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その場所を求めて
「仁科さん、あたし、答えを確かめにいきます!」
僅かながら傾いた日が差す古書肆淡雪店内に、決意の籠もった声が響く。
声の主、海原・みなも(うなばら・みなも)は両手をぎゅっと握りしめ、目前に佇む書店の主を見やっていた。
(「あの時、あたしが「ブラックドッグ」に成った時、“あたし”はどこに行こうとしていたのかな……」)
みなもは過去の出来事を思い出す。
ブラックドッグに関する本を開き、読み進める間に起こった変異を。
あの時の飢餓感を抑え、あの感覚だけを思い出す事ができれば、恐らく答えにたどり着く。
だが、もしもあの感覚を思い起こす合間に、同様の変異が起こったならば。
そんな彼女の内心を知ったかのように雪久は問う。
「怖くない?」
「……怖い、です」
俯きながらみなもは答える。
それでも、彼女は真実に至りたかったのだろう。
だからこその決意であり、だからこその発言でもあった。
彼女は視線を目前の雪久へと戻す。
「怖いけれど……でも、今回はあたし1人じゃないですし、きっと、答えにたどり着けるって、信じています」
信頼を込めた視線に雪久は少しだけ小さく笑う。
「そこまで覚悟が出来ているならば、私も止めはしないよ。ただ……」
「ただ?」
「私は能力的には普通の人間と相違ないからね。あまり役には立てないような気がするよ?」
いつも通り、のほほんとした調子の雪久だが、これでも彼は以前ブラックドッグ化しかけたみなもをこちら側へと引き戻した。
少なくとも彼が手伝ってくれるのならば、恐怖に潰れる事だけは無いだろう。
気丈にみなもは笑んでみせる。
「仁科さんが一緒なら、大丈夫だって信じてますから」
彼女の答えに雪久は苦笑を浮かべつつも軽く頭をかき立ち上がる。
「……そこまで買ってもらえたならば、私も出来る限りの事はしようか」
――少しでも、みなもの力となる為に。
暫しして雪久は自室から小瓶を持って戻ってきた。
彼曰く「ブラックドッグ化の為の準備」という事らしい。
トン、とテーブルに置かれたそれを、みなもは横からじっと覗き込む。瓶は色つきの為中は良く見えない。ただ、何らかの液体が入っているのは確かだ。
「なんですか? これ」
「アロマオイルだよ。あまり力が入りすぎてもうまく行かない事もあるし、多少リラックス出来たらと思ってね」
書店で炊くのはどうかと思わなくもないけれど、人を救う為ならば、本達も許してくれるだろうさ、と雪久はアロマポットを用意。ラベンダーの香りが漂う。
「じゃあ、始めようか。こころの準備はいいかな?」
「は、はい……」
ぎゅっと手を握り緊張の面持ちのみなもへと雪久は「そこまでガチガチにならなくても」と笑む。
「あの時の事を思いだして」
雪久の声にみなもは目を閉じる。
記憶をたぐり、心の底に潜むブラックドッグの姿を探る。
次第に変異していく己の姿を思いだすと、恐ろしさに身が震える。
そして彼女は視た。深層でこちらに牙を剥くブラックドッグの姿を。紅の目がぎらりと輝き、みなもを見据える。
みなもの身体を乗っ取ろうとばかりに黒犬は吠える。
「……っ!」
恐怖に息を呑むみなも。その様子に雪久も止めるべきかと悩む。
……もしもここで無理をさせてその後にも残る心の傷が出来てしまったら、彼女の今後の為にも良くは無いだろう。
そう躊躇った一瞬のうちの事だった。
みなもの腕に黒い毛が生え、彼女の頭上に犬耳が現れたのは。
少女の姿は次第に獣へと変わっていく。四肢が変形し、白い肌の上に黒の剛毛が生え始める。骨格も変わりはじめ、このままでは彼女は完全にブラックドッグになってしまうだろう。
