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<東京怪談ノベル(シングル)>


Silent Night

 小さなキャンドルに火を灯すと、部屋はほのかな明るさに包まれた。
 それを2つ、3つと灯す。すると温かな光は窓の外の雪をもほのかに照らす光になった。
「ただいま」
 クリスマスのディナーを終えた黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)と草間武彦は、草間興信所に戻ってきた。
 肩に積もった雪を払い落とし一息つくと、冥月は影の中の異空間にあるワイン専用のキッチンでワインセラーからワインを選び出した。
 フランス産ボルドーワインの1961年、当たり年の物だ。
 それから、デンマーク製の高級皿を取り出し、ワインに合うミモレット、スティルトン・ポルト、ゴーダブラックなどのワインに合うチーズを数種とポルチーニマッシュルームの入ったクラッカーをチョイスして綺麗に並べた。
 草間はその間に小さなだるまストーブに火をいれ、その上にやかんに水を入れて置いた。
「用意できたわ」
 冥月は来客用のテーブルにフランス製の最高級ワイングラスを二つ並べて、ワインを静かに注ぐ。
 赤い液体がグラスの中で波を作って揺れている。
 それを見て草間は、ソファに腰掛けた。
「それじゃ、改めて乾杯するか」
 草間がグラスを差し出したので、冥月はそれを受け取って草間の隣に座った。
「それじゃ…乾杯」
 小さくコツンと音を立て、二つのグラスはキスをした。
 こくりと一口含むと、濃厚なアルコールがすぐに体を満たしていく。
「これ、高いんじゃないのか?」
 草間がワインを飲んで言った。
 冥月は草間の唇を人差し指で軽く押さえるとにこりと笑った。
「無粋なことは訊かないの。武彦だって今日ディナーにいくらかかったかなんて、私に言いたくないでしょ?」
「そうだな。それは訊かれたくないな」
 草間は少し笑って、「じゃあご馳走になる」とチーズをつまんだ。
「…どう?」
 覗きこむように草間を見た冥月に、草間は頷いた。
「あぁ、ワインによく合うな」
 草間の満足そうな笑顔に、冥月も嬉しそうに笑った。
 温かな光の中で、2人は一番安らげる場所で思い出話に花を咲かせた。
 それは解決した依頼の話であったり、2人で買い物をしたときの話であったり。
 話の種は尽きず、ワインとチーズはその話を軽やかに紡ぎだす為に次第に消えていった。

 少し瞼が重くなった頃。
 ふと、草間はこんな言葉を口にした。
「『ワインは何も作り出さない。ただあるものを明るみに出すだけだ』か」
「? なにそれ?」
「フリードリヒ・シラーってドイツの詩人の言葉だ。俺たちの今のことだな」
 草間は冥月の肩を抱き寄せた。
 …ただ、あるものを明るみに…?
 ぬくもりが眠りへと誘う。
 草間の言葉に違和感を覚えながら、冥月は深い眠りの底へと沈んでいった…。


「…さむ…」
 うっすらと目を開けると、キャンドルの火は消えていた。
 だるまストーブの小さな赤い光と、シュッシュッと鳴くやかんが夜の静けさを際立たせていた。
 体を動かそうとして冥月は、その体が上手く動かないことを察した。
 草間が冥月の肩を抱いてもたれて寝ていた。
 どうやらあのまま2人で寝てしまっていたようだ。
 冥月は赤くなった頬を手で押さえた。
 このままでは風邪を引いてしまう…そっと草間の手を肩から外し、草間の頭をゆっくりとソファに下ろした。
 奥の部屋から布団を持ってきて、草間に静かに掛けた。
 草間は起きる気配もなく、ただ安らかな寝息をたてていた。
 そんな草間の傍らに冥月は座り込むと、じーっと草間の顔を見つめた。
 幸せそうなその顔を見ていると、知らずに笑みがこぼれ出てくる。
 ちょっとイタズラしてしまおうか…?
 ツンと頬を指でつつくと、草間は眉根を寄せて嫌そうな顔をする。
 何度か繰り返してみたが、一向に起きる様子はない。
 探偵だから気配には敏感だって言ってたのに…苦笑した冥月の頭に眠りに落ちる前の草間の言葉がよぎった。

