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日本の箱の中
ガコッ、とわりと凄い音が鳴った。
その直後、ズーンとか何か、起動していたはずの機械が停止したかのような、嫌な音がした。
というか、その音の後まさしく、四角い箱は停止した。
明らかに稼働するのやめました、みたいな、シーンとした静寂が、唐突に、襲う。
メイリ・アストールは、その体験したことのないような、余りに不自然に訪れた静寂に、本能的な恐怖を感じ、咄嗟に辺りを見回した。状況を把握しなければ、と思っていたのか、あるいは、味方や指導者を求めていたのか、とにかく周りを見渡して、その場に居た二人の男の姿や状況を確認した。
数字の並ぶ操作盤の近くに、眼鏡をかけた長身の男の人が立っていた。
綿製のスリムなパンツをはいて、黒いジャケットを羽織り、両のポケットに手を入れながら、表示階数が表示されていたボードの方をぼんやりと眺めている。
慌てている様子はない。けれど、もしかしたら、茫然自失の状態なのかもしれない。
ただ、まともな人のようには、見えた。
というか、もう一人が余りにまともじゃないので、彼はまともだ、と、すぐにでも判断をしたかったのかも知れない。
何せ残った一人は……。
って何か、乗って来た瞬間からもー絶対おかしいと思っていたけれど、今、この機会に改めて見ても、やっぱりおかしいその男の様子を、メイルは、くるんとした緑色の瞳で、ちらちら、と窺う。
まず、街中で全身ピンク色、というのは、メイリの知っている日本文化を鑑みても、あるいは生まれ育ってきたデンマークでの一般常識を振り返っても、やっぱりおかしいのではないか、という気がする。
しかもピンクは、全然さりげなくないどころか、思い切り自己主張しているショッキングピンクというやつで、ロングコートも、ブーツも手袋も、何やらてかてかとした合皮なのか何なのか、もうその正体すら分からない感じの素材で出来ていて、確かにちょっとポップで可愛らしい感じもするし、良く見れば個性的なデザインで、なるほどこれはありじゃないか、と。
若い女性だったらぎりぎり百歩譲って許そうとも思ったかも知れないけれど、何せ彼は、男の人だ。
しかもそこに居る眼鏡の男とそう歳の変わらない、大人の、多分三十代くらいの男の人だ。
こんな大人の人が、こんな格好を公衆の面前でしてはいけないのではないか、という気がする。
むしろ、こんな大人の男の人が、公衆の面前で、こんな格好を、こんなに平然として、やってはいけないのではないか、という気がする。
というか、何より怖いのは、そんな奇妙な井出達であるというのに、その人がびっくりくらい平然としている事で、あってはならないくらいにマイルドにショッキングピンクを着こなしている、ということで。
とか何か考えてたら、視線を感じたのか何なのか、その人が、ゆらーとメイリを振り返った。
亜麻色のウェーブがかった、だらーんとした長髪の隙間から、切れ長の青い瞳が、じーとか何か、こっちを見ている。良く見れば、彼はちょっとワイルドな、意外と整った顔をしている。顔より下を見なければ、ハリウッドスターのようでもある。いやむしろ、このどしようもないショッキングピンクっぷりは、映画の中にあれば、成立する気もする。
「あれ」
と彼は唐突に、何かに気付いたように、呟いた。見た目のびっくりするようなショッキングっぷりとは違って、どちらかと言えば落ち着いた、従容とした物言いをした。
「え」
と、めっちゃ見られているんだし、これは自分に言われた言葉なのではないかな、とか思ってメイリは、呟いた。
「何これ、この感じ」
と彼は、更に続けた。
そこへ来てもまだ、この人が何を言いたいのかの、全貌は見えない。
ただ、この状況であるのだし、当然その後には、これエレベーター止まってない? であるとか、故障したのかな、であるとか、そういう言葉が続くのだと思った。
けれど。
「これは」
やっぱりメイリをじーっと見つめたまま、男の人は言った。
「これは。この胸のときめきは……ラブ」
って、ちょっと一瞬、エレベーターの中が、シーンとした。
え、今何言ったのこの人、みたいに、眼鏡の人が振り返る。それでも、このエキセントリックに過ぎる状況を目撃したにしては、控え目で落ち着いた対応だった。
