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<東京怪談ノベル(シングル)>


さらば、我執の日々よ


 水の飛沫が辺りに跳ねる。
 首を伝う雫の筋を拭おうともせず、クレアクレイン・クレメンタインは執拗に顔を洗っていた。マスカラが剥がれ落ち、ファンデーションが溶け、渦を巻いては排水溝へ。
 たっぷりと時間を掛けた後、彼女は静かに顔を上げた。水を滴らせながら鏡を覗き込む。
 化粧を剥がしても尚美しい、陶器のような肌。艶やかな黒髪。
 聡明さを宿した瞳に見返され、彼女はぐっと喉を詰まらせた。
「――ちぇ」
 ぽつり。溢れ出した言葉さえも、今は柔らかな女の声となって響く。
「おまえって、化粧落としても綺麗なまんまなんだな」
 よりかかるようにして、彼女――いや、彼は鏡に指先を寄せた。鏡の中からはクレアがこちらを覗き返している。苦笑いを噛み潰しながら、彼は鏡に映る輪郭をなぞった。
「いい女なのに、中身が俺じゃあ……勿体ないよなあ、ほんと」
 鏡の中の自分に、こつん、と額を突き合わせる。




 フリーカメラマン、鶴橋亀造は死んだ。
 正確に言えば、鶴橋亀造の身体は死に、魂だけが残った。
 魂は新たな身体を拠り所として定着し、彼は再びこの世で目を醒ました。
 彼が次に目を醒ましたとき、彼は慣れ親しんだ『鶴橋亀造』の体ではなくなっていた。代わりに彼が得たのは、美しい女の身体だった。
 身体の持ち主の名は、クレアクレイン・クレメンタインと言った。
「……クレア……」
 目覚めてすぐ、彼は彼女の名前を呼んだ。妻の親友であり、かつての想い人でもある彼女の名前を。
 鶴橋亀造はクレアクレイン・クレメンタインとなった。




 クレアの身体を得たことは、彼にとってはある意味災難だったのかもしれない。
 生前のクレアは社交界でも名声を馳せた、才色兼備な女流科学者だった。落ち着いた雰囲気に、エスプリの効いた弁舌。誰もが彼女を才女と形容し、彼女もそれに微笑みで応えていた。
 片や亀造はといえば、典型的な肉食系男子。趣味は酒にスポーツ、はたまた女遊びだ。
 そんな彼が突然クレアになったとなれば、当然粗相が起こるに決まっている。
「ああクレア、またそんなに足を開いて座って……」
「クレア、例の識者との会食では散々だったそうじゃないか。君らしくもない」
「どうしたんだクレア。最近の君はどうもおかしいぞ」
 口ぐちに責め立てる周囲の視線を避けながら、クレアは仕方なく笑ってみせるしかない。彼らの魂が入れ替わったことは機密事項だ。どれだけ怪しまれようと、騙し通さなくては。新たな身体を得てからというもの、心なしか作り笑いが巧くなった気がする。
 周囲から詮索されるたび、クレアはたおやかに笑って、こう逃げるのだ。
「ごめんなさい、お気を遣って下さってありがとう」
 これさえ言っておけば、大抵のターゲットは陥落する。
 その後クレアは去りゆく相手の背中に向けて、小悪魔的に舌を出してやるのだ。
“ふん、でれでれと色目を使いやがって。俺には男の色目なんか効かないからな”
 そうしてひとしきり強がった後に、彼は深く溜め息をつく。
 ……生前のクレアだったなら、彼らにどんな返しをしていたのだろう。


