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それぞれの悪夢…そして
1.
ぽちゃん…とカランから水が垂れた音ですら、目を覚ますのに充分な刺激になる。
何度となくその音で、草間武彦は目を覚ました。
狭い部屋の中はまだ闇が覆いつくしている。
草間は隣に眠る、熱を出して寝込んだ女を見た。
黒冥月(ヘイ・ミンユェ)は、時々苦しそうに咳をしてはまたすやすやと眠る。
そんな浅い呼吸を繰り返していた。
うっすらと汗をかいた額に手を置くと、まだまだ熱い。
草間は起き上がり、ポケットからハンカチを出すと水にひたした。
そして、それで冥月の汗を拭いた。
顔、首筋、そして胸元…。
そこまで拭くと、草間は目を逸らしてぎゅっと何かに耐える様に瞳を閉じた。
わかっていた。こうなるであろうことは…。
俺の煩悩が一晩持つなどと、浅はかな考えだとは思っていた。
しかし、ここでこいつを一人きりにすることも出来なかった。
だからといってここで、俺が煩悩に負けてしまっては意味がない。
草間がぐっと堪える傍らで、冥月は寝返りを打った。
布団が押しのけられて、すらっと伸びた足とシャツに包まれた体が丸見えになる。
おそらく発熱で熱いのだろうが、草間には目の毒でしかない。
「うぅ…」
苦しげな冥月の声が、草間の耳に届いた。
2−1.
熱い…喉も焼けるように渇く…。
陽炎のように揺らめいては消える人々の影。
あれは誰だった? 私はなぜここにいる?
私は…なぜこの力を使っている?
影に貫かれ、倒れていく人々は血を纏って地面に消えていく。
「いや! もう殺したくないの…」
そう思っても力は暴走し続ける。
「やめて! もう、やめて! 殺さないで!!」
どれだけ懇願しても、影は人を殺し続ける。
喉が渇く。冥月は喉をかきむしった。
2−2.
夢を…みているのだろう。
冥月は激しい叫びを上げた。
「殺さないで!」
どんな夢を見ているのか…おそらく、悪夢なのだろう。
熱に浮かされている冥月に、草間はまた汗を拭いてやった。
と、冥月がうなされて喉をかきむしる仕草をした。
その指は胸元を隠していたシャツに引っかかり、ボタンを外した。
「…!?」
動揺した草間は思わず声を出しそうになって、慌てて口を押さえた。
冷静に…冷静になれ、俺…。
草間はそろ〜と冥月のシャツに手を掛ける。
煩悩、消えろ! 煩悩、退散!
そう念じながら草間は冥月のシャツを元に戻し、布団をかけた。
はぁっと大きく息を吐く。
心臓がどくどくと脈打っているのがわかる。
ちくしょう。こいつ、実は寝てないんじゃないのか?
…いやいや、それは俺の考え違いだ。
こいつは間違いなく寝ている。
時計の針はようやく2時を指した。
3−1.
体が…重い…。
体中に鎖を巻きつかせたかのように体が動かない。
冥月はどことも知れぬ街中を歩いていた。
先を歩くのは…草間だ。
「待って…体が…体が動かないの…お願い…」
でも、草間は軽く冥月を見た後にこりと笑ってそのまま歩き出した。
「いや、置いていかないで…私が、私が守るから…一緒に…」
ずぶずぶと足元が埋もれていく。
草間の笑顔も遠くなり、冥月は地面の中に吸い込まれる。
苦しくて苦しくて、自分の力のなさを痛感する。
「武彦…好きなのよ…」
3−2.
また、うなされだした。
はぁはぁと大きく胸を上下させて、冥月は首を左右に振る。
これはもしかして、俺が布団を掛けたせいか?
そーっと覗き込むと、白い肌に赤くなった頬がやけに色っぽい。
…って、そこじゃない! そーじゃないだろ、俺!