「ほら、ラブだよ、ラブ。この世の中は、ラブと夢と希望で出来ているからね」
とか何かまた男の人は言っていたけれど、ほら、と言われても、え、っていうか、は? っていうか、むしろ、全身ショッキングピンクで、停止したエレベーターという、ちょっとした危機を前にして、一体何を言ってるの? って、もー、全然分からなかった。
「え? ラブ……え?」
「うんあの。ほら、私みたいな愛が溢れているとね、君のような可愛らしい少年を見ると、少年少女の愛と夢と希望を守りたい気持ちがむんむんとしてくるというか、ラブと言わずにいられないっていうか。分かるでしょ?」
「あれどうしよう全然分からない」
「うんいや、だからね」
「っていうか、あのさ」
そこで、唐突に、眼鏡の人が、言った。
「とりあえず何でもいいんだけどさ、これ、エレベーター止まってるよね」
「だ」
呟いたメイリは、次の瞬間、バッと勢い良く、振り返る。
「だ、だだ、だすよね!」
とか、もー何か自分が訛ってることにも気づかないくらいの勢いで、その話題に戻してくれてありがとう! やっと、気付いてくれたんだね、ありがとう! とか、乗っかっていった。
のだけれど、彼は、その勢いを、「うん」って、さらっとかわしました。みたいな素っ気なさで流し、「しかも、何か、保守会社への連絡が、つかない。さっきからボタン押してるんだけど、何だろう。返事がない」と、更に恐ろしい事を口にした。
「え」
メイリは愕然とする。
「あと私、さっき結構良い事を言ってたから、何でもいい、なんて流さないでね」
「え」
そして今度は、ピンクの人の言っている意味が理解できず、それは決して日本語がまだ達者ではないから、ということではなくて、この先どんなに日本語が達者になっても理解出来ないに違いない、という意味で理解できず、愕然とする。
「いやだからね。ほら私さっき、結構良い事言ったじゃない。少年少女の愛と夢と希望を守る、とか、ラブとか」
「いやごめんなさい、ちょ……あの、分からない」
「あ、もしかしてまだ日本語が分からないのかな? だからね、えーっと、ラブイズ」
って、しつこく言ってくる彼の姿が、一瞬、許容範囲の限界を若干超えて来たので、「いやもう、ちょ、あの、黙ってて!」とか、わりときつめに、思わず、出た。
そしたら彼は、「あ」ってちょっと、びくっとしたみたいに体を揺らし、「うん……」と意外にも素直にしょんぼりと目を逸らす。
「君が、そう言うなら……黙ってあげても、いいよ」
って、途端に何か凄い悪いことをしたような空気だった。
「いや何か……、俺も……ちょっときつく言いすぎたかも、知れない、ごめんなさい」
思わず可哀想になり、というよりもむしろ、初めての場所、であるとか、慣れてない人、であるとかに対してはわりと出てしまう、長い物に巻かれて事なかれ、みたいな、良い子を演じてしまう所が、本能的な素早さで顔を出した。
それからはっとして、いや何で俺謝ってんだよ、と、次の瞬間には後悔した。
のだけれど、その時にはもー、「うん! いいよ! だって、ラブだもん!」
とか何か、相手はすっかり調子に乗っている。
あれ、今の嘘落ち込みでした? みたいに、みるみると明るい顔つきになり、スキップすらし出しそうな勢いだった。
でも、スキップは困る。
狭い箱の中なのに。
いや、狭い箱の中だから。
わー、どうしよー……。
それで何か左を見たら、凄い白い壁があって、右を見てもやっぱり壁で、当然ながら上を見ても壁だった。
うわー……どーしよー……。
って分かってたつもりだったけれど、やにわに閉じ込められた実感が、強く、沸く。
何でこんな、日本に来て早速、白い箱の中に、全然知らない人と三人、閉じ込められなければならないんだ。とか思うと、何だか凄い切なくなってきた。
ただ、姉貴を追って来ただけなのに。
しかもまだ、会えてもいないのに。
まさかこのまま会えないなんて事はないだろうけど……。
と、そこまで考えた途端、まさか酸素が薄くなってきたりしないよね、とか、凄い嫌な事を思い付いてしまい、気付いたらその予感だけで、若干何かもー心なしか息苦しい。
しかも空調が切れているんじゃあ、とかまた嫌な事を思い付き、その予感だけで今度は、凍死出来そうなくらい、寒くなって来た。
「こ、これ。どうしよう」
改めてメイリは呟いた。
呟いて、眼鏡の人の方を見た。
そしたら彼は、手元で何かを操作し。
あ。携帯!!
