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<東京怪談・PCゲームノベル>


◆紫陽花祭◆第三話


 白装束の集団が大広間で集まり、襖の隙間から覗く子供はきつく唇を結んでいる。

『どういう了見だ……? 【呪】が失敗するとでも?』
『本来の意味での儀式を執り行うべきです。何度もお話したはずです』
『我々は長きに渡り神を支配してきた。それを止めるつもりなのか?』
『祀る神が扉を守れるのは八度だけ。もう、あと一度で神力は消えるでしょう。形だけの儀式では“月影”の周期を早めるだけです』
 一族が集う広間まで入ってきた少女は、災厄を“視る”ことで近く実行されるであろう、神との対峙へ警告を放っていた。

 見ていた子供は家を飛び出し、誰も近づかない古い酒蔵まで走る。
『すべての痛みと記憶を引き受け、封じなければならない。誰にも知られてはならない』
『わかった。やってみるよ』
 二人の歳は十ほど離れて見えたが、まるで双子のように酷似している。

 だが、それがどんな事態を招くかなど、分かるはずもなかったのだ。

 白き髪の者が、宵待の領域に住まう人々の枕元へ立ち、朱く光る眼で言い聞かせている。
『大水ガくる。夜明けのトリが鳴く前に、家を出テ、山まであガレ』

 そして、……すべてが水へと沈んでいった。

 産着を着た赤子が流木の上、眠っている。
 かすかな希望を小さな手で握り締めて。

◇◇◇◇◇

 最後の香り。水面へ浮かび上がる感覚で、アリスは両目を開く。
 正面で午後の光りに透けた、八神・心矢の栗色の髪が見える。
「二人とも、気分はどうですか?」
 サソウが窓を開けたので、部屋の香りは残ることなく消え去り、完全に舟を漕いでいた銀華は、よだれを手の甲で拭うと強く瞬きをして睡魔を振り払う。
「大丈夫です。少し、眠いような気もしますけど」
「瞑想状態でしたからね。すぐ元に戻りますよ」
「誰もしゃべらねぇから、思わず一寝入りしちまったぜ」
 大あくびをする銀華を見て、七星稲荷神社の巫女であるアコは笑っていた。だが、サソウは参加しようとはせず、調香道具を片付けながらアリスと心矢のようすを注意深く観察している。

 “魔眼”を実行した所為か、それとも心矢の記憶へ触れたためか。
 アリスは断片的な映像が未だ見えていた。

 八神さんは、十年前、お兄さんと蔵にいたはず。でも、いたのは……。

「あの、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか?」
 アリスの問いかけで、『表(おもて)』では行方不明扱いの学者が視線を上げる。
「あなたは、八神さんの“兄”ではない。そう、言いましたわね。でも、彼にとってあなたは“兄”と呼べる存在なのでは?」

 最初、心矢を視ることができなかった。
 『虚(うつろ)』が延々続くだけで、探っても純白の闇しかなかったのだ。
 だが、サソウの“調香”した香りが、隔てていた見えない壁を突破させ“魔眼”に真の在処を示した。

 あの膨大な『記憶』と『視点』のすべてが、心矢のものとは思えない。
 隠すように切り子の箱へ押し込められているような……。

「…………」
 まるで、八神・心矢の十年後の姿をした“後見人”は、口を噤んで目を伏せている。
「おまえら三人、並んでいると兄妹みてぇだが、本当はそうじゃないんだろう?」
「そんなことない! 兄さまは、アコを見つけてくれた大切な兄妹だよ!」
「俺は、誰かがそいつの名前を呼ぶのを一回も聞いてないんだがな?」
 銀華の言葉を聞き、立ち上がったアコの肩を隣の男はそっと押しなだめた。
「私は自分の名を失いました。告げても聞こえる者は何処にもいないのです。……私たちはすべてを思い出すしかないでしょう」
「どういうことですの?」
 アリスが眉を寄せていると、一言もなかった心矢が遮った。
「思い出さなくていい。引き受けるのは一人でいいんだ。俺は生きていてほしい。そのためなら、どんな罰でも受けるつもりだ」
 腕組みを解いた銀華は大きく息を吸い込み、顎をひと掻きしてから目を据える。
「じゃあ、おまえはまとめてそこの二人を助けるため、神サン利用したってのか?」
「違います! 八伏様には、真の儀式でお帰りいただくはずでした。八神家は、“宵待”と“月影”の守護を八伏様に強いてきたのです。ようやく本来の方法を知ることができて……」
 心矢が膝の上へ置いた拳は震え、穏やかな印象である彼が初めて感情を露わにしている。

