コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


ソラへ祈りを

 草木の生い茂る山奥。枝葉を避けながら歩いていくうちに湖が見えてきて、安堵の息を吐く。人気もなく、道らしき道もないような山を進んできたが、どうやら目的地に辿りついたらしい。
 草間興信所からの依頼を受け、物部・真言(ものべ・まこと)はこの湖を訪れた。湖に何かが棲んでいるようだが、もしそれが不浄な存在であれば清めてほしい、と。
 何かが棲んでいる、と言ったのは、この山に入った森林伐採作業員だという。伐採前に現地の下見をしようと訪れたが、そのたびに突然の大雨に見舞われ、下見を中断せざるを得ないという。どれだけ晴天であろうとみるみる空が曇り、なのに下山するとまたすぐに晴れる。そして、雨の降る前には必ず、湖の方が光っていたというのだ。
―――今のところ、嫌な気配は感じないが。
 また、雨が降りそうな様子もない。そういえば、雨が降ることに変わりはないが、降る量はだんだん減っている、と作業員が言っていたらしい。もしかしたら、雨を降らせる何かがいたとしても、もう何処かへ行ってしまったのだろうか。そんなことを考えつつ、楽観視はよくない、と気を引き締めた。
 湖にだんだん近づいていく。――と。びり、と緊張感をおぼえた。しかしそれは禍々しいものとか、敵意とか、そういったものではない。もっと清廉な、尊いもののように思える。近付くにつれて強くなる緊張を抑えながら、真言は湖へと歩いていった。やがて水辺まで辿り着き、思わずごくりと生唾を飲み込む。
 いなくなった、なんて安易な考えだった。ここにはやはり、何かがいる。
 真言は湖のほとりにしゃがみ、何気なく水面へと手を伸ばし――だが、ふと動きを止めた。湖から感じる、確かな『気』のようなもの。
 澄んだ気配。それは、軽々しくその水面を揺らすことさえためらわれるような。真言は手を引っ込め、ひとつ息を吐いた。
 畏敬の念すら生まれるほど、尊いモノ。けれど、感じる緊張に対して、その気配はやや希薄だ。実体としては小さなものなのか――あるいは、弱っている、ということかもしれない。
 真言は改めて湖を見つめた。気配を感じるのは、おそらくこの湖からだ。湖の底にいるのか。そう思って底を覗き込もうとするが、よく見えない。やや汚れ、水が濁ってしまっている。おそらくこの中にはいまい。
 否、と。真言は考え方を切り替えた。いないのではなく、出られなくなっているのではないだろうか。汚れた湖を見て、そんな風に思う。
 真言は瞳を閉じると、両手を合わせた。意識を、湖へと集中させる。
「波瑠布由良由良(はるふゆらゆら)」
 唱えるは、癒しの言霊。この湖そのものにかけて効果があるのかはわからない。だが、弱々しい気配は、この湖自体からも感じるような気がするのだ。
「而布瑠部由良由良(しふるべゆらゆら)」
 どうか、失われつつある生命力を取り戻せと。その手助けとなれと、言葉を紡ぐ。真言の落ち着いた声音は、静かな空気にゆるりと沁み込んだ。
「由良止布瑠部(ゆらしふるべ)――」
 祝詞を唱え終え、真言はゆっくりと目を開ける。真言の声の名残が微かに足跡を残すが、湖は依然として静か。真言は、じっと湖を見つめる。その動向を、見守るように。――と、不意に。
 空気が、揺れた。弛んでいた弦が、ぴんと張られるように。張りを失くした膜が、かつての強さを取り戻すかのように。
 そして轟く、声なき咆哮。びりびりと震える空気を感じながらも、真言は湖から目を逸らさない。湖面は今、僅かに波打っていた。叫びに呼応するように上がる飛沫が、真言の頬を微かに濡らす。
 その冷たさを感じながら、真言は悟った。この尊い気配。この咆哮。湖を揺らす、この存在は――。
 ここは、水神の棲む場所だったのだ。おそらくずっと昔からこの湖とともにあり、ここに住む生き物たちの信仰によって成り立っていたのだろう。
 しかし、湖は汚れてしまった。ここに住む人々は信仰を忘れ、湖のことも気に留めなくなり、この地を離れるものも増えた。結果、湖は汚れていった。
 そういえば、と思いだす。作業員が言っていたという、調査に訪れた際に降る雨量がだんだん減っていること。それは、この湖に棲むモノの力が弱まっていることを示していたのだろうか。
 水神は、姿を現すことが出来なくなった。実体を持たない水神は、人々に忘れられてしまったら、その存在が希薄になるばかりだ。
 守る力も、失いゆく。信仰の篤い頃には、水神はこの湖を降臨する地とし、ここに生活するものたちを守ってきた。けれど、その『守るもの』がなくなったら、水神はその存在意義すら失うのだ。
 水神の叫びは、真言の耳に悲しく響いた。やるせなさと寂しさが伝わってくるようで、胸が痛む。真言は唇を噛み、だがそれでもやはり湖を見つめ続けた。
 依頼は『この湖に棲む者が不浄な存在ならば、それを清めること』。この水神が不浄だなんて、そんなことがあるはずもない。それならば、真言はどうするのか。
 このまま立ち去ってもいい。依頼内容からは外れない。だが、水神はどうしたいのだろう、と真言は思った。
 再びこの地に住む者が増え、また信仰が興ることだろうか。そうしたら、水神の存在意義は再び生まれる。
「また、この地に信仰を取り戻すべきか」
 ぽつりと呟く。と、強い風が真言へと吹きつけた。――まるで、拒否するかのように。
―――嫌、なのか。
 どうして。そう思うけれど、わからないでもないような気がした。
 水神は、もう疲れてしまったのだ。この地に、人々に、希望を持てなくなってしまった。水神の棲み処を奪ったのは、人間だ。
―――俺たちが、追い詰めてしまった。
 刹那、水柱が天を貫く。空へと昇っていく、水神の姿を真言は見た。
 それはとても神々しく――けれど、寂しい姿だと思った。
 真言は、水神に手を合わせる。水神を追い詰めてしまった非礼を詫びながら、水神が天で安らかな気持ちであるようにと。心から、祈った。