「みなもさん!」
雪久は慌ててみなもの手を握った。
躊躇った己を呪いつつ。
……だが。
「大丈夫、です……」
みなもが僅かに目をあけ、かすれ気味の声で答える。
「あたしは、もう負けませんから」
暴走しかけた術式を押さえ込む為に彼女は堪える。半端に獣と化した彼女の身体には、悪魔を思わせる翼や、ドラゴンを思わせる鱗等、様々なパーツが現出している。
術式の暴走は、彼女の深層に印されていた様々な記憶を再現し、彼女を再構築しようとしていた。
今までのみなもとは別質の存在へと。
もしも何も知らない人間が今の彼女を見たならば、恐ろしさに失神したに違い無い。
それほどまでに恐ろしい姿へと変わりかけていた。
元々彼女は人魚の末裔。そもそもが人間とも人魚ともつかない。強いて言えば半妖とでも言う所だろうか? そういった存在だ。
更にそこに様々な変異の経験が書き込まれ、変異しやすくなっている。彼女自身の優しすぎる部分も要因の一つだったかもしれない。
他の存在につけ込まれやすく、同調しやすい脆い精神。
まだ年端もいかない少女である彼女の自我は、まだまだ未熟なものだったのだ。
「みなもさん、戻っておいで」
雪久がみなもの手を握ったままそう語りかけるも、彼女は首を振った。
「まだ、大丈夫です」
「しかし……!」
雪久の抗議を聞くこと無く、彼女は再び己の深層へと潜り続ける。
それは危険な行為だった。
雪久から見たならば、無謀極まりないと言ってもいい。
みなもの心は未熟。迂闊な事をすれば壊れて仕舞いかねない。
――だが逆を言えば、未熟さとは可能性も意味している。
雪久に出来る事は、ただ彼女の手を握り帰還を待ち続ける事のみ。
みなもは自身の深淵へと向かい合う。
そこはあの「本」に描かれていたイメージの為か、どこまでも深い水底だった。
時折深奥からは泡が湧きたち、意識の表層へむけて浮き上がっていく。上方は明るく光が差し込み、時折水面が揺らめいているのが解る。
水中にも関わらず、ブラックドッグは悠然と泳いでいた。
敵意を丸出しに襲いかかってくるブラックドッグを、みなもは回避する。
人魚の末裔である以上、水の中ならばみなもの独壇場……のはずだったのだが……。
(「なんで? 上手く動けない……!?」)
意識という名の水中での動きづらさに、彼女は驚かずに居られない。驚きと焦り為か、水温は下がり、周囲は更に暗くなっていく。
『みなもさん、落ち着いて』
混乱するみなもの耳に雪久の声が聞えた。雪久は今もみなもの手を握り、帰りを待っているだろう。
(「そうだ。あたしは1人じゃない……!」)
僅かに手に温もりを感じ、みなもは動揺を押さえ込む。それと同時に水中の明るさも増したように思えた。
『怯えないで。そこは君の世界。だからこわい事は何もない』
更に続けられた雪久の声に、みなもは落ち着きを取り戻す。
目前のブラックドッグを彼女は見据える。
恐らく、このブラックドッグも、居場所が無くてみなもを乗っ取ろうとしているのだ。
ならば、せめて居場所を作ってやれば良いのではないだろうか。
実体を持たせる事は出来ずとも、その渇望を別の方法で満たしてやればいい。
『君のやりたいようにやるといい。困ったらラベンダーの香りを辿って戻っておいで』
「解りました」
みなもは声に出し雪久へと答え、黒の獣を見据える。
(「ここはあたしの場所。だから、絶対負けない……!」)
牙を剥いていたブラックドッグは彼女の凜とした雰囲気に圧されたのだろう。
耳を伏せ、尻尾も丸めた状態で、それでも懸命に彼女へと抗おうとしている。
今のみなもにはブラックドッグは、ひたすら他者に噛みつこうとする狂犬ではなく、怯えた子犬のようにすら見えた。
