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思い出は媚薬
「なんでお前は猫みたいにこんな所で隠れてるんだ」
座敷に布団を引いて丸まっている黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)に草間武彦(くさまたけひこ)は開口一番そう言った。
「…何で武彦がここにいるの?」
冥月は熱でボーっとする頭でひたすらに考えた。
しかし、答えは出てこない。
…そういえば、自分はシャツ一枚で寝ている。
こんな情けない状況で草間が来るのは最悪だ…という考えに至った。
「…お前の考えてることくらいわかるさ…と言いたいとこだが、探偵の勘だ」
「探偵の勘…ねぇ。どこまであてに出来るのかしら」
スラムのど真ん中にひっそりとあるこのボロアパートの一室で、同じ会話をした覚えがあった。
ゴホゴホと咳き込むと武彦が優しく冥月の背中をさすった。
「…そういや、冥月と初めて会ったのはここだったな」
回想
1.
「悪いがこの中にいてもらう」
ターゲットの少女をこのボロアパートの一室に連れ込み、押入れの中に隠した。
日本にやってきて初めての大きな仕事だった。
それまではボディガードを主としてきたが、ようやく冥月の力が日本で認められたというところだろう。
詳しいことは聞かされなかったが、自分なりに調べた。
ヤクザが勢力拡大のための交渉をするのに、この少女を拉致・誘拐することを依頼してきたのだと。
あまりいい仕事とはいえなかったが、足がかりには丁度いいと思った。
少女には枷は一切しなかった。
傷つけることを好まなかったのと、冥月から逃げられるような人間がこの世界にいなかったからだ。
また、このアパートの立地も関係していた。
路地裏からさらに奥まった場所にある木造アパートの二階。
逃亡者も侵入者も完全に掌握できる…それがここだった。
「頼んだぜ。こいつは事が終わり次第、俺たちが解放する」
依頼人は胡散臭かった。
信頼関係を築ける相手ではないことを冥月は感じとっていた。
だが、それでもこの依頼を受けるほかなかった。
生きていくために…。
「邪魔するよ」
思考を突然さえぎられた。
振り向けばいつの間にか薄汚いコートを着た男が玄関に立っていた。
「こういう子を捜しているんだけど…知らないか?」
写真を見せた男は、一瞬にやりと笑って「すげぇ美人だねぇ」とほざいた。
だが、サングラスの奥の目が笑っていないことを冥月は感じた。
冥月に気付かれずどうやってここまで来れたのか…それだけでも背筋に冷たいものが走った。
写真は紛れもなく、押入れの少女の写真だった。
「どうやって…いや、それだけの能力の持ち主ということか。褒めてやる。…だが、お前の命ここまでだ」
暗い電灯の影がゆらりと揺れ、冥月は男の襟首を掴むと鋭い影で男の首を狙う。
だが、男はそれをするりと避けた。
流れるような動きは素早くはなかったが、無駄のない動きだった。
「まぁ。そう急ぐなよ。いい情報持ってるんだ。それ聞いてからでも遅くはないぜ?」
「…情報?」
冥月の反応に、男はニヤリと笑った。
「まずは自己紹介でもしようか。俺の名は草間武彦。しがない探偵だ」
2.
