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【水面の下からこんばんは】
みなもは一人、小舟に乗っていた。日付が変わって間もない頃のことである。けして入水するのでも、酔狂な家出を企てたのでもない。もちろんそれ以外の理由はあるのだが、それはさして重要ではない。重要なのは、みなもがたったひとりであるということ、そして、日付けが変わった今この日――今日がハロウィンだということだった。
小舟の中で膝を抱えて丸まっていたみなもの耳に、ふと音が聞こえた。その耳障りな音は人の声ではなかったが、海の音でも、風の音でもなかった。みなもは顔を膝にうずめたまま、ぎゅっと服をにぎった。
先ほど聞こえた音が、一段と大きく鼓膜を打った。
「ひしゃくを寄越せぇ」
「ひしゃく? 喉が渇かれたなら、海の水よりも真水のほうがいいですよ」
「ひしゃくを寄越せぇ」
やはり耳障りな音である。言葉を成してはいるが、声ではない。だがみなもは臆することなく、わずかに顔を上げた。垂れた前髪の奥から、声の主を見る。
巨大な頭が水面から覗いている。海坊主だ。
みなもはもう一度、服を強く握ると、船の中にあったひしゃくを差し出した。
「それでしたら、どうぞ」
ぬるりとした粘液に包まれた手が、まるで楊枝でもつまむかのようにひしゃくを受け取った。
海坊主は少し、笑ったようだった。
ひしゃくが海の中に入れられ――そして水をたっぷりと湛えて出てきた。
「可哀相にのう、可哀相にのう」
船の中に水が注ぎこまれる。
「可哀相にのう、可哀相にのう」
船が傾きだしたというのに、みなもは膝をかかえたまま動かない。あるいは動けないのだろうか。
「可哀相にのう、可哀相にのう」
とうとう船は完全に沈んだ。海坊主は黄色い歯を覗かせて笑い、苦しそうにもがくみなもの体を握りしめた。過剰に潤った皮膚が、みなもの体を引き込む。暗い海の底へ、海の底へ、海の底へ――。
「可哀相にのう」
ぐったりと動かなくなったみなもの髪をかき分け、海坊主は食糧の顔をよく見ようとした。
「可哀相なのは、貴方です……運が悪いんですね」
人間が海中で発声するという椿事に驚いて動きを止めた海坊主の前で、みなもの顔が露わになった。
「とぉっても」
片目が零れ落ちんばかりに飛び出し、口は裂けて骨が覗き、頬の皮膚がただれていた。その時海流がみなもの後ろから押し寄せた。めくれあがった皮膚が剥がれ、神経だけでかろうじて繋がった眼球が千切れ飛ぶ――震える海坊主めがけて。
「ひっ」
海坊主はか細い悲鳴を上げて、手を払った。
その勢いにみなもの体も舞い上げられ、ほんの数分後、彼女は海岸にへたり込んでいた。
「いくらなんでも、驚かしすぎたでしょうか?」
特殊メイクの土台として、顔に貼り付けていたシリコンを剥がすと、みなもは苦笑した。
さして重要ではないとした『みなもがここにいる理由』、それは海坊主を驚かすことだった。
演劇部の先輩が言い出した『ハロウィンにオバケを驚かせる』という試み、それに巻き込まれたのである。その試みの詳細と言うのが、一番最初にオバケを驚かせた人が勝ち、他の人になんでも命令できるという無茶苦茶なものだ。恐らく、先輩が好き放題我儘勝手するための口実だろう。
みなもはその野望を阻止すべく、こうして0時近くから海で張り込んでいたというわけだ。
だが狙っていたとはいえ、先程の海坊主には悪いことをしたと嘆息した。あの海坊主、人間と比べればはるかに巨体だったが、海坊主にしてはやや小ぶりであった。まだ子供だったのだろう。
みなもは服を絞ると、水平線越しにであっても海坊主に謝ろうと振り向いた。
「これだから人魚は嫌いなんだよ!」
みなもの視界に写ったのは、先程の海坊主と、その倍もある海坊主。その巨大な手がみなもの頭に捻じ込まれた。
■□■