「……怖くないよ。あなたはあたしと一緒にこれから暮らすの」
みなもがブラックドッグへと無防備に手を伸ばす。
本来ならば、黒犬の鋭い牙により、彼女の白い腕は切り裂かれ、朱に彩られた事だろう。
おそるおそる、ブラックドッグは彼女へと近づく。
この場がみなもに統べられた為か、酷く動きづらそうに。
そのままブラックドッグを完全に取り込んでしまう事も可能だろう。だが彼女はそうはしなかった。
「……怖くないよ」
もう一度言い、彼女はラベンダーの香りへと意識を向ける。
どこまでも深い海底は、彼女の意識に従い姿を変える。
地平線まで続くラベンダー畑へと。
地面に足をつけたブラックドッグは少し落ち着いた様子を見せる。
「これで大丈夫」
みなもがにこりと微笑むと、黒犬もそれを察したかのように彼女の手をぺろりと舐めた。
ラベンダーの香りを伝い、みなもは意識を取り戻す。
目を開けた瞬間、視界に入ってきたのは心配そうな雪久の顔。
「無事戻りました」
にっこりと微笑むと、雪久は安堵のあまり力が抜けた様子で笑い返す。
「よかった……」
胸をなで下ろし、そして彼は問いかける。
「それで、首尾は?」
「ブラックドッグにも協力して貰える事になりました」
「協力……?」
笑顔のみなもに雪久は半ば信じがたいと言った様子で問いかける。
相手は無理矢理みなもの肉体を乗っ取り実体化しようとした存在。それも、知性を持っているかは怪しい獣だ。いっそ取り込んで配下にしてしまう、というなら解る。
だが協力とは?
「はい。取り込んでしまう事も出来たんですけれど、対等な条件を出したら解ってくれました」
笑顔でみなもは自身の意識の底で起こった出来事を話す。
「……よくやったね。まず大人ならそんな事は出来ないと思うよ。それとも君自身の水妖としての特性によるものか……」
「そうなんですか?」
首を傾げるみなも。水妖としての特性というのは、なんとなく解る。
水は様々なものを溶かしこむ事が出来る。みなも自身の特性が「水」に近いものであるように、協力さえあれば異なる存在も取り込む事が出来る訳だ。
現に今みなもの中にはブラックドッグが同居している。
「大人になると色々凝り固まってしまって、そんなに柔軟な対応はしづらい事が多くてね。正直無茶をするとは思ったけれど……よく頑張ったね」
雪久の言葉は少しこそばゆいものを感じつつ、みなもははにかみながら礼を告げる。
「それで、答えは分かったかな?」
更に続けられた言葉にみなもは背筋を伸ばし真剣な表情でこくりと頷いた。
「はい……ブラックドッグ達の『森』は、ラベンダーの咲く庭です」
みなもがブラックドッグと共有したイメージの中には、どこかの山奥深くに隠された研究所が視えた。
そこにあるラベンダーの咲く庭。そこで彼らは「書かれた」らしい。
研究所の場所も今のみなもには解る。
ブラックドッグを解放する為にも、そこに行って真実を見極めたい。
もしかしたらこのはやる気持ちは、半分くらいは彼女の中に同居するブラックドッグのものかも知れない。
だがみなも自身も、真相を知りたいと思っている。
押さえ込んでいるつもりでもそんな思いは零れていたのだろう。
「行っておいで。あまりサポートは出来ないかも知れないけれど、今の君なら為せば成るさ」
雪久はみなもを少しだけ眩しそうに見つめそう告げる。
不可能かもしれないという予想を大きく裏切り、希望へとつなげる事に成功したみなもを。
「はい!」
雪久の言葉に力強くみなもは答えると、古書店をぱたぱたと駆け出し後にする。
答えは出た。あとは、真相に至るのみ――。
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