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デリケートな関係
1.
工藤・勇太(くどう・ゆうた)は、今困っていた。
大音量のブザーを鳴らして開いた扉の奥に所長の姿はなく、いるのはその妹・草間零(くさま・れい)だった。
すっかり日も落ちた真冬の草間興信所で、勇太は凍るようにただ立ち尽くしていた。
「あら、工藤さん。いらっしゃいませ。今日はどういったご用でしたか?」
にこにこと対応する零の視線に邪気はない。
しかし、勇太は視線をやや逸らし気味に言った。
「い、依頼の報酬を受け取りに来たんですけど…所長は?」
直視するのは躊躇われた。
零が怖いわけではない。零に恋心を抱いているから…などという理由で直視できないわけでもない。
怖いのは…
「申し訳ありません。お兄さんはただいま急な用事で出掛けています。すぐに戻ると思いますので、事務所でお待ちになってはいかがですか?」
そういって招くように道をあけた零は、にっこりと笑う。
その背後に、黒い揺らめくような影が勇太には感じ取れた。
怖いのは…このなんとも言いがたく背中がゾワゾワする零の纏う『何か』だった…。
2.
「外は寒かったでしょう? 温かい飲み物を持ってきますね」
ソファに促され座った勇太に、零は一礼して奥へと消えた。
はぁ〜っと思わず大きなため息が出てきた。
自分が息をするのも忘れるほど緊張していたことに、ちょっと驚いた。
零と知り合って3年ほど経つが、未だに慣れないこの緊張感。
所長の義妹…それが勇太の知る零の全てだ。
中3の修学旅行でちょっと東京を留守にしている間に、草間興信所の一員になっていた零。
初めて会った日も、にっこりと笑っていた。
でも、あの時から既に背後にうごめく『何か』が存在していた。
今もそれは健在で、いつだって悪寒が走る。
…だからって、嫌いなわけじゃないんだ。
むしろ零さんとは仲良くしていきたいと思っているんだ。
俺が信頼する所長の妹さんだし、なにより零さんは俺を普通に扱ってくれる。
頭ではわかってる。
だけど…だけど…!
「おまたせしました。コーヒーお持ちしました」
ハッと我にかえると、零がトレイの上にマグカップを1つ載せて戻ってきていた。
「あ、ありがとうございます」
またしゃっきりと背筋を伸ばして、勇太はお礼を述べた。
鳥肌が立つ自分を戒める。
しっかりしろ、俺。
相手は普通の女性じゃないか。
何を…何をビビる必要があるんだ!
「いただきます」
コーヒーを飲もうとする勇太をじーっと見つめる零。
…はっきり言って飲みにくい…。
ごくりと一口飲むと、温かい液体が体の緊張を少しだけ和らげてくれた。
「どうですか? お味…」
キラキラした瞳で零が質問してきたので、勇太は思わず身を引いた。
正直言って、緊張のし過ぎで味など全くわからなかった。
どう答えるべきなのか?
正直に言ったら傷つくだろうか? 嘘を言ったら見抜かれるだろうか?
瞬間の考察を経て、勇太は言った。
「お、美味しかったです」
なんとか笑顔でそう返すと、零は「よかった〜」と心底嬉しそうに笑った。
間違ってなかった…俺の答え…間違ってなかったよ!
思わず心の中でガッツポーズをした。
3.
「そういえば、工藤さんは学校から直接いらしたんですか?」
勇太の向かいに座った零が、屈託のない笑顔でそう訊ねた。
「はい。新聞部の活動があったので、帰宅してからでは遅くなるかなって」
「新聞部??」
零が小首をかしげた。
「えーっと…あ、これ。こういうの作ってるんですよ」
目の前の机においてあったスポーツ新聞を手に持って、勇太は説明した。
「これを作ってるんですか?」
「あ、いや。似たものであって、これを作ってるわけじゃないです」
「…えっと、つまり…これの偽物を作っているということですか?」
「ち、違います! 作り方が一緒なんです。内容は学校に関してのことで…」
慌てて勇太がそう解説すると、零はうーんと頭を捻った。
その途端、勇太はハッとした。
零の背後の『何か』がざわめき広がったように見えたのだ。
な、なにが起こった? 俺なにかした??