 アリスと銀華、後見人と心矢のやり取りを、長らく黙視し続けていたサソウは、助け船を出そうと膝を立てたが動きを止める。

 襖一枚向こうの気配。

 話し続ける者たちを残して離席すると、引き手に指をかけてゆっくり隙間を広げる。
「お話がございます」
 暗い廊下で待っていたのは狢菊で、場へ加わらないのか尋ねたが、首を横に振るだけだ。
「表の存在が“月影”へいられる時間は、そう長くはないのです」
「制限があるということですか?」
「今日の夜。あなた方が“宵待”から消えたあの時間までです」
「丸一日か……。それまでに戻ることができなければ?」
「二度と帰ることはできません。サソウ様のお名前も、いた痕跡も、すべて表から消えてしまうでしょう」

 では、名前を失ったあの学者は、表、“宵待”の存在だったのだろう。
 心矢くんが持っていた名刺から、名前が消えていたのはその所為だったのか……。

「僕たちは戻る方法が分かりません。どのような手順を踏めばいいのでしょうか?」
「道案内はわたくしにお任せ下さい」
 狢菊が酷く寂しそうな表情をしたので、思わず伸ばした手で頬へ触れるが、彼女は打たれたかのように顔を下げる。
「心矢様は、糸の“ほつれ目”を織直すつもりで来られました。アコ様の存在を留めておくために」
「もしかして、アコさんは“宵待”……僕たちがいた世界の?」

 消えた学者であり、アコの後見人でもある男は集った者たちを見渡した。重苦しい空気の中、ようやく意を決したようすで涼やかな声を響かせ始める。
 最後は重なって、瞑目していた“八神・心矢”の言葉、二つの奏でとなった。
『八神家は代々ある研究を進めていました。自分たちの存在する世界の隣、たとえるなら暗き水のような……異なるものがあると知ったのです。そして、暗き水は、世界を映し出す鏡のようであるのだと』
 また、語る二人の男は、夜の水面へ月が映る様が、まるで二つ目の月に見える。それが“月影”の由縁であると捕捉した。
『隣接した存在の“月影”は、満たされていながら膨大な空間を保持している。垣間見るだけで干渉を及ぼすことはできなかった。ですが、八神の祖は暗き水から現れた者との接触に成功したのです。“汀(みぎわ)”を行き交う女との』
 襖越しで聞いていたサソウは、目の前の狢菊から視線を逸らさなかった。
 アリスは心矢と学者の間で、ほぼ確信したことを胸へしまっている。
 自らの唇を浅く噛んでいるアコは、銀華の視線を感じるときつく見返していた。
『捕らえた時の事は伝えられていませんが……意識を閉ざして眠る女を、従わせることができた。そうして、“月影”へ“宵待”を転送する扉を作ったのです』
「……転送……? まさか、世界の複製を?」
「“月影”はコピーされた世界ってことなのか?」
『正確には移転です。世界を丸ごと“月影”へ移そうという意図の元、扉を管理するための場所として神社と酒蔵を建てたのです』
「どうして、八神一族はそんなことを行おうと?」
『失ったものを取り戻そうとするのは、八神だけではありません。最初は、過去……死者と対話するため開けられた小窓だったのです』

