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ヲパンツト∞ノ証明
藤田・あやこの今は亡き夫は、『ポアンカレ予想』という命題に生涯を捧げた数学馬鹿だった。西暦2000年、証明した者に懸賞金を与えるとされたミレニアム懸賞問題の一つである。
まるで何かにとり憑かれたかのように、その命題と向き合った男。彼のその姿勢をあやこは愛し、しかし同時に寂しさをも覚えていた。
女として愛される喜び。彼の生前にさえ本当の意味では満たされなかったその欲求が、男の死した今になって、再び彼女を苦しめていた。
せめて――彼と同じ世界を、見ることができたなら、この寂しさも紛れるだろうか。
そんな悲痛な想いを胸に、あやこは一縷の望みをかけて、ある数学者を訪ねたのだった。
『この無限の虚空で――君を、君だけを待っているよ。あやこ』
夫の声が聞こえた気がして、あやこは振り向く。微かに愛しい人の気配を感じ――しかし気のせいと頭を振った。
超常現象には慣れているだが、かといってあの人が再び自分の前に姿を現すなどありえないだろう。そう、ありえない。だからこそ望むのだ。せめて――
「せめて、彼と同じ世界が見たいのよ……」
昂ぶる感情を抑えきれず、あやこは低くうめいた。
「あの問題を解けばさ……彼と同じ景色が、見られるんだから」
だが、彼女の心の悲痛な叫びを、きっぱり切り捨てる人間がいた。
「そうは言いますけど、これは百年の問題なんですよ?」
それは紛れもなく、あやこによって呼び寄せられた数学者だった。
学園の片隅で密談を交わす2人。けれど彼女らによる言葉の応酬は、次第に激化していく。
「――だから! あたしはポアンカレ予想を証明したいの!」
「ですから、それは」
「あぁ違う! もう、違うってば!」
「問題を論ずるにはまず、リッチフローに拠って多様体を……」
「あれはね、夫が生涯を捧げた問題なの。彼の生涯そのものなのっ」
しかし熱弁するあやこに反して、数学者は悲観的な答えしか導かない。まるであやこの望みを否定するかのように、ある種ひどく学者らしい理論を以て、彼女をねじ伏せようとする。
「悪いけど言わせてもらうと、アンタ、自分の世界しか見えてないね! 数学者なんて全員、結局死ぬまで数の化物達にとりつかれているんだ」
紙の上にペンを走らせながら嘲りにも似た表情を浮かべ、学者は告げる。それでもあやこは、退くことをしなかった。
「本気だよ、あたし。マジで切実に」
「……だが、もしヤツが実は結論に辿り着いてなかったら? アンタが望む『同じ世界』を、そいつが見ていなかったとしたら」
鋭い指摘を受けて、あやこは戦慄した。――言われてみれば、確かにそうだ。夫が数字の『向こう側』に辿りついていた確証はない。だが、
「そんな……そしたら、あたしもう、何もないじゃん……!」
ここまで来て引き下がるわけにはいかない。認めてしまえば、夫との間に存在したはずのすべてが失われてしまうような気さえした。
「考えてみなよ。旦那の眼に生身のアンタが映っていた事なんて……」
「うるさいわね、あたしは暇潰しで頼んでるわけじゃないのよ! 分かってる!?」
苛立ちをぶつけるあやこに、しかし数学者は鼻白んだ。
そんな相手の表情に、あやこの怒りは頂点に達する。表情をぐっと険しくし、相手の瞳を見つめ、吐き捨てるように言った。
「こちとら必死で解いてんのよッ! 茶化すんじゃないバカ!」
場に緊張が走る。あふれる殺意を向けられた数学者は、しかし無言のまま目を眇めた。
無音の室内。遠くに、課外活動にいそしむ学生の声だけが聞こえる。
「……この場で、ぶっ殺す……!」
あやこが低い声で呟く。
――その刹那、向き合う二人の間に白い閃光が走った。
そうかと思えば、彼らの存在を中心として、みるみるうちに怪しげな霧が校舎を包んでいく。薄靄の中に取り残された人々は次々に驚愕の声をあげ逃げ惑い、校舎内はまさに地獄絵図と呼ぶに相応しい有様と相成った。
あやこは周囲を見回して目を瞠る。まるで一瞬のうちに、学園ごと天国へ運ばれてきたかのような状況だが――ここはまさか、本当に天国か?