もしかして、零さんの感情によってこの『何か』は反応するのか!?
勇太が走る戦慄におののいていると、零はようやく納得したのか「なるほど」と呟いた。
「わかりました! 学校の新聞を作っているんですね?」
満面の笑みでそう言った零の背後では、『何か』がもそもそっと影を潜めた。
「そ、そうです…その通りです」
がっくりと肩を落とした勇太は、胸を押さえた。
心臓が止まりそうな勢いでドキドキしていた。
零の感情を波立たせてはいけない。
それが、今の自分にできる最大の防御だと思った。
所長…早く、早く帰ってきてくれよ!
4.
グ〜ッと腹の虫が鳴った。
気が付けば時計は6時を指しかかっていた。
「お腹…空かれているんですか? 何か持ってきましょうか」
「いや、別にそんなに空いてるわけじゃ…」
そう言いかけて、再びグ〜っと鳴る。
「ふふ。今持ってきます。ちょっと待っててくださいね。いい物があるんです」
立ち上がった零は、軽やかに奥へと消えていく。
本日二度目のため息を勇太はついた。
どうして…どうして鳴った、俺の腹!
地団太を踏んで悔しがりたいほど、自分の腹に腹が立つ。
頭を抱えたくなる衝動に駆られながら、少し経つと零が戻ってきた。
おのずと背筋を伸ばしてしまう勇太。
「クッキーを作ってみたんです。…ちょっと形はいびつになってしまいましたけど…」
皿の上に載せられた、ちょっと焦げた不揃いな形のそれからは確かにクッキーの匂いがした。
「どうぞ。召し上がってください」
ニコニコと差し出されて、勇太は1つ手に取った。
そして、そのまま口に放り込んだ。
「おいしい」
「本当ですか!? よかった〜! いっぱい食べてくださいね。まだまだありますから」
見た目に反して美味しかったそのクッキーだったが、皿を空けるごとに零が追加でさらに持ってくる。
途中でバターがくどくなってきて、胃もたれを起こしそうだ。
だが、キラキラとした瞳で見つめる零が…なによりその後ろの『何か』が勇太に期待を寄せている。
見ないでくれ! 俺をそんな目で見ないでくれ!
なんで所長は帰ってこないんだ! 俺を見捨てるつもりなのか!?
段々ささくれ立ってくる気持ちが、ついに勇太の勇気に火をつけた。
「れ、零さん!」
「はい?」
屈託ない笑顔の零とぞわりと悪寒を走らせる『何か』に向かい、勇太は最大限の勇気ある言葉でこう言った。
「…コレ、持って帰ってもいいですか?」
5.
時刻はついに7時になった。
「すいません。お兄さんには私から工藤さんが来たことを伝えておきますので…」
申し訳なさそうに見送る零に、勇太は「いや、また来ますから」と言った。
「あ」
零が唐突に小さく叫んだ。
そして、勇太の髪に手を伸ばした。
瞬間、また勇太にゾゾゾゾゾッと走る寒気。
そして…
「ゴミ、付いてましたよ」
「あ、ありがとうございました!」
勇太は草間興信所を背に走り出した。
後ろを振り向かず、ただまっしぐらに。
勇太は感じ取ってはいけないものを感じた気がした。
零が髪の毛のゴミをとってくれた瞬間、後ろの『何か』がニヤリと…笑った様な…。
クッキーの袋を握り締め、ひたすらに今は草間興信所から離れることを考えた。
今は…今だけはこの場を逃げることを許してくれ!
明日からは、きっとまた普通に戻るから…今だけは!!
そんな勇太の背中を見送っていた零は、ふと背後に何かを感じて振り返った。
「あぁ、お兄さん。お帰りなさい。今工藤さんがいらしてたんですが…丁度帰ってしまわれました」
にっこりと笑った零の後ろの『何か』がもやっと揺れた。
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