コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


甘い毒





局内の照明が全て落ちたはずなのに、彼の目にはくっきりと琴美が見えていた。
清楚な顔立ちながら色香が滲み出るその姿に、男としては興奮せずにいられない。

「ふふっ、いいなあ」

豊かな胸を強調するように帯で締めた腰は細く、太腿から足の先まで見事な曲線を描いている。
美しい女だ。実験以外にも充分に楽しめるだろう。
男は手元のキーボードを軽快に叩く。
コントロールルームから制御を取り戻すと、まずは自室の灯りを点ける。
二十はあるだろうモニタも光を取り戻し、緑色の文字が滝のように流れていく。

「クセのある奴を配置していたつもりだけど、甘かったかな?」

異常な早さで、しかも踊るようにキーボードを叩きながら、彼はくすくすと笑っていた。
局内にどれだけ死体が転がろうが、焦る必要などまるでないからだ。
これまでに琴美レベルの侵入者がいなかったわけではないが、
結局は全員殺してきたのだという余裕がある。


「所詮は女だしねぇ」




   ◆      ◆      ◆




一方の琴美は所内が明るくなったことに、わずかに驚いていた。
襲い掛かってきた男から長針を引き抜き、静かに周囲の気配を探る。
壁の向こうにいる警備隊員以外の誰かが、自分を見ていたはずだ。視線を感じた。
元々コントロールルームを陥落した程度で、全ての電気系統が攻略出来るとは思っていなかったが、復旧が早すぎる。

「見くびっていましたかしら」

遺体を放置し、琴美はさらに奥へと進んだ。
既に十人以上を手にかけているというのに、返り血ひとつ浴びていない。
目指すは三局のコアルームに保管された、生物兵器。
その正体を把握しきれているわけではないが、大方の予想は付いている。
『奴』が表に出る前に処分しなければならない。


「ガアアアアアアアアアアアッ!」


獣のような咆哮を上げながら男が飛び込んできたが、完全に気配を読んでいたのでさらりと避ける。
まるで全身が墨で出来ているような黒い男だった。開いた口の赤さがひときわ目立って禍々しい。
けれども琴美は慌てた様子も無く、すっと脚に留めていたクナイを構える。
そのまま男の腕を切り落とそうとしたが、逆に弾き返された。

「まあ」

男はにたりと笑い、研ぎ澄まされた爪を向けた。
どうやら身体そのものが武器らしい。

「鉄の皮膚を持つ方までいらっしゃるとは…」

振り回される爪を避けながら、琴美は呑気にもさてどうしようかと考える。
大男のように目を貫いてやろうか。しかし二度も同じ手を使うとは―――芸が無い。
胸元を探って取り出したのは、一つの紙包みだった。
ぱらりと開いて現れた粉に向かい、赤い唇でふうと吐息をかける。
粉は霧のように舞い上がった。男は咄嗟に身を引かせていたが、遅かった。
ぐらりと倒れ込み、打ち上げられた魚のように喘ぎだす。

「あが…ぐぁ…!」
「苦しいですか?」

ふくよかな唇に笑みを湛えながら尋ねると、男は憎悪の籠った目で琴美を見据える。
喉を掻きむしるが、鉄の皮膚を持つ男がそうそう簡単に血を流すはずはなく、
刃物を擦り合わせるような不快な音が鳴り響いた。

やがて男がぴくぴくと体を痙攣させるだけになってしまうと、
琴美はしゃがみ込み、じっと男の目を見つめた。
もう瞳には怒りも苦しみもなく、焦点も定まらずにぼんやりと宙を眺めている。

「あなたはコアルームに入ったことがありますか?」

こくり、と男が頷いた。

「この肌も、そこで?」

再び頷く。
既に琴美の声しか聞こえなくなった男は、どんな質問にも淡々と答えるだけだった。

「コアルームに『人間』はいないのですか?」
「イない…ヒトはナい…手ダけがアる」
「手?」
「悪魔ノ手…」

そこまで呟くと、男は自分の身体を抱いて震えだした。
撒いた薬のせいではない、己の記憶から蘇る恐怖に怯えているようだった。
ある意味彼もこの研究所の被験者であり、犠牲者だといえるだろう。
まっとうな人間とは思えぬ身体に作り替えられ、ゆっくりと意識を洗脳され、ただの戦う駒にしかなっていないのだから。

「話してご覧なさい。あなたに何があったのです?」

ぽつり、ぽつりと男は語る。
彼は知らぬ誰かに連れられて、研究所へやって来た。
科学者たちはお前こそ『新しい人』になれると、目を輝かせて言っていた。
興味など湧かなかったが、自分などどうなっても構わないと考えていたから、
薬品の投与や度々繰り返される手術、数々の実験を淡々とこなした。

