく、遠い存在であるかのように彼女――みなもには思えた。それは何も人格をデータ化し、携帯電話にインストールして体から機械、電脳世界へと意識を移す、という文字通りの離れ業をしていることだけが原因ではない。みなもは今、三百六十度の視界を隙なくぐるりと取り囲むバーチャルの牢獄に囚われているからである。ウイルスの隔離室と呼ばれる領域だ。
 そこで電脳世界での体とも言える仮想イメージの膝を抱えているみなもの姿は、元々彼女自身が持つ容姿とそっくりに描かれていたはずが、今やずいぶんとかけ離れた形に変わってしまっている。そのこともウイルス隔離室にいることもすべて、人格データをインストールすることで携帯電話に憑(つ)き、彼女自身の意識でもって機械がこなす情報処理を代行するという、これまた人間離れした練習の最中にコンピュータウイルスに感染したのが要因である。
 厳密に言えばそのウイルスは、携帯電話に搭載された通信関係のプログラムとオペレーティングシステムにあったセキュリティホールをついて入り込んだワームなのだと、みなもの中にいる「もう一人のみなも」は言った。
 元は携帯電話に憑いていた付喪神(つくもがみ)であるその”みなも”は、奇妙な縁で今は人間であり人魚の末裔であるみなもの意識の中に溶け込んでいるが、その状態でなお携帯電話の付喪神としての能力や知識を持ったままでいる。そんな”みなも”がワームの侵入に気付き、それと知らずにワームに接触してしまったためにデータの一部を書き換えられ増殖プログラムを埋め込まれたみなもを、ウイルス隔離室に放り込んだのだ。
 みなも自身のその時の記憶は曖昧である。記憶というデータの一部が無意味なデータによる上書きで破壊されたためだ。その断絶された意識をのぞき見ることは底のない深く暗く寒々しい海をどこまでも潜っていくような、あるいは果てのない宇宙の中を一人で流れ落ちていくような不安感と不気味さがあった。
 それに加えて、未だにみなもの仮想の体は破壊プログラムと増殖プログラムを内包するウイルスへの変化がゆるやかに続いている。
 『アクセスしたら蜂の巣をつついたみたいに手当たり次第に周囲のファイルに感染してデータを破壊し、増殖プログラムを埋め込んで勢力を広げ、侵入したコンピュータを食いつぶす仕掛けみたい。きわめて悪質なプログラムよ。後始末が大変だわ。』
 そう言ってため息をついていた”みなも”は現在、ウイルスの駆除やセキュリティホールの改修などの対応に追われている。もっともデリケートなデータであるみなもの意識の修復は最後にするつもりらしい。バックアップデータを完全に上書きするという「初期化」を行えばすぐにでも修復は可能なのだが、それではバックアップのあとに得た情報――つまり記憶が消えてしまうため、書き換えられた部分だけを調べてデータの巻き戻しを最小限におさえようというのが”みなも”の対応策である。
 そんなわけで”彼女”の手があくまで、みなもは一人、電子の牢獄でウイルスの浸食による恐怖に耐えなければならない状況に立たされたのだった。
 電脳世界での何よりの欠点は肉体がないために五感が存在しないことで、たとえ目をかたく閉じて耳をふさいでいても、自分の姿が変わっていく様が意識一つに集約されて直接伝わってくる。
 目が一つになり、三つに増え、十個になり百になり、それらが眺める指先はどこまでも根を張る海の樹木のようになって髪と混ざり合い、寄せては返す波にも似た動きで好き勝手に動き回る毛先は感染できるファイルはないかと隔離室の中を這い回っていた。
 意識自体もバラバラにされたルービックキューブのように次々と色を変え、場所を変え、記憶が入り乱れてつぎはぎにされていく。それをかろうじて一つにまとめ支えているのが他ならぬ恐怖というのが皮肉めいているが、そう感じる余裕すらみなも本人にはなかった。
 ただ逃れたいという思いだけが恐れる心と電子の格子の陰から顔をのぞかせている。
 「あたしにウイルス化を止めることはできないけれど……それならいっそ、同化できないかしら。」
 秋の空以上に移り気で、万華鏡が見せる無限の景色よりはゆるやかに変換されていく意識と姿を意識(こころ)の内側からじっと見守りながら、「ウイルス」がどういうものか、この機会に知っておこうかと半ば開き直り気味にみなもは考えた。
 どんな他愛ないものでも正体が判らないうちは恐ろしいものである。
 しかし、いざその正体が知れるとそれに対する恐怖心は拍子抜けするほど容易に溶けて消えてしまうものだ。
 人間の、周囲の環境への順応力は高い。みなも自身は特に変化をそのまま受け入れる大らかさと柔軟さを持っていたし、人魚の末裔という血筋のためか人間よりもずっと生命力が高く、可変性もある。それは彼女の血のなせるところなのか、それとも持って生まれた性質なのか、あるいはその両方なのか――答えを知るものは今のところ誰もいないが、少なくともみなも自身はじわじわと浸食してくるウイルスを自ら取り込むことは不可能ではないと感じたのだった。
 ただ受け身になってウイルスのするに任せるのではなく、情報処理の練習の成果である「プログラムの意図を読んで」同調する。そして意識でもってプログラムに介入し主導権を得て、逆にウイルスを自身の中に「能動的に」取り込むのだ。
 「かたくなに拒んで不愉快な気持ちでいるよりはいいわ。」
 そう呟いてみなもはそろそろと、自分の「中」を這い回っているプログラムに意識を近づけた。

