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<東京怪談ノベル(シングル)>


smile punch

1.
 1月の空は低い雲に覆われ、しとしとと雨を降らせている。
 そういや、所長は傘持ってったのかな?
 工藤勇太(くどう・ゆうた)は作っていた書類から目を逸らして、窓の外を見た。所長はさっき、タバコがきれたとかいって外出していった。…勇太に依頼の報告書を押し付けて、逃亡した…とも言える。
 事実、勇太の目の前には山のように積まれた白紙の依頼報告書が置かれている。本来それは所長の仕事だ。
 損している気がする…でも、所長命令は絶対だ。
 そう思いながら、勇太は報告書を一枚一枚手で書いていく。
「すいません…工藤さん。お兄さん、早く帰ってきてくれるといいんですが…」
 草間零(くさま・れい)がマグカップをお盆に載せ、奥の台所から出てきた。
「ははは…いつものことですから…」
 零の後ろから何かが勇太を覗き込んでいるのを感じ、勇太はぞわぞわっとした。
「コーヒーを入れましたから、少し休憩してください…ってわ!?」
 足がもつれて、盛大に零の体が前のめりになった。
 思わず体が動いて、勇太は零を抱えるとまるでスローモーションの様に床に叩きつけられた。
「く、工藤さん!? 工藤さん!! …勇太さん!!」
 激しく頭が揺れる。零の慌てた声が遠のいていく。
 あれ? …いま、俺のこと、なま…え…で…


2.
「あのワンちゃんのためにも、今は泣いてください」
 零さんが微笑んで、頭を優しく撫でてくれていた。
 俺は次々に流れ出る涙を制服の袖で拭いながら、ただ下を向いて悔しさと悲しさを押し殺そうとしていた。

 今回の依頼は、捨てられた野良犬の保護だった。
 野良犬を見かけたという近所のおばさんが犬好きで、見るに見かねて草間興信所を訪ねてきた。
 正直簡単な仕事だと思った。保護して、新しい飼い主探してやればそれで仕事は終わると思っていた。
 だけど…俺の思っていた以上のことが起こっていた。
 小雨の降る中情報を聞きまわった。犬は人を威嚇し、襲うまでになっていた。
 そして夕闇が迫る中、毎日出没するという路地裏で犬を見つけた。
 犬はすでに犬の形をしていなかった。
 よく見たら、犬の体には自然界ではありえない裂傷が無数に深く刻まれていた。
「動物虐待かよ…最悪だ」
 俺は犬と対峙し、屈みこんだ。
「おいで。もう心配ないから、一緒に行こう」
 俺は優しく語りかけながら、犬の目をまっすぐに見た。犬の目は不信と狂気、そして絶望の影に染まっていた。
 その目を俺は知っている気がした。
 人間に裏切られながらも、まだ信じようとして裏切られ、ついには絶望と狂気に乗っ取られてしまった。それは昔の俺の目だったのかもしれない。
「大丈夫だよ。来いよ、一緒に」
 その絶望から助け出してくれる人もいる。俺はそれを知っている。
 だから、俺はその犬をどうしても助けたかった。
 だけど…。
『ガゥアアアア!!!』
 突然襲い掛かってきた犬に、俺は思わず身を引いてサイコキネシスを使ってしまった。
 空中に縛り付けられたように動けなくなった犬は、悶えてがなりたてる。
『人間など死んでしまえ! 死んでしまえ!!』
 犬の叫ぶような心がどす黒く蝕まれていくのがわかる。
 形相がさらに歪み、もう元には戻れないであろう事が窺い知れた。

