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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜は廻る

 世間は非情である。若きはもてはやされ、老いしは虐げられる。太一自身は年よりも幾分か若く見えるたちではあったが、それでも職場の女子職員に嫌な顔をされるのが増えてきていた。そして今回の仕打ちが重なり、太一の精神的疲労は一気に天井を突き破った。
 リストラである。
 新卒であった時代は遥か遠く、失業保険には限りがある。仕事仕事と社に貢献し、中間管理職という厄介な役職を担っていたというのに、無情な判断に晒されたものだ。これからどう過ごせばいいのかと、太一は深く溜め息をついた。
 この疲労を癒すには、眠りが必要だった。なんせ家には他に癒してくれるものがない。ペットも飼っておらず、妻もいない。それゆえ、深い深い眠りが必要だった。太一は医師に処方された睡眠薬を手に乗るだけ乗せて水で流し込むと、ベッドに潜り込んで目を閉じた。
 眠りはすぐにその手を伸ばしてきた。求めていた癒し。だがその姿が、ギリシャ神話で睡魔の兄弟とされる存在に似ているのは気のせいだったろうか。
 ――その直後、あるいはそう錯覚するような時間の後、太一は誰かの声を聞いた。睡眠薬が効いているのか、目が開けられない。真っ暗闇だ。
「名はなんと?」
 男とも女ともつかぬ声と喋り方だ。それとも、男とも女とも分からないから、こんな風に聞こえるのだろうか。恐らくこれは夢であろう。
「松本太一です」
「ほう、太一か。なあお前、そんなに疲れているなら私が解放してやろうか?」
「解放? どうやって」
「私は悪魔なのだよ。悪魔……ふむ、そう言うのが分かりやすかろう? 願いを叶える存在だ」
 やはり夢らしい。でなければ、なんと非現実的で都合のいい展開だろう。救ってくれるなら悪魔だろうとなんだろうと構いはしない。
 そのうえどうも、この悪魔というのは女悪魔のようだ。ますます都合がいい。どうせ夢に出てくるなら、いかつい男より女の方がいい。
 そう思った途端、悪魔の声も喋り方も女のようになった。
「お前の願いを叶えるには、二つの選択肢があるわ。一つにお前の存在を私に渡す。一つに我が力で魔女となる」
 夢とはいえ、万事が万事上手くいきはしないらしい。
 太一は溜め息をついた。
「私、男なんです」
 一瞬沈黙が流れた。悪魔は困ったように唸ると、仕方なさそうに沈痛な声を発した。
「問題ない。私がお前の中に身を沈めるから」
「沈める? なぜそこまでしてくださるんですか?」
 流石に不信感を抱いた太一に、女悪魔は少しの間口を噤んだ。
 おもむろに口を開いたとき、その声には無念がありありと浮かんでいた。
「私が人だった頃、魔女というのは憧れの存在だった」
 見えもしない悪魔が、ありもしない月に手を翳している姿が浮かぶ。
「見目麗しく、気高く、苦難に打ち勝つ強さを持ち、そのうえ魔法が使える! ティーセットを踊らせるでも、包丁を使わずに料理を作るでも、箒で空を飛ぶでも思いのまま」
 悪魔の指先から力が抜け、ぱたりと落ちる音がした。
 魔法、確かにそれは太一も羨望を掻き立てられる。なんでも好きにできる能力さえあれば、毎晩遅くまで残業をする必要もない。一人の家に帰る必要もない。眠れぬ不安に悩まされもしない。
 悪魔が感情に突き動かされたように吐き出す言葉は、太一のとろけきった脳を揺さぶった。
「羨ましい存在だった。憧れよ。そんなあるとき私は魔王に会った。でもあいつは狡猾だった! 私はやつの口車に乗せられた……愚かだったのね。若くもあった」
 胸の内に後悔と羨望を感じる。悪魔が感じているものを共有しているのではない。太一自身が感じているのだ。
「もしあのとき選べることを知っていたなら! 私はこんな選択はしなかった……ねぇ、太一。私の望みを叶えてくれない?」
 静かな、しかし期待に満ちた声に、太一は一瞬答えるのを躊躇った。リスクが分からない。だが、答えは既に一つしかない。
「分かりました」
「いいの? 私のことを思ってくれるのね!」
「それもあります。でも……私自身の意志もあります。魔女にならせてください」
 そう言った瞬間、太一はなぜか失敗したと思った。言ってはいけないことを言ってしまったと。
 だが言葉を撤回するより先に、悪魔の声が響いた。
「その言葉を聞きたかった」

■□■

 幾度目だろうか、女悪魔に振り回された太一は、深々と溜め息を付きながらスカーフを取った。
「本当に、よくまあ騙してくれましたよね」
 魔女になればなんでも好きにできるなど嘘っぱちで、悪魔になったくだりも嘘。太一を魔女にしたい理由さえ嘘で、本当の理由は「存在を貰うより楽しそうだったから」らしい。唯一の救いは、彼女が常識や肉体限界を超越することが滅多にないということだ。
 だが悪魔は存分に、魔女となった太一を弄び、楽しんでいる。そろそろ朝が巡ってきそうな時間帯では既に叶わぬ願望だが、疲れ切った体を横たえさえすれば眠りにつけそうだった。
 そのうえ、クスクスと笑う声が聞こえる中、脱いだのはキャビンアテンダントの制服だ。まごうことなき女物である。
「お褒めに預かりありがとう。私は悪魔なのよ? 嘘もつくし悪さもする。なんせ生まれついての悪魔だからねぇ」
 そう言って、悪魔は哄笑した。
「知恵の足らないのが悪いのよ。魔女というのは悪魔の使い魔よ。悪魔が魔女の使い魔だとか、魔女と悪魔をまるきり切り離すのは、情報が錯綜した結果」
 そう言って勝ち誇ったように笑う悪魔に、太一は苦笑をこぼした。