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<東京怪談ノベル(シングル)>


身に纏うは闇の色


 彼女の意識は水中を泳いでいた。眠りの中で、水嶋琴美は自由だった。現実でも重力に縛られない彼女だったが、夢の中ではさらに軽く、優雅に、その豊満な肉体をしならせた。
 水底で何かがきらきら輝いている。なんだろうと思って、琴美は両腕を伸ばして、さらに深くへと潜り進んでいった。が、宝物には辿り着くことができなかった。耳障りなアラームが鳴って、彼女は不快な覚醒を余儀なくされた。
 もう朝か。いや。外はまだ暗い。任務だ……司令からの呼び出し。
 しかしすぐには起き上がろうとせず、ベッドの中でまず両手足を伸ばす。しばしの間目を閉じて、完全に脳が覚醒するのを待ってから、身体に纏わりついたシーツを払い除けた。
 これからは任務の時間。束の間遊ばせていた肉体をスーツに押し込む。豊満な肉体にスーツとタイトスカートはやや窮屈だったが、琴美は彼女の仕事着が嫌いではなかった。これは魂を流し込む鋳型だ。スーツに腕を通した瞬間、彼女は暗殺者となる。


「任務だ、水嶋君」
 司令の台詞はいつも通り。一切無駄の省かれたブリーフィングは、琴美が所属する特務統合機動課の司令室にて行われる。司令はマホガニーのデスクに着いて、琴美を見上げていた。
「はい」琴美はスカートからすらりと伸びた足をきちっと揃えた。
「カナリス。この名詞を耳にしたことは?」
「ええ、世界規模の傭兵組織ですね。この組織の透明性に何か問題が?」
「金さえ与えれば何でもやる連中だ。例の振興軍事企業については聞き及んでいるだろうが……」
「あの企業に雇われていると?」一瞬、琴美の瞳に義憤の炎が宿った。
 近年のし上がってきた軍事企業だ。悪辣な手段でここまで成長したと言われている。
「そうだ。現在カナリスの部隊は、社長の護衛に当たっている。あの企業には敵対勢力が多い――その牽制だろう。そこで」司令は心持ちデスクに身を乗り出した。「君にはこの傭兵部隊のリーダー暗殺任務に就いてもらいたい」
 琴美は自信に満ちた微笑を浮かべた。「了解しました」

   *

 その年頃の日本人としてはやや豊満すぎる感はあるにせよ、琴美の若さと瑞々しい容貌は、あらゆる任務で絶大な効果を発揮した。例えば今回。敵を撃破するもっとも確実な方法は、敵の懐に深く忍び込むこと。あかたも罪のない、無垢な小娘のような顔をして、まんまと敵の屋敷に侵入する。ここで彼女が演ずる役割は、住み込みで働く屋敷のメイドであった。
 琴美は屋敷の中に自室を与えられた。小ぢんまりした部屋で、ベッドとドレッサーがあり、クローゼットの横には大きな姿見が置かれている。上等なベルベッド地のカーテンが引かれており、僅かな隙間から陽光が射し込んでいた。思えば、明るい時間帯に敵地へ堂々と乗り込むなんてなかなかないことだ。彼女はいつも夜の闇を味方につけていた。
 扉が施錠されていることを確かめてから、琴美はクローゼットの中から衣装を取り出した。ここで働くメイドが着るものとまったく同じ形だが、琴美のために特別にしつらえられている。特殊自衛隊が密かに搬入したもので、激しい戦闘に耐え得る特殊な素材で作られていた。
 それを鏡の前で合わせてみて、琴美は思わず静かな怒りに眉を顰めた。過度な露出は、この屋敷の主の嗜好を物語っている。女性を食い物にするようなそのデザインは、単なるメイドとして以上の奉仕を求めているように思われた。
 琴美は普段着を脱ぐと、早速着替えに取りかかった。形自体はオーソドックスなアンジェラブラックメイド服だ。黒地に白いフリルのエプロン、エンジのネクタイは可愛らしいと言えないこともないが、スカードが極端に短い。まずガーターベルトをつけると、ベッドに腰を降ろして白いニーソックスを履いた。
 次いでメイド服に腕を通す。装飾的なデザインも琴美の豊満な胸を隠すことはできない。かえって胸の大きさが目立つようだ。上向きに張り出した胸の上でエンジのリボンが揺れた。少し窮屈だが仕方ない。
 スカートは膝上のかなり短いデザインで、これには琴美も抵抗を覚えた。いつもの戦闘服はフリルスカートの下にスパッツを履いているから良いけれど……。これでは戦闘中動きづらくて仕方がない、というか、高く足を上げようものなら下着が見えてしまう。
 溜息を一つ、スカートも身につけた。立ち上がってみると、ほとんどスカートとしての機能を果たしていないというか、辛うじて腰の周りを覆っているという程度だった。太股の半分ほども隠せておらず、姿勢によってはちらりとガーターが覗いた。
 再び腰を降ろして、仕上げに編み上げのブーツを履いた。これは膝まであって、滑らかな皮でできている。丁寧に紐を通していき、上できちんと結んだ。
 これで抜かりはない。琴美は鏡の前に立ち、全身をチェックする。ミニスカートとフリルがかえって琴美の艶っぽさを際立たせている点を除けば、どこからどう見ても立派なメイドといったところか。くるりと爪先で一回転すると、黒いロングヘアーが揺れた。
 知らず鏡の中の琴美は微笑を浮かべている。優雅だが自信に満ちた笑み。完璧にこの任務をこなす自信があった。
 最後にもう一度自身の立ち姿を確認すると、琴美は自室をするりと抜け出した。