なんとあやこの目の前には、亡き夫が姿を現していたのだ。
「ちょっとぉぉ、どうなってんのコレ!?」
思わず悲鳴をあげるあやこに、主人は苦笑して教えを説いた。
『どうやら君は、いろいろ越えられないはずのものを越えてしまったみたいだな!』
あやこは頭を抱えた。だが彼女以上に状況が理解できていない者が、彼女の周りには大勢たむろしていた。運悪く巻き込まれた数学者と、校舎に残っていた学生たちである。己の置かれた状況を理解できない彼らは口々に戸惑いの声をあげていた。
「こんなの絶対おかしいよ」
「わけがわからないよ」
そんな彼らに冷徹に諦めろお前は死んだ、などと告げられるはずがなかった。あやこはため息を零しながら、夫の亡霊に問う。
「あたしたちはともかく、あの子たちに罪は無い。現世に戻してあげないと……」
『そうだな』
夫は顎に指をかけて、ふむ、と俯き考え――やがてぱっと閃いた。
『ポアンカレ予想が解けなくてこうなったなら、証明すればいいんじゃないか?』
傍から聞けば間違いなくトンデモ理論でしかないが、そもそもこんな状況を引き起こした原因自体がトンデモなのだ。あやこは頷き、高らかに宣言した。
「つまり鍵となるのは八種類の要素の定義」
『あぁ、万物は最大八種類の断片から成る。それはすなわち――』
口を開いた夫の言葉を遮るように、あやこは真顔で呟いた。
「……スク水、ブルマ、制服」
『は?』
ぽかんと口を開いた夫を軽やかに無視して、あやこはぶつぶつと独り言を続ける。
「テニスウェア、レオタード……ねえ、あと何かない?」
『どうしてそうなった』
夫はため息交じりにあやこを制止するのだが、しかしその程度で火のついた彼女を止められる訳などない。どこからか持ち出してきた怪しげな衣服を次々と身につけながら、あやこはぐるぐると近辺を走りまわっている。
『今お前はスカートじゃなくて棺桶に片足突っ込んでるわけで……ん? 俺何言ってんだ? えっと、……個人的にはチアリーダー希望』
唯一残った良心と思われた夫まで、彼女の毒に感化されていた。
『あと陸上用のウェアとビーチバレー用の水着、これで勝利!』
ばばーん、と、どこからか謎の効果音すら聞こえる。もはや暴走する彼らを止めるものは何もなかった。
「全部着るとさすがにキツイわね」
言いながら笑うあやこに、夫は真顔で問う。
『あやこ、お前ボンデージ趣味なのか』
「ち、違わい!」
ツッコミ不在とは、まさにこのことである。
昼下がりの職員室。あやこは学園の教師たちの前に立ち、高らかに宣言した。
「本校の制服を本日付で、今あたしが着ているコレに変更します」
当然ながら教師たちは愕然とした。本日のあやこの衣装はといえば、三途の川(と思しき場所)で夫と試した八つのコスチューム合わせ技だったからである。
そう、あやこはあの後、巻き込んだ生徒と数学者にも自分と同じ格好をさせることで、現世へと戻ってくることができたのである。何がどうなってこうなったのかは分からないが、とにかく戻ってきた。つまり、彼女の推論――八つの定義は正しかったのだ!(と彼女の脳内では定義されてしまった。)
「そう、ポアンカレ予想はここに証明されたのよっ!」
高らかに叫ぶあやこ。彼女を止められる者は、やはりこの学園――いやこの世界のどこにも、いないように思えた。
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