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<東京怪談ノベル(シングル)>


約束のカタチ
 海原・みなも(うなばら・みなも)の白い掌の中には、今、一枚の栞がある。
 色合いは夜よりも真っ黒。しかし、鼻先にはふわりとフローラルな香りが伝わってくる。
 ラベンダーの香りのする、漆黒の栞。

 みなもは以前、ブラックドッグのよりしろとなった人々を、ブラックドッグと人間に分離し、解放する事に成功した。
 その経緯で彼女自身もブラックドッグ化した事もあったが、今では彼らとは協力体制にある。
 そしてブラックドッグはみなもに言ったのだ。
『こまったら、よんで。いつでもたすけにいくから』と。
「ねえねえ、みなもお姉さん」
 全てが終わったと思った時、セーラー服の端を引かれ、みなもは声の方へとふり返った。
 そこにあったのは最近ではもはや見慣れたおしゃまな少女の姿だ。
「どうしたんですか?」
「あのね、お姉さんに渡したいものがあるの」
 はい、と差し出された両手には何も乗っていない。
 何だろう、とみなもは心中で首を傾げる。表だって傾げなかったのは――彼女なりに考える所があったのだろうと推測した為だ。
「まあ、焦らないで」
 少女が笑った瞬間、彼女の掌の上にラベンダー色の輝きが集う。それはみなもの見ている目の前で収束し、1枚の黒い栞となった。
「……これって……」
「お姉さんとあの子の約束を、カタチにしたモノなの。これ自体は媒介みたいなものね」
 少女曰く、これは今まで以上にみなもの深層意識に強く語りかける力を持つという。
「使いこなせるかどうかはお姉さん次第よ。でもあのブラックドッグもきっとこうしておいた方が喜ぶと思うから……」
 彼女は、そう言ったのだ。

(「使いこなせるかどうかはあたし次第……っていう事は、やっぱり簡単には使えないのかしら……」)
 少しだけ涌いた弱気の無視を追い払うように、みなもはかぶりを振る。
「ううん。使いこなしてみせる」
 決意を言葉にし、みなもは目を閉じると栞へと意識を集中する。
 既に見慣れた揺らめく海底のイメージは以前より穏やかに見える。恐らく以前のように荒らすような存在も居らず、みなも自身も精神的に安定した状態の為だろう。
 少しして肉体への違和感に目を開くといつかのようにふっさりとした黒の毛並みが表れていた。
 以前、本を読んだ時に無理矢理書き換えられたのに比べれば、慣れもあるだろうが恐ろしさは欠片も無い。
 だが、流石に骨格が入れ替わり、視点が大きく下がった時点で僅かに混乱が生まれた。
 半水妖のみなもと、黒犬としての本能と。
 以前のような強烈な飢餓感こそ無いが、それでも森に帰りたくなる気持ちは発生する。
 恐らく、ブラックドッグが描かれた時にその思いは根底に植え付けられたのだろう。
(「大丈夫。あたしはあたし……」)
 みなもはそれに抗おうと懸命に自身の存在を意識し続ける。成る程、少女の「使いこなせるかどうかはみなも次第」というのはどれだけ自身としての意志を残しつつブラックドッグ化出来るか、という事もあったに違い無い。
 何せ、あまりにみなもが自身を意識しすぎると、ブラックドッグ化が上手く行かない。
 かといってブラックドッグ化に没入しすぎると、今度は自制が効かず本能に引きずられる。
 更に過去にブラックドッグ化自体はした事があっても、自身の力として自由に扱うのはある意味はじめてだ。その為一体どんなことが出来るのか、完全には理解しきれていない。
 カタログスペックは知っていても、それを実感するのは別、というのと似たようなモノだ。
 それでもみなもは次第にブラックドッグ化に慣れていく。このあたりは彼女の適応の早さ――水の特性――によるものかも知れない。
(「じゃあ、今度は……」)
 みなもは更に新たな力へと手を伸ばす。
 ブラックドッグの持つ異能へと。
 彼女がはじめて遭遇した時のような、影や闇に潜み、それらを渡る力へと。
 ブラックドッグとなった事で低くなった視点が、更に低く。そして地の高さが零になる。
 影の中へと入り込んだのだろうと察した時点で他の影へと移動してみようとしたものの――。
(「…………駄目。身体が上手く動かない……」)
 どろりと粘つくような抵抗にみなもは懸命に前に進もうと足掻く。
 強いて言いあらわすならば、タールの中を泳ごうとしているようなものだろう。
 地に落ちた平面的な影に厚みが現れ、影の中からセーラー服を纏ったみなもの姿が現れる。ぐったりと地に伏したまま彼女は荒い呼吸を納めようと試みる。
 熱せられた肺と、疲労を訴える四肢に少しでも酸素を送ろうと。
「……負けない……」
 呼吸が落ち着いた所でみなもは地についたままだった手を握りしめる。
 もう一回変身を試みようと、必ず適応しようと心に決めて。

「……そろそろかしらね」
 もう幾度繰り返しただろうか。
 懸命にブラックドッグ化を続けるみなもを、離れた所で見ていた少女が呟く。
 放置しておけば、みなもは恐らく消耗しきっても、ブラックドッグ化する方法を完全に自身の管理下に置けるまで試行し続けるであろう事を彼女は見抜いていた。
 流石に一応栞を渡した本人として思う所があったらしく、様子をうかがっていたらしい。
 すぅ、と彼女は息を吸い込む。
「仁科おじさん、みなもお姉さんが大変よー!」
 慌てたように声を作り、少女はぱたぱたと駆けていく。
 勿論その声はみなもの耳にも入り――。
(「あの子……気にしていてくれたんだ……」)
 少しだけみなもの頬が緩む。
 みなもが彼女を1人にしなかったように、少女もまたみなもを気にかけている。
 言葉に出す事は無かったが、それはそれでひとつの約束のカタチなのかも知れない。
 そしてみなもの目的であったもうひとつの約束――ブラックドッグの力を使いこなせるようになるには、それからあともうちょっとだけ時間がかかった、らしい。