「…お前に興味はない。情報とやらを話せ」
「美人さんはどんな顔でも綺麗だねぇ…おっと。そう怒るなよ」
草間は玄関の壁にもたれて、煙草を取り出した。
「お前さん、殺されるぞ。そこのお嬢ちゃんもろともな」
「…な…に?」
煙草に火をつけた草間が焦らす様に、煙をゆっくりとくゆらせる。
「勢力拡大なんて威勢のいいこと言ったんだろうが、実際には半端者どもがでけぇ勢力に恩を売ろうって策だ」
草間は煙草に口をつけると再びフーッとため息のように息を吐く。
「じゃあどう恩を売るか。そこのお嬢ちゃんだ。その子はとあるヤクザの令嬢でね。そいつが誘拐されたって事になれば大騒ぎな訳だ」
筋書きが見えてきた。
つまり、令嬢殺しの罪を擦り付けられた冥月が殺されるシナリオなのだ。
「…それは確かな情報か?」
「あぁ…と言いたいとこだが、探偵の勘だ。信じろ」
それを信じるかといえば、そうそう信じることは出来ない代物だ。
だが、冥月の心は疑心暗鬼に囚われた。
兄弟子の顔が頭の中をよぎる。
それを断ち切るには自分の目で確かめるしかない。
「本当なら…奴らを殺す。嘘ならお前を…殺す」
きらりと光った冥月の目が、本気だということを物語っていた。
「待て、お前が殺す必要はない。奴らを警察に突き出せば…おい!」
草間が冥月の手を掴み制止したが、冥月はそれを振り切った。
裏切りは…許さない。
「…ち。おい、お嬢ちゃん大丈夫か?」
残された草間は押入れの中の少女を保護した。
「真意を聞きに来た」
依頼主は顔を引きつらせたが、冥月の真剣な眼差しにペッと唾を吐き出した。
「察しのいい女は嫌われるぜ!」
小さな組事務所で女1人を殺そうとする男達。
あの男の…言ったとおりだった。
細い影を操り、鞭のようにしならせて男達を昏倒させていていく。
しかし、倒れた男達は絶命していなかった。
『お前が殺す必要はない』
その言葉が、冥月の心に小さく刺さっていた。
これはただ借りを返すだけだ。
そう、私はこいつらみたいに裏切ったりしない。
現在…
「奴らを殺さずに警察に突き出したお前の心意気が気に入って、俺が誘ったんだったな」
ははっと笑う草間だったが、冥月はなにやらもごもごと布団を被ってしまった。
「…? どうした??」
そうだ。
出会ってすぐに草間は私を口説いていたんじゃないか。
私のこと美人だって…。
顔から火が出そうで、今更ながらに恥ずかしい。
「おーい。猫の次はカタツムリか?」
「うるさい!」
「熱上がるぞ? プリン買ってきたんだ。これくらいなら食えるだろ」
のそりと頭を出して「食べる」と冥月は呟いた。
喉が痛くてここのところ、ろくに食事も食べてない。
「よーしよし。あーん」
「自分で食べれるよ」
プラスチックのスプーンを草間の手から取り上げて、冥月はプリンを食べた。
喉越しのよいプリンはとても美味しかった。
「今なら簡単に押し倒せそうだな…」
「…冗談でも言うな!」
バシッと叩いたつもりが、簡単に手を掴まれてしまった。
どうやらキレのある動きが今は出来ないようだ。
思わずむくれ面になった冥月に草間は笑ったが、ふと冥月の手の熱さに気が付いた。
「おい、熱いな。熱何度あるんだ?」
「41度」
「寝てろ!」
草間がポンッと冥月の肩を押すと、くらりと冥月の体が揺れた。
「わ、危な…!?」
草間が咄嗟に受け止めようとして、バランスを崩した。
草間は冥月を押し倒すように布団の上に転がった。
「熱いぞ、お前」
「…うぅ。熱が下がったら覚えてろよ…」
そうして二人は暫く黙ったまま抱き合った。
布越しであっても、誰かの体温を感じられるのは気持ちのいいものだった。
「…あのな、冥月。お前1人で頑張らなくていいんだ。俺を頼ってこい」
草間の声がこんなにも近くに聞こえる。
私は1人じゃない…。
そう思える様になったのは…。
「ありがとう」
冥月はそう言ったつもりだったが、言葉になっていたのかどうかはわからなかった…。
「…なんだ。眠っちまったのか」
小さな寝息を立てて、冥月は眠ってしまっていた。
ほんのりと赤い頬と吐息に浅く弾む胸。
草間は冥月を起こさないようにゆっくりと布団をかけた。
今夜はこいつの寝顔を見ていてやろうと思った。
…一晩くらいなら煩悩に勝てるだろう…。
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