 コンピュータウイルスというのは、単に人間から見て不都合な動作をするというだけで、悪意どころかそもそも自意識すら持たないプログラムである。あらかじめ指示された通りに黙々と破壊作業と自分のコピーの作成を続けるウイルスは物言わぬ亡霊のようにみなもには見えた。そして、その善悪を持たない亡霊を生んだのが他でもない人間の意思であることが彼女の気持ちを沈ませる。
 それに呼応するようにみなもの姿は急速に明度を落とし、彩度を失って闇に近い黒に染まっていった。その中で白く透き通った細い骨のような管が目まぐるしく組み変わり、魚のひれと人の骨格を混ぜたような異形の芸術を作り上げていく。もしもそれが海原みなもという少女の本質なら、彼女は人間と魚の間でバランスを取りながら時間と環境とその他もろもろの混沌の海の上を漂う穏やかで美しい小舟のようであると言えた。その船にすくい上げられたものは決して少なくない。
 『ちょっと、これどうなってるの!』
 みなもの変貌に気付いてそう叫んだもう一人の”みなも”も船に乗り込んだものの一つである。
 「あら、修復はもう終わったんですか?」
 すっかり姿が変わったものの案外としっかりした声音で答えたみなもに、作業を中断して声をかけてきた”みなも”は、隔離室の壁越しにしばし絶句の沈黙を投げた。
 「あの、大丈夫ですか? あたしはウイルスと同調できたみたいで、怖くはなくなったからもうしばらくこのままでも平気……。」
 『冗談じゃないわよ!』
 みなもの言葉をさえぎって”みなも”が叫んだ。
 『完全に姿が変わってるじゃない。意識の方はやけに余裕がありそうだけど、もう、このまま放っておいたらどうなるか判らないから、今すぐあなたの修復作業も始めるわ。』
 「今すぐ? 大丈夫なんですか?」
 『それは失敗しないか、という意味? あたしには人間の真似をするより簡単よ。ただやることが多すぎて全体の処理が遅くなるのと、それと……。』
 「それと?」
 『すごく疲れるし、すごく大変だっていうだけよ。』
 機械から生まれたにしては実に人間味あふれる苦々しい口調で”みなも”はそう答えた。

 かくして、”みなも”の頑張りのおかげでみなもは無事データを修復され、無機質な牢獄から解放された。電脳世界での練習中に得た一部の経験や記憶は失われてしまったが、さほど深刻な欠落ではない。それよりも”みなも”が心配したのは、みなもが自らウイルスを取り込んだことでバグができてやしないかということだったが、それについてもみなも自身は軽やかにこう受け流しただけである。
 「心が転んですり傷を作ったようなものですよ。誰だって時々つまづいたり転んだりしますけど、それくらいなら人間は平気なんです。プログラムだと小さなバグでも動けなくなってしまうんでしょうけど。」
 これに”みなも”は不満げにこう反論した。
 『人間でも動けなくなるくらいの怪我だったらどうするの。』
 「一人では動けない時は誰かが助けてくれますよ。あたしに”あたし”がいるみたいに。そしてあなたである”あたし”にこのあたしがいるみたいに。」
 そう言って笑う少女の船(うつわ)は思った以上に大きいのかもしれないと、最近は電脳世界と怪奇現象の関係に関心を寄せている自称探偵の雨達(うだつ)は、二人のやり取りを見守りながらそう心の中で呟いた。



     了