 しばらくして、報告のために草間のところへ向かった。中へと招きながら、開口一番に成果を問われる。真言は、迷いなく口を開いた。
「何もいませんでした」
 そっけなく言うと、草間から目を逸らしてソファに腰を下ろす。草間は訝しむように眉をひそめ、真言の目を見据えた。
「何も無かった、なら大した報酬は出せないが」
「……無かったものは無かったです」
 真言も顔を上げる。嘘を吐くこと自体は心苦しかったが、草間に真直ぐな眼差しを向けた。発言は撤回しない。自分で、そう決めた。
 役目を終えたと天に帰っていった水神を、そっとしておいてやりたかった。もうこれ以上、人の目に触れさせたくない、と。そもそももう地上から去ってしまったが――せめて、これからは安らいでいてほしい。それが心ばかりのものでしかなくても、今まであの地や人間を守っていた水神への礼儀だと、真言は思った。
「わかった」
 草間が短く呟き、溜息をこぼした。嘘がばれただろうかと、真言は内心で焦る。だが草間は真言から視線を外すと、戸棚の方を漁り始めた。
「散歩代として、菓子でも食っていくか。お前の好きな酒は出さんが、コーヒーにリキュールぐらい入れてやる」
「やけに太っ腹ですね」
「何、たまにはな」
 それ以上、触れてこない。真言は、胸中でほっとした。草間は真言の嘘に気付いているかもしれないと思いながらも、その心遣いが有難いと思った。
「……ありがとうございます」
 リキュール入りのコーヒーとともに味わう菓子は、優しい味がした。





《了》