人を殺してみろと言われた時も迷わなかった。
最初は左右の腕の皮膚が黒くなったときだ。子どもを殺した。
叩くだけで子どもは吹き飛び転がって、動かなくなった。
足が黒くなったときは女が差し出され、腹を蹴ってやると体が折れた。
全身が黒くなったときは男が相手だった。これまでと違い、殺されまいと必死に刃向って、暴れて、逃げて、銃を撃ってきた―――。
血を流して倒れたのは自分だった。闇に紛れるほど肌は黒くなり、人を千切れるほどの力を与えられ、
すでに人間とは程遠いと思っていたが、俺は血を流す人間だったのかと安堵した。

だがここからが悪夢だった。
科学者は「おかしい」と言ったのだ。
気を失った男をコアルームに運び、徹底的に解剖した。
意識を取り戻した男は、すぐに状況を理解することができなかった。
鏡のような天井に、自分自身の脈打つ心臓が見える。頭、背中、腕と足にはパイプが張り巡らされ、
当然動くことはできない。助けてくれてと絶叫したが、声になっていたかどうか。
ガラスの向こうから科学者たちが自分を眺める。どうしてたかが銃弾で“穴が開いた”のかと、
物を見る目で、心底不思議そうに首を傾げている…。

「やめテくれ…!イやだ!いヤだ!いやだああああああ!!」

何度頭を床に打ち付けても、彼はかすり傷ひとつ付くことがない。
割れるのは床石ばかりだ。
琴美はそっと男の顎を持ち上げる。目が合った男の瞳は、温かみのある明るい茶色になっていた。
互いに口を開こうとした時、トン、と軽い音が二人の耳に入る。
男の背に、ダーツの矢が刺さっていた。

「うそだ…」

男は信じられないようだった。琴美のクナイを通さぬ肌に、これほど小さな矢が刺さるのだろうか。
琴美も目を見張ったが、考え込む間もなく男の口から血が溢れた。
矢が刺さった部分がシュウシュウと音を立てながら爛れていく。
激痛に呻きながら琴美にしがみ付こうとしたが、防ぐようにトン、トンと両の腕にも矢が穿たれる。
肉が焦げる嫌な臭いが立ち込めた。


「僕のお客さんだよ、触らないで」


小柄ながら端正な顔立ちの青年だった。白衣を纏い、片方の手はポケットに入れている。
ああ、彼か、と琴美は悟った。
青みがかった灰色の目は、ねっとりと琴美の身体を舐め回している。

「カメラでご覧になっていた方ですね」
「へえ、気づいてたんだ。すごいねぇ。僕はここを管理する人間の一人でね。
 これ以上君を奥にやるのも、検体を壊されるのも嫌なんだよ。
 だからね、大人しく僕のものになりな?」

ポケットから取り出した小型の銃から、立て続けに弾が放たれる。
確実に避けたはずなのに、琴美のスカートがぱらりと裂けた。青年は自慢げに笑った。

「すごいでしょ、これ僕が作ったんだ。弾自体は大したものじゃないけど、
 うまく空気を巻き込んで、小さな鎌鼬を撒き散らす。手の平で破裂させれば手首くらいは落とせるよ」
「悪趣味ですこと」

艶のある視線を投げながら、琴美は銀線を放った。
はじける前に弾丸を切り落とせば鎌鼬は発生しないようだが、青年は間髪入れずに撃ち続ける。
傷こそ負わないでいたものの、琴美の衣服は徐々に切り開かれていった。
白い左肩が露わになり、肉感的な太腿や足の付け根が見え隠れする。

「どうせ君は女なんだから、さっさと諦めたら?」

一気に間合いを詰めた琴美の手刀が真っ直ぐに青年の首を狙う。
気絶させるための生易しいものではなく、喉を掻っ切るほどの勢いだった。
けれど男性は銃に頼るだけの人物ではないらしい。
あっという間に琴美の手を掴んで捻り上げ、軽く組み伏せてしまう。
武術の達人と称するに相応しい力の使い方だった。

美しい肢体の所々を露わにした琴美を見下ろすと、青年は余裕の笑みを浮かべた。
欲情するには十分な光景だったし、手も足も動きを封じている。
首筋から胸元を撫で、ぐっと顔を近づける。
ここまで侵入する女が丸腰でいるはずはないのだから、
まずは引ん剥いてやるかと襟に手を差し込んだ時、琴美の足が誘うように男を捕えた。
赤い唇もついと寄せられる。甘い香りが鼻をくすぐる。
青年は琴美が屈したのだと、目的は何であれ身を委ねたのだと考えたが、実際は違った。

つぷり、と皮を貫く音がする。

まるで琴美が男の首筋に口付けているように見えるが、彼女の唇には画鋲のような短い針が乗っていた。

「なっ…」

青年は慌てて飛び退いたが遅かった。
がくりと膝をつき、唇を青くする。鉄の肌の男に与えたものとは異なる、毒物―――。


「結局はただの男でしたわね」


針を吐き捨て、乱れた髪をまとめ上げると、琴美はクスクスと笑った。