『ワインは何も作り出さない。ただあるものを明るみに出すだけだ』

 もやもやとした違和感がはっきりとした形になって、冥月は呆然とした。
 兄弟子の顔が、草間の顔に重なって見える。
 冥月はそっと草間の顔を覗き込んだ。
 私はここで、何をしているの?
 私は…私は…あなたの墓前を守る為にここまで来たはずだった。
 あなた以外の誰かを好きになるなんて、思いもしなかったの。
 知らず知らずのうちに、頬をつたい涙が流れた。
 忘れていたわけじゃない。
 忘れられるはずがない。
 だけど…私は温かさを知ってしまった。
 二度とないと思っていた感情を抱いてしまった。
 武彦と一緒にいたいと思ってしまった…。
 それは、もう、誤魔化せない気持ち。
「私…あなたを裏切ってる?」
 思わず口に出た言葉を、冥月はすぐに自ら否定した。
 私はあなたが好き。その気持ちは変わりない。
 でも、武彦を好きな気持ちも本物なの。
 どちらも比べることなんてできない、私の本当の気持ち。
 どちらも…大切な存在なの…。
 ぽたりぽたりと涙が草間の頬に落ちた。
 窓の外は、雪が止み月明かりが差し込んでいた。
 静かな夜が冥月を包み込み、小さな祈りはその頬を濡らす涙に光る。
「赦してくれる? 私…武彦を、ずっと好きでいていい?」
 天国を信じているわけじゃない。
 神様を信じているわけでもない。
 あなたに乞うこの言葉があなたに届くと信じているわけでもない。
 ただの自己満足だってわかっている。
 それでも、私はあなたの赦しが欲しい…もう一度だけあなたの言葉が欲しいの…。

「何で泣いてるんだ?」
 大きな手が、冥月の頬を優しく撫でた。
 いつの間にか目を覚ました草間が、上半身を起こして優しい眼差しで冥月を見つめた。
「俺、またなにかしたか?」
「ち、ちがうの…これは…武彦は関係なくて…」
 慌てて涙を拭って誤魔化そうとした冥月を、草間は胸に引き寄せた。
「言わなくていい。泣きたいなら俺の胸で泣け」
 そういって冥月の髪を優しく撫でた草間は、冥月を無言で抱きしめた。
 冥月の瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
 押し殺した泣き声が、雪のように降り積もり小さな嗚咽になった。
 草間の胸の中で生死を共にした兄弟子を思う。
 生死を共にしたあなたへの感情を、簡単に忘れられるわけがない。
 あなたと生きていきたかった。
 あなたを愛していた。
 でも、あなたはここにいない。
 どんなに望んでも、あなたと道が交わることは二度とない。
 そして私は違う道を進み始めてしまった。
 武彦と出会って、歩き始めてしまった。
 ねぇ、私が武彦と出会ったことは間違いだったの?
 何度でも躊躇って手を離そうとするたびに、武彦は私の手を強く握ってくれる。
 迷いそうになった私を何度でも導いてくれる。
 私の過去を聞かないで、私の全てを受け止めてくれる。

『ごめんなさい』

 後悔の念が冥月を襲う。
 草間の胸で泣きながら、冥月は胸のロケットを強く握り締めた。
 武彦を好きになったことが愛しくて、切ない…。
 だって、あなたは私の中で生きている。
 武彦を好きになればなるほど、背徳の思いが頭をもたげる。
 だけど、答えのない迷路をさまよう私を、こんなにも武彦は温かく包んでくれた。
 だからこそ強く思う。

『ありがとう。私がこんなに好きになれるあなたでいてくれて』

 草間は黙ったまま、冥月が泣き止むまでただ髪を撫でながら抱きしめていた。
 言葉にならない思いは、静かな夜に消えていく。
 白い雪は2人と月を覆い隠して、再び降りだした…。