冥月の寝言が途切れ途切れに聞こえる。
「…お願い…守るから…武彦ぉ…」
何を守るのか…?さっぱりわからないが、草間の夢を見ているらしい。
俺の夢を見るんなら、もっといい夢のときに登場させろよ。
心の中で悪態をつきながら、冥月の顔に手を触れた。
綺麗な長いまつげだな…。
「…好き…よ…」
冥月がそう呟いた。
こいつは寝言を言っただけだ。
そう言い聞かせてみたが、草間は既に自分を制御できなかった。
4−1.
地面の底は地獄だった。冥月は赤い闇の中にいた。
熱く、重く、そして血飛沫が舞う地獄。
その中に、見覚えのある顔を見た。
兄弟子だ。あの時死んだはずの…愛しい人。
あの人が、笑っていた。
しかし、その後ろには赤く光る刃がその首を狙っている。
「いやっ! やめてぇ!!」
体は動かない。声も届かない。私は…私は…!
目の前でまた…あなたを失うの…?
「いかないで…お願い、いかないで…愛しい人…守れなくてごめんなさい」
強い後悔の念が冥月を襲った。
虚無感と失望。
頬を伝う涙だけが、それらを消し去る手段だった。
だから…もう、同じことは繰り返さない…。
武彦だけは…何があっても守るの…。
「武彦…私が守るから…先に死んだりしないで…」
4−2.
「おまえがその気にさせたんだぞ」
言い訳じみた言葉を捨て台詞に、草間は冥月に顔を近づけた。
吐息が直接感じられるほどの距離。
草間はそのまま顔を寄せた。
しかし、それは冥月の言葉によって止まった。
「不去(いかないで)…可愛的人(愛しい人)…」
草間には何をいっているかまではわからなかった。
だが、それは日本語ではなく中国語だった。
顔を遠ざけると、冥月の目じりから頬へと涙が落ちていた。
「武彦…先に死んだりしないで…」
草間は目を伏せると、冥月の隣に座り込みタバコを取り出した。
だが少し考えた後、タバコを持って外に出た。
吸い込んだニコチンが肺に回り、少し落ち着いた。
冥月がここに来る前、何をしていたかなんて知らなかった。
詮索する気もなかった。
だが…
「ち。過去に嫉妬するなんて、俺らしくもねぇな」
しばらく夜風に当たると、草間はまた部屋に戻っていった。
5.
冥月が目を覚ますと、部屋はほのかに明るい朝の日差しに包まれていた。
「ん〜…」
伸びをして、額に手を当てる。どうやら熱は下がったようだ。
ふと、隣を見れば両腕を枕に眠る草間がいた。
「…なんだ、帰らなかったのね」
とは言ってみたものの、嬉しさが思わず顔に出てしまう。
のそのそと布団を這い出て草間を覗き込むと、仏頂面で寝ている。
おそらく畳敷きでは寝にくいのではないか、と冥月は推測した。
「ありがとう…武彦」
そういって顔を近づけた冥月の体は、次の瞬間、グイッと草間に引き寄せられていた。
「おい。人の寝込みを襲うたぁ、いいご身分だな」
「た、武彦!? いつから起きて…」
ワタワタと動揺する冥月に、草間はにやっと笑った。
「俺は探偵だぜ? 人の気配くらいは寝ててもわかる。で、おまえ何しようとしてたんだ?」
ニヤニヤと笑う草間に冥月は顔を赤らめた。
「い、意地悪いぞ?」
「おぅ。俺は意地悪いからな。…熱は下がったみたいだな」
抱きしめた冥月の体から熱が下がったことを草間は知った。
「じゃあもう一度聞こうか。冥月、何しようとした?」
草間はなおも問いかける。
「ち、ちょっとお礼しようとしただけよ!」
投げ捨てるように冥月がそういうと草間は「上等」といい、さらに冥月を抱き寄せた。
2人は朝の光の中でキスをした…。
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