ハロウィンのその日、みなものクラスはいつも通り賑やかだった。天気は晴れ。校庭で男子がサッカーをしている。みなもはそれを窓越しに見ながら、昼食を食べていた。ハロウィンにちなんだカボチャに煮つけはいかにも日本的だが、砂糖と素材の甘味がじわじわと染み出してくる逸品だ。その味に頬を緩めながら咀嚼していると、演劇部のクラスメートがみなもに話しかけた。
「ねえねえ、みなも。今日どうする? 本当にオバケ探す?」
みなもは昼食を食べる箸を止め、にっこりと笑った。
「いえ、もう驚かせてきましたので」
「は?」
ニヤニヤと冗談めかして笑っていた顔が呆気にとられた。みなもはそれに気づかないものか、嬉しそうに笑った。その無邪気さは、普段の真面目さからは想像さえしなかったほどに幼い。
「とても驚いてくれたので、やったかいがありました」
「そ、そう。あ、ねえ。あんた今日なんかやけに肌の調子いいわね。ぷるっぷるじゃない」
いつもとどこか違うみなもの様子に、彼女は色恋沙汰の予感を感じて再びニヤニヤと笑い出した。
■□■
最後の授業が終わり、みなもはバイトに向かっていた。歓楽街に入ると、様々な店が立ち並ぶ。ファミレス、居酒屋、花屋、ゲームセンター――その内の一つを通り過ぎようとした時、みなもを呼び止める声がした。ハロウィンの企画を持ち出した先輩だった。
「先輩! 奇遇ですね」
「や、あたしがゲーセンいるのは珍しくないけどね。それよりみなも、あんた幽霊おどかしたんだって?」
「幽霊ではありません。海坊主です」
憮然と訂正したみなもの様子も気にせず、先輩はその肩に腕を回した。
「まあまあまあ! で? どんなだったの? 」
彼女の意図するところは単純明確、『オバケ退治の証拠を見せろ』というものである。無粋な問いかけではあるものの、今回の企画の考案者は彼女。その原動力は、自分が美味しい思いをするというその一点だったのだから、無粋なことを言ってしまうのも致し方ない。
しかしみなもはその質問に困るどころか、満面の笑みを見せた。いつもの優しげな微笑とは違う、どこか恍惚とした笑顔。
指先がなぞるその唇が、艶やかに光った。
「ああもう、本当に怯えちゃって、とっても可愛かったですよ。私ゾクゾクしちゃいました」
みなもとは思えない台詞、そして蕩けるような声音に、先輩は絶句した。そして気付く。唇に当てられたみなもの手、その袖口からどろりと粘液が零れ落ちていることに。
「みなも、あんたその手……」
思わずみなもから距離を取った彼女は、自分の制服を見下ろして口を噤んだ。水分を吸って、変色している。みなもの制服に至っては、スカートの裾から雫が滴り、靴下までもがびっしょりと濡れていた。
彼女が我に返った時には、濁った色の粘液が跡を残すばかりだった。
■□■
「もっと、驚かせれば良かったですね。怖がらせればよかった……怖くて怖くて、心臓が止まっちゃうくらいに。妖怪を驚かせるのってどうすればいいんでしょう? きっと傷つけられちゃったりしたら、すごく驚くだろうなア」
ブツブツと呟くみなもの姿が、不安に点滅する街灯に照らしだされていた。くすくすと響く笑い声は、どこか妖艶ではあったが、鼓膜に心地いいとは言い難い。
手をつく壁壁にじんわりと跡をつけながら、ふらふらとした足取りで歩く。唇から零れる声は歌うようであっても、その内容は呪詛に等しい。
その異様な姿は近づくことも憚られる程だったが、通りすがりの男がその背中に声を掛けた。
「お嬢ちゃん、子供がこんな時間に出歩くもんじゃねえよ。パクられるぞ」
男の声に、みなもはぴたりと歩みを止めた。声もぷつりと途絶え、夜の沈黙が突然舞い降りる。
不思議そうな、そして心配そうな表情を見せた男の視線の先で、みなもがゆらりと振り向いた。
「ねえ、驚いてくださいます?」
歪に膨らんだ顔は、男の二倍もあった。そして顔に向かって伸ばされる手には鋭い爪と鱗が生え――。
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