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たゆたう
かたく閉じたままの瞼の上で、眩い陽光を浴びて照らされた枝葉が落とす影が揺れて踊る。目を閉じたままでもありありと分かるほどのそれは、まるで水中に身を沈めたまま遠く広がる蒼空を仰ぎ眺めているかのような感覚に似ているような気がした。あるいは空の中に浮かんでいるかのような――いずれにしても、全身を包む浮遊感にくわえて、耳に触れては離れる細い歌声が、真言の意識を少しずつゆっくりと目覚めさせていく。
――「目覚めて」?
いや、あるいはまだ夢の中にあるのだろうか。そもそもここが夢の中であったと仮定して、自分が果たしていつ眠りについたのか、記憶はひどく曖昧だ。
風が吹いている。どこか離れていない辺りに花でも咲いているのだろうか。あるいは、瞼に影を落とす枝葉に花がついているのかもしれない。それとも風がどこからかその気配を流し運んできたのだろうか。とてもやわらかな芳香が鼻先を撫でるように触れて過ぎていく。時おり耳に触れる歌声は少しだけ聴いたことのあるケルティックな歌のようにも思えるし、耳を澄ませば何かの楽器の音のようにも思えた。枝葉が風に揺らぐ音や、真言の身体を包む風景がふわふわと風に踊る気配までもが耳に触れる。もうとうに意識ははっきりとしていて、けれど自分が今どんな風景の中にいるのかを確かめる術はない。目を開けばいいだけなのだろうが、頭のどこかがそれを禁じている。決して目を開けてはならないと、自分の中で何かがそう告げているのだ。視界は閉ざされたまま、ゆえに他の感覚ばかりが研がれてゆくのか。耳が小さな音を聞き、肌は空気の揺らぎを感じ取る。
と、不意に、閉じたままの瞼の上で何か強い光がはじけたような気がして、真言は小さく指先を動かした。動かす指先が何かに触れることもないのだけど、なぜか指先から波紋が広がったような気がする。遠く近く、小さな魚が跳ねたような気がした。
――次の瞬間、真言はじわりと頭を動かし、より一層耳を澄ませた。
声が言葉を成している。歌声のようにも聞こえていたそれは、今はもう真言の耳元のすぐ近くで、確かに言葉を成しているのだ。囁くようにひっそりと、しかしそれが男のものであるのか女のものであるのかは判然としない。声は真言に告げる。
「お前はいつか、――のために心と魂を捧げるのだよ」「捧げるのだ」「遠からず」「遠い未来に」
真言は再び指先を浮かし、声のする方に伸べてみた。だがやはり指先は何にも触れず、動かすたびに波紋が音もなく広がっているような感覚だけが空気を伝い全身を包む。
声は同じ内容を示す言葉だけを繰り返す。真言の言葉など待つこともないままに。
それは、いつ。誰のために? 真言は唇を動かすが、声が形を成すことはない。ただため息がもれるように空気がこぼれていくだけだ。
幾度か繰り返した後、真言はやがて一切の動きをやめた。声はいつしか再び遠のいていたし、真言が何かをしようと試みたところで、相手はおそらく一切の返答をよこしてはこないのだから。そもそも、相手が何者であるのかさえもわからない。相変わらず目は伏せたままだから、視界もまた塞がれたままだ。自分が今どこにいるのか――夢の中にいるのかどうかすらわからないのだ。
心の中でため息を落とし、呼気を整えた後に小さく頭を振る。
いずれにせよ、これが“悪いもの”による悪夢などではないことは確かだろう。ならば身構えずに心をゆったり保つことが大事だ。いや、仮にこれが悪夢のようなものであるならばなおさら、心を乱さず、呼吸を整えておく必要がある。
思いながら、真言は胸の上で指先を重ね、閉じている瞼を一層強く閉じた後に、静かに思考をめぐらせた。
自分が何に対し心魂を捧げるのかはわからない。まして、そうなる原因やいきさつも、“声”は何一つとして詳細を語りはしなかった。そもそも、心魂を捧げるということはどういうことなのだろうか。心を捧げるということの意味ならばぼんやりとわかるような気はするが、魂を捧げるということの意味は?