 周囲はしきりに『クレアクレイン・クレメンタイン』らしく振る舞うよう求めてくる。
 その要求が、今の彼女には重荷でしかなかった。




「戸籍係に行かなきゃいけないんだ」
 書類を手にしてクレアは切り出した。
「役所の、ね。俺らの元の身体に、失踪死亡届を出してやらなくちゃならないって。
 この身体には特例が適用されて、新しい戸籍がもらえるんだってさ」
「失踪死亡、かあ」
 妻はのんびりと答えを返しながら、手元の紅茶に口をつけている。彼女のそんな様子を見ながら、クレアは小さく胸を痛ませた。生前のクレアの姿に、妻はあまりにも似すぎている。
 クレア本人が不在であるくせに、クレアによく似た自分の妻と、クレアの身体を持つ自分とがここに存在している。違和感で肺がきりりと痛んだ。
 かたん、とティーカップが置かれる。
「現実感がないなー。あなたもクレアも、こうして目の前にいるんだもん」
 クレアは少々むっとしてみせる。
「俺はクレアじゃない」
「知ってる。でも、そう感じるのよ。あなたもいて、クレアもいるって」
 妻には少々豪胆なところがある。さすが未来の女王、といったところだろうか。これから夫の身体に死亡届が出されるというのに、こうして呑気に茶を啜っているのだから、なんとも見上げた胆の据わりっぷりだ。
 それとも、これこそ女の強さ、というものなのだろうか?
“俺は男だから、わからないな”
 ふと頭に浮かんだ言葉にハッと息を呑む。
“そうだ、俺は男なんだ。たとえクレアを求められても、俺は彼女にはなれないんだ”
 唇を引き結び、押し黙る。分かりきっていたはずなのに、心が痛んで仕方がない。

 人は忘れられたときに死ぬという。
 生前のクレアらしく振る舞うことなんて、俺には一生できないだろう。俺が彼女を、クレアを消してしまうんだ。

 クレアを真の意味で殺すのは、俺なんだ――。



「ちょっと、亀造? 亀造ってば」
 肩を揺さぶられ、彼ははたと我に返った。
「どうしたの? 凄い汗じゃない」
「俺……」
 言いかけた言葉を噛み潰し、クレアは眉尻を下げて笑う。
「なあ。俺、本当に生きててよかったのかなあ」
 妻が驚きに目を丸める。
 彼女の答えを待つより早く、クレアはぽつぽつと言葉を続けた。苦笑いのような表情で笑うクレアは痛々しく、どこかしら儚げに見える。
「……時々思うんだよ。世間からしたら『クレア』が死ぬより、俺が死んだ方が良かったんだろうな、って。才色兼備な女科学者と、しがないフリーカメラマンだろ? そりゃ、比べるまでもないか」
 はは、と乾いた笑いが響く。
「もしも俺の身体が死んだときに、魂も一緒に死んでたら――」

「――バカなこと言わないで」

 鋭い妻の言葉が、クレアの言葉をぴたりと止めた。
 はっとして目をやると、強い眼差しに射抜かれる。聡明で思慮深く、意思の強いエルフの瞳。
 その瞳は生前のクレアと瓜二つで、思わず彼女は大きく心臓を跳ねさせた。
「……バカなこと言わないで、亀造」
 妻はもう一度同じ言葉を繰り返す。
「あなたが生前の『亀造』にこだわりたいなら、勝手にすればいいわ。
 生前の『クレア』の立場を重んじたいなら好きにすればいい。
 でもあなたは今、クレアの身体に宿ってる。だったら、あなたがこれからの『クレア』なのよ。
 亀造でもあり、クレアでもある。それがあなたなんじゃないの?」
 そして妻は、すう、と目を細めた。

「女王の夫として、あたしの親友として、これ以上そんな戯言は許さないわ」



 ぱさり、と。
 手にしていた死亡届がテーブルに落ちる。
 クレアは何も言えなかった。
 身動き一つ取れないまま、ただじっと妻を見つめ返していた。
「……はは」
 やがてクレアが発したのは、小さな笑いだった。両手を上げ、肩をすくめる。
「あーあ。降参、降参。やっぱりおまえには敵わないな」
 クレアは口端に微笑みを浮かべた。久々に見せる、心からの安堵の笑みだった。
 彼女は判を手に取ると、最後まで押せなかった部分――自分の死亡証明欄に、それをつく。
「さあて、お別れだ。『鶴橋亀造』」
 顔を上げ、妻と視線を交わす。その視線を受けても、彼女はもう目を逸らすことはない。
 彼女はようやく『クレア』と『鶴橋亀造』に弔いの言葉を告げることができそうだった。