 もし、彼らの言うとおりならば、別れの悲しみが暗き水を引き寄せたのかもしれない。

『“月影”は映したものを二分化させる作用を持ちます。……太古、神という存在が人と密接であった頃、とある神を月影へ映しました。というのも、八神の扉は世界を区切っていた皮膜に穿孔を空け、一族だけでは制御できないほど拡大していたからです。それを防ぐため膨大な熱量が必要だった』
 学者の言葉を聞いていた銀華の指は、白くなるほど力が込められ、置かれている着物の膝、深い皺を刻んだ。信心深い彼にとって信仰の対象を、単なるエネルギーとして扱う【八神家】は根本的に相容れないものがあった。
「そうやって八神は、自分たちのやったことの後始末を、神サンにさせていたってワケか!」
『八神も代償を払っています。受け継がれるはずの霊力をすべて失いました。“八伏様”とは“月影”へ映した神を原型に八神の霊力で発現した守り手。管理する者は、伝えられた知識と扉の形を保つ霊力を持っていなければなりません。“神喰い”とは防壁である“八伏様”から霊力を取り戻すのが目的で行われていました』
「でも、“神喰い”は、真の儀式ではなくなっていた?」
 アリスの問いで男と心矢は同時に頷く。そうして、不安そうなアコへ『心配はいらないよ』と声をかけた。
『私とアコは気が付きました。私は八神の知識を継承していますが、神々や神霊を感じることはできません。アコは兆しとして霊力を取り戻した者。時は満ちていたのです』

 途切れた直後、家屋が強く震え、屋根瓦が落ちていくのが窓から見えた。
 なにかしら大きなものが降ってきた衝撃は、やがて、屋根を踏み割り歩き始める。
「でけぇのが、いるみたいだな?」
 銀華が天井を見上げ視線を巡らせていると、アリスは落ち着いた調子のまま呟いた。
「四つ足ですわね……。それに、この空気は感じたことがあります」
「そういや、あの草原で一回見たきりだな。ふ〜ん? ケンカ売ってやがるのか?」
 廊下の壁に大きな亀裂が走り、サソウと狢菊は隙間から漏れる獣の呻り声を聞いた。
「“月影”での八伏様は消滅してしまった。恐らく、十年前行われた『神喰い』によって。“宵待”の八伏様も、八神家三人の関与で同じ道を辿ろうとしている。そうですね?」
「心矢様は正しく儀式を執り行いました。神不在の扉は“宵待”と“月影”の両方から閉じるしかなかったです。心矢様が“宵待”から扉を閉じようとした時、アコ様は閂(かんぬき)として“月影”へ流されてしまいました」
「……儀式は、成立しなかったのですか?」
「一度は理を得ました。しかし、心矢様はアコ様を見捨ててはおけず、再び扉をこじ開けてしまったのです」 

 では、あの学者はかつての“八神・心矢”であり、今の心矢くんは、アコさんを追って“月影”に映されたもう一つの姿なのか。

 サソウは大きな振動で足を取られ壁に手をつく。離れの屋根はあちこち穴が空き、外気が入ってきていた。
 悲愴と憎悪と獣のにおい。
 落下してくる木片や土壁を避けながら、集まる部屋まで戻ろうとしたが、真上で更なる破壊音が被さり、サソウと狢菊の姿は降り注ぐ瓦礫で見えなくなった。

◇◇◇◇◇

 何もかも打ち壊す勢いで、白い雪崩が屋根を突き破って侵入してくる。
「とうとう、ここまで来ましたね。ミツカイ」
 学者はアコを背中へ隠しながら、土埃が舞う中でひっそり微笑む。その隣、心矢の顔からは表情が抜け落ち、まるで空(から)になってしまったかようだ。
“よくモ、平然と……。だガ、待ッテいたノダ機会をナ。おまえガこうシて現れるノヲ! ……知っていルカ? 神ハ呪っタりしなイ。神罰の代行ハ眷族ノ役目ナノだ”
 巨大な白狐は深紅の目を暗く濁らせ、七つの尾を振り立てた。
“ヨモや、人が神殺シをしテ、生キ長らえラレると思ウておルマい”
「……まさか! 神サンは!?」
 妖狐の言葉で銀華は慌てて詰め寄った。毒々しいほど赤い両眼が彼を捕らえている。
 “もウ、遅いノダ! おまエたちニ八伏様は救えなイ。やハり十年前、八神一族は残らズ滅ぼサれるベキだっタ!”
 憤激で彩られたミツカイの口が大きく開かれた。アリスは咄嗟に対峙してる銀華を、力いっぱい両手で突き飛ばす。
 受け身で転がった用心棒は、すぐ態勢をたて直し、続く爪での追撃を素早く回避した。
 吐き出された青白い炎は充満するかの勢いで広がり、焼き尽くしながら凍らせていく。
「こんな手狭では身動きが取れません! 全員外へ!」
 アリスの指示で、銀華は引き戸を蹴破って通路を確保し、アコを伴った学者と心矢を進ませながら後へ続いた。
 避難する背中へ牙の鋭さで、守護者の呪言が浴びせられる。
“オまえタチは……。八神ニ味方すルノか!”
「八神一族のやり方は良くなかったんだろうよ。だがな、コイツらがいなければ、あんたも神サンと会うこと、できなかったんじゃないのかよ?」
“知った口を! 心矢の決心ガもっと堅けレば、あの方も最後ノ力を残してオけたのダ”
 白い獣が四肢を踏み鳴らすと、走る踵の寸前まで凍りついた。裂かんばかりの叫びは、突風を呼んで家屋を崩壊させる。

