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前夜祭
足早に理事長館へと歩みを進める皇茉夕良。
見慣れた建物に入り、いつものように門を潜ってドアを開くと、匂いがするのに気が付いた。
バラの濃厚な匂いが、鼻孔をくすぐる。
……? 一体何で?
ひくひくと匂いを嗅いでいると、階段から足音が聴こえてきたので、上を見上げた。
聖栞である。
「あら? 皇さんこんにちは」
「こんにちは……あのう、この匂いは?」
「まあ結界の補強ね。最近は騒がしかったから、結界に綻びができたら困るでしょう?」
「そうですか……」
結界を使っているのは知っていたけれど、匂いを使って結界を張っていたのか。
織也さんがいつもローズマリーの匂いがしたのもそれが原因かもしれないと思うが、今は関係ないのでそこは流す。
「あの、数点お伺いしたい話があるんですが」
「あらそう? 奥で話を聞きましょうか」
「ありがとうございます」
そのままいつもの調子で奥の応接室へと通される。
奥は先程にも増してバラの匂いがむせ返りそうな程にきつい。テーブルにはいつか茉夕良ももらった事のあるルーペがごろりと置かれていたのに、茉夕良は閉口する。
「あのう、最初にですが」
「何かしら?」
栞はいつもの調子でお茶を用意しながらにこやかに首を傾げる。
茉夕良はその表情を複雑に思いつつも、疑問を口にする。
「先日守宮さんに会ったんですが、特に具合が悪い事はなかったかと思います。バレエ科が大騒ぎになっていますが、あれは一体……」
「ひとまず彼女は眠ってもらったわ」
「え……」
その一言に、茉夕良は言葉が詰まる。
栞は笑顔を引っ込めて、テーブルにトンと紅茶とお茶請けを並べた。
「あの、眠るってどう言う意味で……」
「あら言葉通りよ? 別に永眠って意味じゃなくって、ただ眠ってもらっただけだから」
「あのそれは……」
「彼女自身が中に眠っている星野さんに相当困っていたみたいだから、彼女が助けを求めたから、よ? でも皇さんもあれを読んだでしょう? あれは最高級の禁術。生半可な解呪では彼女の心を壊してしまう。だから1度彼女自身を眠らせた」
「ああ……」
少しだけ納得がいった。
死者蘇生にもっとも必要なのものは、器。
そこに無理矢理自分以外の魂を大量に流し込まれたら、多分桜華自身の自我が持たない。
だからと言って流し込まれたものを無理矢理追い出そうとしたら、それもやはり桜華への負担が大きい。だから眠らせたと、そう言う事か……。
そう言えば秋也さんは怪盗の騒動時、時間稼ぎがどうと言っていたような気がするけど、それは守宮さんを眠らせる魔法を使うのを織也さんに悟られないように騒動に便乗したのなら、説明はつく。
ん? でも……。
「でもそれって、問題の後回しなのでは……?」
「そうよ。あくまでこれは時間稼ぎに過ぎない。本当なら術者自身をどうにかしないといけない」
「それは……織也さんの事ですか?」
栞はこくり、と頷いた。
これこそ、茉夕良の本来ここで聞きたかった事である。
「織也さんをどうやったら、今までの一連の出来事を止めさせる事ができるんでしょうか?」
「それを私も困っているのよねえ……」
「そんな、他人事みたいに」
「いえむしろ、他人じゃないから人の話を聞かないのよねえ」
「他人じゃないから……?」
茉夕良が栞を見ると、栞は少しだけ悲しげに目を伏せて、カップを弄んでいる。
「あの子が一連の出来事を起こしたのは、何故?」
「ええっと……星野さんを巡って秋也さんと揉めた、とは伺いましたが」
「その揉めた原因って何でだと思う?」
「え……?」
理事長は全部分かっているはずなのに、何故私にそんな話をするのだろう?
茉夕良は栞の意図が分からずとも、ひとまず記憶の糸を探った。
そう言えば、織也さん自身が言っていたような気がする……。
「……秋也さんに相当なコンプレックスがあったみたいですが。それが原因で守宮さんも気持ちが分かるから止めきれなかったとも」
「そう言う事」
栞は悲しげにカップを弄び続ける。
茉夕良もまた、カップで手を温めるようにして持つ。
「あの子にとってこの一連の出来事は、ただ自分を認めて欲しいだけなのよ。でもそれを身内が言っても聞いてくれないの。身内は、あの子を認めて当然な存在だから。秋也にも織也を貶める意図なんてないし、なかったからこそ自分の殻に閉じ篭ってしまった。桜華さんも同じ。あの子は幼馴染で、兄妹同然で育ったから、認めて当たり前だと思ってしまっている。
別に星野さんは天使でもなければ女神でもないわ。ただ人より優れているだけの普通の子。皆が皆、勝手に幻想を抱いてしまって、彼女自身を壊してしまった。
もうそれを私は止めさせたいだけ」
茉夕良は今までの織也の言動を思い出す。
見逃してくれたと思ったら暴言を放つ彼。それが全部子供の駄々だったのかと思うと、ここまで話を大事にしてまで認められたいなんて、寂しいと胸が痛む。
「……私は彼を放ってはおけません」
「それをあの子に言ってあげてくれる?」
「……前それを言って失敗してしまいましたが」
「でもあの子はあなたを見逃した」
「あ……」
そう言えば。
自分は警備員達みたいに倒れる事はなかった。気絶こそすれど、昏睡状態には1度もなった事がない。
「……彼に何を言えばいいでしょうか?」
「あなたの素直な気持ちを言えばいいと、そう思うわ。あなたは少なくとも秋也を変えられたから。だから大丈夫」
栞はようやく表情を緩め、にこやかに笑った。
茉夕良はポケットに入れているルーペを取り出して見た。
ルーペはころんと光を反射して光っている。
「先日はルーペをありがとうございました」
「いいえ。でも気を付けてね。最後の秘宝だけ、ちょっと厄介だから」
「えっ?」
「まあ、ルーペを持っているなら大丈夫でしょうけどねえ」
茉夕良はルーペをもう1度手の平に乗せると、それをぎゅっと握った。
よく分からないけれど、助けられるのなら助けたい。
理事長館からも、バレエのBGMが大きく聴こえる。
聖祭も、もう目前である。
<了>
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