考えて、真言はふと、小さな頃からぼんやり抱いていた疑問について思い浮かべた。
万物のすべて、事象のすべてには必ず意味があるという。ならば真言が能力を持ち生まれたことに関してもまた、何か意味があるはずなのだ。ならばその意味とは何だろうか。
癒すための言葉は、誰かが流れる血の痛みで泣くことがないようにするためのものだと。祓うための言葉は、相手が在るべき道を再び歩めるようにするためのものだと考えながらここまでを生きてきた。が、果たしてその力の使い道は正しかったのだろうか。力に振り回されることなくここまで来られたと、自信を持ち言いきることが出来るだろうか
何のための能力なのか。誰のために使うべき能力なのか。考えて、真言は再び指先を動かす。瞼の上でちらちらと踊る影に、広がる波紋に、遠くに感じるやわらかな歌声に、周囲を流れる穏やかな風に向けて手を伸ばした。
指先は何にも触れない。真言が抱く疑問符に応えを返す者などいない。それでもかまわず、真言はもう一度唇を動かした。
俺は
俺は何のための――誰のための存在なんだ
ちりり、と、鈴が鳴ったような気がした。
気がつけばそこはアパートのすぐ近くにある公園だった。
弁当屋の袋を提げ持ち、街灯が明滅する道の上をぼんやりと歩き進んでいた。冷えた風が髪をすいて流れ、仰ぎ見た夜空には細い月がひらひらと揺れている。
目を開けた覚えもない。真言はぼんやりと周囲を検め、次いで静かに頭を振る。
自分は歩きながら眠るほど器用な人間ではないと自負している。考えてみれば確かに、バイト帰りに弁当屋に寄り、アパートへ向かう帰途の途中であったはずだ。弁当に触れてみればまだ温かいし、時間はまったくといっていいほどに差異を生じてはいない。
夢、であったはずもない。ならばたった今まで自分が置かれていたあれは、たぶん、あれも現実なのだ。もたらされた預言や――あるいは神託のようなものであったのかもしれない。漠然と、頭のどこかでそう納得している自分がいる。
自分が何のために生まれてきたのか。自分は誰のためにある存在なのか。その疑問は変わらずに胸の中にある。もう一度夜空を仰ぎ、真言はそっと目を細ませた。
自分はいつか誰かのために死を迎えるのかもしれない。それがいつのことなのか、誰のためであるのか。それは解らない。“声”も教えてはくれなかった。誰かのために命を落とすのならそれも良いと思う。けれどそのとき、その“誰か”は真言の死を嘆いてくれるだろうか。悲しい、と。寂しい、と。泣いてくれる人はいるだろうか。
誰かを遺し死を迎えることはとても辛い。ならばなるべく他者との交わりをもたず、深い縁を結ばず、ひっそりと静かな死を迎えたいと思う。思ってきた、――今日まで。けれど。
俺は、
呟き、しかしすぐに口をつぐむ。
確かな絆が欲しい。伸ばした指を取り微笑んでくれる誰かが欲しい。真言の名を呼び、抱きしめてくれる誰かが欲しい。この人のために死を迎えるのならば構わないと、心の奥底から思えるような相手が。
指先を震わせ、それを隠すように上着のポケットの中に突っ込んだ。
耳もとでは、ふわふわと遠く近く、歌声が揺れている。
◇ ◇ ◇
このたびはご発注ありがとうございました!
いつもご指名ありがとうございます! にもかかわらず、毎回大変にお待たせしてしまっていますこと、本当に、本当に申し訳ありません。
もしもまたご指名いただけるのであれば、こ、今度こそは必ず。
お待たせしましたぶん、少しでもお気に召していただけましたらさいわいです。
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