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<東京怪談ノベル(シングル)>


ロザリオの輝きは錆び始める―2

 月明かりに照らされた廃墟とふたつの人影が、景色の中で輪郭を際立たせている。夜風に森の葉がざわめき、白鳥瑞科の艶やかな亜麻色の髪も靡く。構えた剣先をターゲットの巨漢――鬼鮫に向け、瑞科は涼やかに提言した。
「降伏なさるなら今のうちですわよ、鬼鮫さん。わたくしとしましても、無駄な体力は使いたくありませんので」
「笑止」
 淡々と簡潔に拒絶の言葉を吐き捨て、鬼鮫も悠然と拳を構えた。得意の我流剣術は封印するということか。瑞科は眉を顰めた。女だからと甘く見られているのかもしれない。
「そうですか、残念ですわ。――では、遠慮なく参りますわよ!」
 言い終えるのとほぼ同時に地を蹴って駆ける。ざり、と靴底に摩擦された砂が鳴いた。
 牽制として投擲したナイフは、屈強な拳に難なく弾かれる。けれど、それは想定内だ。この程度の攻撃をかわせないような軟弱者ではないのだから。
 間合いに入った瞬間に振り下ろされる豪腕をサイドステップで回避し、剣の刀身に魔力で生成した蒼白い電流を纏わせる。すれ違いざまに脇腹に斬撃を浴びせ、鬼鮫の身体は高圧電撃の餌食となった。断続的な悲鳴が止まぬうちに瑞科は背後に回り込み、腰から肩口までの対角線に刃を一閃。薄闇の中で黒く見える血液が、瑞科の戦闘用修道服を汚す。
 ――いける。
 瑞科は、勝利を確信した。
「はあッ!」
 ぐらりと傾いた逞しい背中に重力弾をぶつける。地面に吸い寄せられるかのようにうつ伏せにめり込む、鬼鮫の体躯。その心臓部に、瑞科は躊躇なく剣を突き立てた。
 巨体から力が抜け、彼が意識を失ったのを確認してから小さく吐息し、剣を抜く。刀身に付着した血液を振り払う。
 何と呆気ない。武装審問官を大量に殺害した危険人物とは到底思えない実力だ。ジーンキャリアであろうと所詮は人間、自分の敵ではなかったということだろうか。数多の任務を完璧にこなしてきた瑞科にとって、失敗の二文字は最初から脳内にはなかったのだが。
 何にせよ、これで『教会』に害を為す脅威は消えた。黒い空に浮かぶ月を見上げ、瑞科は胸の前で十字を切って神への感謝を捧げた。
「主よ、あなたのご加護に感謝致します」
 真の聖なる武装審問官には、悪への敗北などあってはならない。鬼鮫の犠牲となった同胞たちも、これで浮かばれることだろう。ほっと安堵の息をつく。
 司令に結果を報告しようと剣を鞘に収め、本部への帰路を歩み始めた、そのとき。

 ガッ。

 太い指が、編み上げのブーツに包まれた瑞科のしなやかな足首を掴んだ。
「っ!」
 ――そんな、馬鹿な。
 青い双眸が驚愕に見開かれる。確かに息の根を止めたはずの鬼鮫の手が、瑞科を逃がすまいと捕らえていた。
 反撃する暇も与えられず、そのまま地面に引き倒される。立ち上がった彼の軍靴が、瑞科の腹部を容赦なく蹴り抜いた。
「がはッ……!」
 蹴られた反動でボールのように無様に地面を転がる。咳き込んだ拍子に吐血し、それは土に染み込んでいく。あまりにも強烈な一撃だった。視界が生理的な涙でぼやけ、眩暈がする。骨だけでなく、内臓ごと負傷したかもしれない。
 瑞科が手放した剣も、鬼鮫は邪魔だと言わんばかりに蹴り飛ばし、ゆっくりと歩み寄る。常人ならば高圧電流で失神するはずだが、脇腹や背中に受けた斬撃をも忘れたかのように、彼は堂々と立ち振る舞っている。否、そもそも自分は最初から傷などひとつも負っていないのだとでも言いたげに。
 一体どういうことなのか、瑞科には理解できない。『教会』の情報網はいつも正確で、任務でもさほど苦労した経験はないのに。ターゲットの能力を調べ切れていないことなどあるのだろうか。
 激痛をこらえつつ、必死に立ち上がる。よろめく身体を、足に力を入れて支えた。剣がなくとも、近接格闘術と魔法がある――そう己に言い聞かせる。
 精神集中し、魔力の流れを両の掌に収束させる。盾のように形成した蒼白い円形の魔法陣から、バチバチと稲光が発生する。
「今度こそ、終わりにしますわ!」
 凛とした宣言が夜の冷気を震わせる。放たれた無数の電撃が鬼鮫に襲いかかる。何発かが命中し、肉の焦げる臭いが漂う。けれど、鬼鮫は眉ひとつ動かさない。彼の纏うトレンチコートはところどころ破れてはいるが、刻まれているはずの傷口は何故かすべて塞がっていた。
 ――まさか、再生能力!?
 瑞科は、読んだ資料の内容を思い出した。鬼鮫はジーンキャリア。何らかの実験で特殊体質に改造されていても不思議ではない。
 悔しげに歯噛みして連続発射した重力弾も、ナイフと同様に軽々と回避される。懐に入り込まれて咄嗟に跳び退ろうとするが、彼の重い拳が迅速に腹部に叩きつけられた。瑞科の肉感的な唇から、声にならない喘ぎが漏れる。
「――ッ!」
「こんなものか」
 呟いた鬼鮫は、そのまま瑞科の身体を易々と放り投げた。背中が樹の幹にしたたかに打ちつけられ、衝撃で息が詰まる。ずるりと力なく地に沈む肢体。清楚な美貌と豊満な肉体は、傷付くことで鬼鮫の嗜虐心をいっそう刺激していく。月光のもとに晒された素肌は透きとおるように白く、異性ならば見惚れるほど扇情的だった。
 呼吸を整えているところに、鬼鮫の獣じみた凶暴な片手が瑞科のしなやかな首をつかみ、強引に樹に押しつけて引きずり立たせた。
「く、ぁ……っ!」
「おまえの同胞どもは、束とはいえそれなりに手応えがあった。こんなものではないだろう」
 黒いサングラス越しの冷徹な視線に、苦悶に顔を歪ませながら瑞科は屈辱を味わわされる。
 ――このわたくしが、これほどまでに追い詰められるなんて……!
 ありえない。いっそ悪夢なのではないかとさえ思う。けれど、感じる苦痛や悔恨も、紛れもない現実だ。
 口許に酷薄な笑みを刻み、鬼鮫は冷ややかに瑞科を挑発した。

「さあ……もっと、俺を愉しませろ」