「サソウ様! しっかりなさいませ」
 軽く揺さぶられて視界を取り戻す。狢菊の心配そうな月色の目が、繰り返し瞬いていた。
 どうやら落下物で頭をぶつけて気を失っていたようだ。
 起き上がり、彼女の両膝の上へ頭をのせていたのにようやく気が付いた。
「すみません。……膝をお借りしてしまって」
 体のあちこちを打撲しているものの、大きな怪我はなかった。袖のボタンがちぎれてベストも台無しだったが、気にしている場合ではない。
「八伏神社のミツカイ様が、心矢様を追って境内に……。アコ様と心矢様が再びあの災厄の日まで戻ることになれば、すべてが“月影”へ呑まれてしまいます」
「心矢くんは、もう一度、扉を閉じようとしているのですね」
「いつの日か“月影”と“宵待”は隔たりを無くすでしょう。わたくしは信じます。すべてが楔から解放されると。しかし、今ではないのです」
 木々が薙ぎ倒される音と、銀華の怒鳴り声が聞こえてくる。
 ようすからして、ミツカイとの交渉が決裂しているのは明らかだった。

◇◇◇◇◇

 アリスの魔眼で幻覚に惑わされた妖狐は、心矢たちを見失っている。
 石灯籠の陰から覗くと、ミツカイがこちらの気配を探そうとして大きな耳を立てていた。
「どうだ? 巻けそうか?」
「静かにして下さい。いつ破られてもおかしくはないのですから」
 銀華が危機感のない調子で聞いてくるので、アリスは尖った声で制した。
 八神の三人が酒蔵へ行くまでの間、ミツカイを留め置かなければならない。心矢たちは近くの藪まで移動できたようだが、追っ手との距離が近すぎるのだ。
「まあ、あいつの気持ちも分からんでもないけどなぁ。お、そういや封印どうとか言ってた気がするんだが」
「今はそれどころではないでしょう? “月影”の影響が強くなれば、どのみち封印は解かれてしまっていたはずです。とにかく、八神さんたちをここから……」
 ミツカイの邪眼が向けられ、アリスは息を潜めて身を縮める。