それを認識した途端、ぱあああ、と視界が明るくなった。
なんだそうか。彼は携帯があるから落ち着いていたんだ。そうかそうか。
と、思った矢先。
耳に当てた彼の携帯から、ピピピピピ、と凄い何か、嫌な音がした。
危険信号のような、命の危険を知らせるような。
それが何の音であるのか、咄嗟に本能が理解してはいけない、と告げていたのだけれど、メイリは思い当たってしまっていた。
――あれは確か、バッテリー切れの音では……。
「あーあ」
携帯を持っているから落ち着いていると思っていた眼鏡の人は、携帯の電源が切れても、落ち着いていた。
「昨日珍しく長電話しちゃったんだよね。珍しすぎて、充電するの忘れちゃってたよ。いやあ、参ったね」
とか、朗らかなくらいの口調で言い、顔を上げる。
「ごめん」
「ええええええええええええええ!」
思わず、絶叫が漏れた。
「ごめんじゃねえよおおおおおおおおおおお!」
「え、じゃあ……すまん?」
「すまんでもないから!!!」
「なに。だって仕方ないじゃない。切れちゃったんだもん」
「でもだって、誰とも連絡つかないのに、どうすれば!」
「うんだから、誰かに気付いて貰うの、待つしか、ないんじゃない。ここで」
「そんな……」
「いつかは、気付いて貰えるよ、きっと」
「そんな……」
「最悪、トイレはここでするしかないけど、全員、男なんだから、まあ、いいよね」
う。と、その言葉に、必死に食いしばっていた歯の間から、声が、漏れた。
「私はそういうのはちょっと……照れちゃうけど……うふふ」
ってピンクの人が、何で笑ってるのか、もー全然分からない。
うう。
と、ぷるぷると震える唇から、更に、嗚咽が、漏れた。
みるみるうちにメイリのくるんとした瞳には涙が滲む。どんどん滲む。ぶわっと溢れる。
「うわああああんっ」
気付けば、すっかり蹲り、メイリは、泣いていた。
変人とこんな所に閉じ込められて、もしかしたら、何日もこのままとか……!
姉貴にもまだ、会えてないのに。
そう思うと、涙が後から後から、ぽろぽろと零れて来て、もー止まらない。
姉貴と話したのはそうだ。まだ、あれは昨日のことだ。
テレビ電話でいつものように、日本語のトレーニングも兼ねたやりとりを交わし、「メイリちゃんはすっかり日本語が上達したわね。これなら明日も大丈夫ね」と、姉貴に太鼓判を貰って良い気分になって、
「それでね明日なんだけど。その日はイベントがあるからメイリちゃんのこと、迎えには行けないの。ごめんなさいね。でも、メイリちゃんなら大丈夫よね」
とか何か、更に上手い事言われてすっかりその気になり、「いやむしろ、俺、もう16歳だし、大丈夫だし」とか何か、いきって調子こいて、気付いたら今、エレベーターの中で泣いている。
全然意味が分からない。
だいたい、日本の駅の構造がややこしいからいけないのだ。
駅は、駅なら、駅らしく、線路と改札口だけあればいいのだ! 何故そこに、店とかデパートとか、くっつけるんだ! だから、お陰であれよあれよと言う間に地下街に迷い込み、どういうわけか百貨店のエレベーターに乗っていて、ただでさえ地上が遠かったのに、しかも、こんな所に閉じ込めるなんて!
「ああ……君、泣かないで、泣かないで。大丈夫?」
ぷるぷる、と震えるメイリの肩を、何かがそっと優しく包み込む。
見ればピンクのロングコートで、それをかけてくれたのはあの得体の知れないピンクの人に違いなく、肩にはその手のぬくもりがある。
力強くも優しい掌は、おかしい人だなんて思ってごめんなさい、と、こわばったメイリの心を溶かすのに十分な柔らかさを持っていて。
少しだけ、気分が落ち着いた。
お礼を言おうと顔を上げた。
え。
と固まった。
彼が何で裸なのか、もー全然分からない。
「怖がらないでいいんだよ、少年。寒いなら、これを着なさい。私の心は燃えているから、全然寒くなんてないんだよ。君にこれを渡して、この普段着だけで丁度良いくらいでね」
とか何か言って、「普段着」らしいかぼちゃパンツを、示す。
どうやら、「ピンクの人」は「全裸にかぼちゃパンツ一丁の人」でもあるらしい。
愕然とした。
何より今、自分に優しくしてくれる人が、こんなかぼちゃパンツの人しか居ない事に、愕然とした。