 …俺は、目を閉じて「ごめんな」と呟いた。


3.
 俺は、助けられると思っていた。
 いい人間だっているのだと、あいつに教えてやりたかった。俺が、あいつを助けてやれるのだと思っていた。
 だけど、そんなことは幻想だった。
 草間興信所に犬の亡骸を運んで、所長に頭を下げた。
「保護…できませんでした。すいませんでした」
 それだけ言うと、俺は興信所の扉を開けて廊下に出た。
 誰の顔も見れなかった。俺の顔を見られたくなかった。
「待ってください! 工藤さん!」
 追ってきたのは零さんだった。
 その時の零さんは、まだ俺より背が少しだけ高かった。
「あの…工藤さん…」
 零さんが何か言いたそうに言葉を探している。俺に気を使っている…見ただけでわかる。
 それに…零さんに近づくといつもゾワゾワして、俺は落ち着かない。
「慰めてくれなくていいですよ。俺が悪いんだし、あの犬だってもっと生きていたかったはずなのに…俺が助けてやれなかったから…」
 下を向いて唇を強くかんでいないと、今にも涙が出そうだった。
 俺はここで泣かない。泣いていい理由なんかどこにもない。
「工藤さんは、優しいのですね」
 零さんが優しく微笑んでいた。俺は顔を上げた。
 なんで零さんがそんなことを言うのか、理解できなかった。
「生きているものには、全て幸せになる権利があると私は思います。ですが、それが生き続けることとは限りません。生きてこその幸せもあれば、生きているからこその不幸せなこともあると思うのです」
 零さんはどこか遠いところを見ているようだった。俺にはわからない、悲しそうな目をしていた。
 そして零さんは優しく言ったのだ。

「工藤さんは、魂を救ってあげたのですよ。今は泣いてください。悲しむ人がいれば、あのワンちゃんの憎しみも薄れるはずです」

 俺に泣けと言った零さんは、優しく頭を撫でてくれた。
「…見られたくないのなら、私は向こうに行きましょうか」
 零さんが引っ込めかけた手の袖を、俺はぎゅっと握った。
「…ここに…いてください」
 俯いたまま、俺はボロボロと流れていく涙を止められなかった。


4.
「…太…ん! 勇…さ…ん!! 勇太さん!!」
 零の声が勇太の耳に徐々に大きく聞こえ始めた。
「あ…れ???」
 温かな手と温かな床の間で勇太は目を覚ました。どうやら気を失っていたらしい。
「よかった! 10分も意識がなかったので…よかった…」
 零の顔がやけに近くに見える。
 …って! 俺、零さんに膝枕されてる!?
 慌てて身を起こそうとした勇太に、零は「急に起き上がっては駄目です!」と強引に勇太を寝かせた。
 零は勇太の頭を撫でながら「大丈夫ですか? 痛みませんか?」と何度も聞いた。
「大丈夫です。すいません。迷惑かけたみたいで…」
「いえ。元はといえば私が転んだのがいけないのですから、勇太さんのせいではありません」
 にっこりと微笑む零に、勇太は気になったことをひとつ聞いた。
「あの…俺のこと『勇太さん』って…」
 すると零はハッとすると、しどろもどろに言い訳を始めた。
「そ、それは…あの…気を失ったときは、とにかく意識を回復させるのが大切で…あの『工藤さん』だと、どこの工藤さんかわからないかなって思って…あの…ダメ…でしたか?」
 よくわからない言い訳をして赤くなった零に、勇太は笑った。
 零の後ろの気配が、これまた困惑しているのがなんとなくわかった。
 あぁ、そうか。
 俺、怖がってばかりいたけど、もしかしてこれは零さんを守っているのかもしれない。
 そう思ったら、ゾワゾワが消えた。
「ダメじゃないですよ。零さんが呼びやすいほうで呼んでください」
 勇太がそう言うと、零は嬉しそうに顔をほころばせた。
 零の後ろの『何か』も嬉しそうだ。
「零さん」
 ゆっくりと息を吐いて起き上がり、勇太は零の瞳を見た。
 そして勇太は最上級の笑顔をで言った。

「いつもありがとう」

 零はきょとんとした後に、にっこりと笑った。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
 零さんの笑顔にいつだって助けてもらっていた。
 これからもその笑顔に救われていくのかもしれない。
 それでも零さんは、きっと気付かないんだろうな…。

 その笑顔になにより強い力があるかなんて…。