 今の状態も長くは保てそうにない。

 不意に肩へ手が置かれる感触が加わり、振り返れば、長身の男が申し訳なさそうな小声で参上を告げた。
「少し、遅れてしまいましたね」
「サソウさん! 何処にいたのですか?」
「ちょっと、狢菊さんと二人で瓦礫の下敷きに」
「…………!?」
「銀華には心矢くんたちの護衛を頼みました」 
 サソウが現れてから、辺りに独特の香りが漂い始め、段々と強くなっていく。
「境内の広範囲にシソ科の植物から抽出したオイルを散布しています。揮発する間、動物の嗅覚を一時鈍らせる効果があり、言わばにおいの煙幕といったところでしょうか」
「効きめはどれぐらいあるんですの?」
 アリスの質問でサソウは両肩を竦めた。
「ミツカイ氏に関してはなんとも言えないですね。でも、五感を使ってサーチしているようなので、多少の効果は期待できると思います」
 白狐は全身を低くして周辺の音に集中しているようだ。
 銀華は八神の三人を連れて旧道の入り口まで来ていたが、ミツカイの目と鼻の先でいるため、うかつに進むことができない。
「ちっ! あいつらが小細工してくれても、ここまで近いと動けねぇ。おい、本当に酒蔵まで行けば、おまえらで始末できんだな?」
「俺は、八神・心矢とアコが水に映った影です。扉を閉ざす錠前として不足はありません」
「あとの二人も、それでいいのかよ?」
「私が“宵待”へ帰還することは二度とないでしょう。すべて心矢に譲りました」
「アコ、難しいこと分からないけど。兄さまやシチセイと会えたから、こっちに来て良かったよ? それに……」
 アコは心矢を見て照れた笑いを浮かべた。
「探しに来てくれてありがとう。でも、もう、いいんだよ。きっと、これでいいんだよ」
 二人の八神・心矢は、アコを“宵待”まで連れ戻そうと互いに接触したのだろう。
 行方不明者は名前のない学者ではなく、十年前のアコだったのだ。
「時間がねぇな。おまえら先行け!」
 “月影”での滞在時間が限られているとサソウから聞いていたため、銀華は強行突破を実行した。

 ミツカイは砂利を踏む足音を耳で拾い、旧道へ走る八神の三人を猛然と追う。アリスの作る幻覚もサソウの駆使した香りも振り切られていた。
 階段手前でいるアコの背中、差し迫る距離まで来た時、小脇から現れた者が悠然と塞がった。
「逃げ隠れは性に合わないんだよな。ケンカすんなら俺が相手してやるぜ?」
“どコまで邪魔をスル気だ?”
「八神滅ぼしてどうすんだ? そんなこと神サン望むワケねぇだろうが?」 
 ミツカイからの返事はなく、人の背丈ほどもある前足が銀華の脇腹を恐ろしい勢いで横殴った。だが、岩を砕くほどの妖狐の怪力は、男の両手で受け止められている。
「あんまり、この力は使いたくなかった。神サンの守護者が相手だし。……疲れるからな」
 眼前、全身から青白い妖火が燃え、相手を殺めてでも押し通ろうと力が溜められていたが、ふと、急速に戦意が失われる。見れば瑠璃小灰蝶が舞っていた。
 やがて蝶は数を増やし紫陽花のごとく集まると、内側から白い手がいでて、ミツカイの鼻筋を撫でた。
“……静まれ……。嘆くことはない”
“…………”
“八神はすでに罰を受けている。あの三人は、願おうとも、同じ世界で生きること叶わぬのだ”
 靄が溶ける様で声が四散した後、紫陽花が一房落ちていた。ミツカイは傷つけぬよう花をくわえ、すべてにゆっくり背を向ける。
 学者と心矢とアコは旧道の最後の段をおりると、七星稲荷神社から離れていった。

“あワよくば、八神一族ヲ亡きもノニしてくレるかと見物しテイたが……不甲斐ナい。はぁ。離れまで潰さレ、こちらハ損ばかり。せつナいこトヨ”
 神狐シチセイは鳥居の上で腰掛け、畦道を行く心矢たちを見送っている。
「自分の縄張りで大暴れしてるってのに出てこなかったのは、そういった腹積もりだったのか」
“ソれもあルが。最後ニひとめ会えルやも……いや、言うまイよ。それよりニンゲンどモよ”
 石灯籠の後ろから出てきたアリスとサソウを、神社の主神は片頬で冷ら笑った。
“希ニこちらノ水と合う者ガいるよウダが、あの、アコでさえ変容しテしまッタこの月影デ、よクぞ、己の姿を保っタナ。それニ免じて帰還ヲ許そう”
 シチセイの背後へ銀灰色の九尾が屏風みたく広げられ、銀華、アリス、サソウの足元には冷泉が湧き出てくる。言葉を繋ぐより早く、水は三人を巻き込む形で覆い被さり、底知れぬ暗き場所までさらっていった。