「ねえ君。怖がらないくていいんだよ。死を決して恐れてはいけない。どんな時でも、愛と夢と希望を持つんだ。私だってね。ラブな奥さんが居るし、彼女一人を置いてくなんて苦しすぎるけれど、でもここにだってラブはあるから。私がラブと共に死んだと分かれば、彼女もきっと納得してくれると思うんだよ。彼女も、少年少女の愛と夢と希望を守ることをテーマとして活動する、秘密結社の人間なのだから。そう、覚悟の上だ! さあ少年、死ぬ時は一緒だよ」
「わあああああああああああああああああああ!!!! いやだああああああ!」
メイリは絶叫と共に、力の限りかぼちゃパンツの、いやもーむしろかぼちゃの人を突き飛ばし、「だだだ! だだだだ、脱出、脱出しよう! 今すぐ!! ね! ね! ね!」と、眼鏡の彼のジャケットに縋りついた。
「んー脱出ねえ」
相変わらず、不自然なくらいに泰然自若とした彼は、「でも、どうやるの」と、眼鏡を押し上げながら、言う。
「て、天井とか! 映画とかであるじゃないか! 天井のハッチから脱出とか!」
「んー天井ねえ」
のらりくらりとした返事をしながら、眼鏡の人は腕時計をちら、と確認する。「でも、どうやって、上るの?」
「そ、それは」
「誰かを踏み台にするしか、ないんじゃない?」
誰かが言った。
かぼちゃの人だった。
「わ、私が踏み台に、な、なろうか?」
って言ってる声がちょっと何か、不気味にぷるぷるしてるんですけど、大丈夫ですか、と思った。
「ま、まあ。あと何ていうか、むしろ、君になら踏まれてあげても、いいよ……なんて、うふふ」
どうしよう、笑っている。
「じゃ……じゃあ……」
「よしきた!」
ってかぼちゃの人、というか、むしろ、かぼちゃは、びっくりするくらいの素早さで、その場に四つん這いになった。
「さあ! 乗って!」
「う」
いやだ。絶対何か、乗りたくない。
でも。
それしかないなら、やるしかないじゃないか!
「よし! 乗ってやる!」
くわ! とメイリは立ち上がり、男の背中に足をかけ。
「ああん。もっと踏んでっ」
くそう! 負けるもんか!
そのまま背中に飛び乗り。
「さあ! もっと! 少年! 私の体を使って飛び立って!」
天井のハッチに手をかけ。グイッと。
「あれっ?」
グイーーーーっ、と。
グイ、グイ、グイーッと。
開かない。
「そんなバカな」
「ま。現実は、そんなもんだろうね」
って、ずーっとただ見守っていただけの、眼鏡の人が、言った。
「だって勝手に脱出されて、誤って塔の中とかに転落されたら、困るもんね」
「そ」
くらーっと立ちくらみがした。「そんな……」
それで何かふわーと、あーこれ落ちますねー、とか思ってたら。
ガシ。と、何かが。
かぼちゃの腕が。
「で、頑張って貰って凄い面白かったんだけどね」
かぼちゃの腕に抱きとめられているメイリを、冷たいくらいの平然とした表情で、眼鏡の人が見下ろした。
「そろそろだと、思う」
「な、何がですか」
むしろ、これ以上何かが、あるのですか!
と、発狂するかも知れない、と思ったまさにその時。
ブイーンと何かが起動するような音が、聞こえた。
「え」
ガコン! と最初に感じた衝撃が、また箱を襲う。そして、ジジジ、機械の駆動する音が。
「う。動いた!? え、動いた! な、ななななな、なんで!」
「復旧したんじゃないかな。自動復旧」
「ななななななな、なんで!」
「なんでって。日本の機械は優秀だから?」
「そんなバカな!」
優秀なら、そもそも、止まるのがおかしい。
「まあ、いいじゃない。動いたんだから。あ、そうそう、それから、これ」
眼鏡の人は、唐突に、何かを差し出してきた。
名刺だった。
名前が記されている。草間興信所、所長、草間武彦。
「今日はいろいろとご苦労様。悪かったね。また何か困った事があったら、連絡してみて」
どうして彼が謝らなければならないのか、理由が分かったのは、それから随分たってからの事だった。
「おっと。そうだった、名前をまだ名乗ってなかったね、少年。私の名前も是非覚えて置いて欲しい。私は、リュウイチ・ハットリ。ラブハンターのリュウイチ・ハットリだよ、忘れ」
何だかもー全然何も分からなくて、分からな過ぎて頭痛がしてきた。
一つ、学んだ。
変態に絡まれたってめげない根性でなければ、姉を探しに単身、日本には来ては行けない。
そして。
こんな危なっかしい国に居る姉は益々放っておけない。他でもない、俺が守らなきゃ。
メイリは、そんな決意を新たにした。
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