◇◇◇◇◇

 何処へ向かえばいいのか……。
 水中で掻いたがとても冷たく、指先が痺れてくるほどだ。他の二人も見失ってしまった。
 上下が判別できない闇黒の中、そろそろ息も続かなくなってくる。
 泡の行方を探そうとした頭上へ、光る大きな魚の影。
 正体は一艘の小舟で、そこから何者かの手が伸ばされていた。
 ようやく重い水を蹴って辿り着き、呼吸を取り戻した先で待っていたのは……。

「……あんた、誰だ……?」

 小さく波立つ黒き水の上、舟には細身の女一人だけが乗っていた。
 彼女の背景、広がる夜空へ貴石をばらまいたかの星が輝いている。
 舳(へさき)に置かれた燭架(しょっか)の灯りが蛍火の儚さで点っていた。
“銀華よ。我の顔を見るのは初めてか。だがな、おまえの見えている姿もまた、幻のようなもの”
 手渡された大判の手拭いは仄かな温もりと、柏葉紫陽花の香りがする。銀華は髪を拭いてた手を止めた。
「なんだ。八伏の神サンか」
“八神一族はある巫女の解放を条件とし、神を八つに分けて番人とした。我は神であって神にあらず。また、信仰も移り変わるもの。神社はミツカイとシチセイに任せよう”
「慈しむ神も縊(くび)る神も、世には必要だ」
 紫の目を持った女は、青柳笛の声で笑った。
「ありがとう。いつか、“汀”(みぎわ)で会おうぞ」

◇◇◇◇◇

 閉じた瞼を開けば、八神酒造の前で立っていた。
 埃っぽかった商店街も、打ち水の所為か輪郭を取り戻している。
「ずっと店の前にいらっしゃいますが、暑くないですか? よろしかったら中へどうぞ」
 声をかけてきたのは八神・心矢だった。手にバケツと柄杓を持って、水をまいていたようだ。
「……おまえ!」
「ええと、申し訳ございません。どちら様でしたか?」
「…………」
「お祭りの見物に来られたのですか? 八伏神社の紫陽花も有名になりましたから」
 “宵待”と“月影”から錠前がかかり、世界は少しだけ形を変えたようだ。
 彼は、まったく覚えていないのだろう。

 八伏神社には、枯れない紫陽花が咲き誇っている。宵待の人々が時折見かけた白狐は、いつの間にか、姿を消してしまったらしい。
「ここの蔵、利き酒させてくれんだろ? 幾つか出してもらおうか」
「ええ、どうぞ。お入りください」
 暖簾(のれん)の後ろへ銀華と心矢の背中が吸い込まれると、晴れた空遠く稲妻が走った。

『いつか、“汀”(みぎわ)で会おうぞ』

 暗き水の腕に“宵待”が抱かれる時、また、会えるのかもしれない。



=紫陽花祭・第三話・了=




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■登場人物■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

◆PC
7348 石神・アリス(いしがみ・ありす) 女性 15 学生(裏社会の商人)
8473 阿倍野・サソウ(あべの・さそう) 男性 29 調香師(パフューマー)
8474 橘・銀華 (たちばな・ぎんか)  男性 28 用心棒兼フリーター
☆NPC
NPC5248 八伏(はちぶせ) 両性 888 八伏神社の主神
NPC5249 ミツカイ(みつかい) 両性 777 八伏の眷族
NPC5253 八神・心也(やがみ・しんや) 男性 20 大学生
NPC5267 狢菊(むじなぎく) 女性 647 妖人
NPC5361 シチセイ(しちせい) 男性 779 七星稲荷神社の主神
NPC5362 アコ(あこ) 女性 12 中学生

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■ライター通信■
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橘・銀華様

お待たせいたしました。ライターの小鳩です。
まずは、最後までお付き合いいただき、心より御礼申し上げます!

◆紫陽花祭◆第三話へご参加いただき誠にありがとうございます。
八神一族に関わるルートでのエンディングはいかがでしたか?
また、パートナーとして八伏を選んでいただいたので、
終盤は八伏(?)が銀華様を助けに行きました。
※(後半一部だけ各PC様によってお話が変わっています。)
謎の一部は残りましたが、ひとまず【紫陽花祭】これにて完結でございます。

◇紫陽花祭◇第四話は番外編。参加は自由です。
ふたたびご縁が結ばれ、お会いできれば幸いです。