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ピアノ葬送曲
<無題>の記事がある。
私は、古の時代から、そのお屋敷の大きな部屋の真ん中に住んでおりました。天井がとても高く、窓はステンドグラスで飾られて、太陽の光はいつでも眩しく私を照らしていました。
私はピアノです。そのお屋敷のご主人に買われたピアノです。ある日、私を弾いたのは、白いドレスに身を包んだお嬢様でした。次の日私を弾いたのは、美しい指をしたお母様でした。その後私を弾いたのは、お嬢様のお友達でした。しあわせな日々が何日も続き、私はこのお屋敷に住めたことを本当に嬉しく感じていました。
ところがある日、ご主人が亡くなりました。それからのことです。あっという間に、お屋敷から人はいなくなりました。お母様は別のお屋敷へ、お嬢様は親戚の方へ引き取られていきました。
そして、私はお屋敷に一人取り残されることになったのです。お屋敷には誰も入れないようになっていました。鍵が掛けられ、窓も閉められ、差し込んでいた太陽の光の色も、そのうち忘れていきました。
ずっとずっと時間の経った後です。
いえ、私はピアノですから、皆さんからすればほんの少しの時間だったかもしれませんが。
お嬢様のお友達が、扉を開けたのでしょう、大広間にひょっこりとやってきたのです。
彼は、お嬢様が引っ越されたことを知っているはずでした。それなのにここにやってきた。何故だったのでしょう。私はまだ人間の言葉がわかりませんでしたし、彼も何も話しませんでした。
ただ、埃を被った鍵盤を、弾き始めたのです。その曲が、私の心へある感情を伝えてきました。いとおしさとさみしさです。
……その日には、私にとっても彼にとってもひとつ不幸なことがありました。お屋敷が燃される日だったのです。入り口から火が点けられ、周りからも火が放たれ、瞬く間に廻りは炎に包まれていきました。
ですが、私の鍵盤を引き続ける彼は、その手を止めませんでした。黙々と演奏を続けていたのです。
私と彼は死にました。跡形もなく焼かれてしまいました。ですので、彼が亡くなったことは、彼の家族には伝えられておりませんし、お嬢様も知りません。行方不明であるということは伝わっているかもしれませんが。
なぜお屋敷が燃されたのかは、わかりません。普通のことなのでしょうか?
そして、残念なことがもう一つ。
……彼は自縛霊となってしまいました。
私に取り付き、夜な夜な葬送曲を弾きつづけています。いとおしさとさみしさが溢れ出すような曲です。人間の言葉は通じるようです。ただ、人々は、幽霊が弾く幽霊ピアノの曲に怯えて近づいてきません。……ええ、私も幽霊として、この地に残ってしまっています。
また、お屋敷にも意志があったようで、恨みからか他人を惑わす術を掛けているようです。私が見る限りでは、近づいてきた人間に石の破片をぶつけ、また時間が経つとお屋敷の敷居の外へ追い出してしまう魔法を使うようです。お屋敷の敷居へ辿り着くにも、夜の間だけでないとなりませんし、音楽が聞こえて来る方向が正しい方向とは限らないようです。
お屋敷も……さみしかったのでしょうか。お屋敷の所謂本体は、私の傍、焼け残った大黒柱に宿っているようです。
ここに書き込みをさせていただいたのは他でもありません。
どうか、彼を空へ還して上げて下さい。お嬢様もそれを望まれていることと信じております。お嬢様と彼を、同じ場所へ連れて行ってください。私の居るお屋敷跡については、この書き込みをしてくれた黒電話に伝えてあります。
どうか。宜しくお願い致します。
それだけの書き込みだった。レスもURLもメールアドレスも、ひとつも付いていない。ただ、記事の最後に、ある喫茶店の住所が書いてあるだけ。この記事にある、人知れず聞こえて来る音楽の話は、他の記事にもあった。別の怪奇現象を集めた雑誌にも、そっと紹介されている。
人ならざるものは、待っているのだ。自分たちを救ってくれる者が現れるのを。
…
住所を頼りにやってきたのは、小ぢんまりとした喫茶店だった。一人で掃除をしていた店員は、あなたに気が付くと、カウンター席を勧めた。すぐ隣に黒電話がある。
メニューを取りに行ったのだろう、店員は店の奥へと入っていた。すると、電話が鳴る。しばらくの間ベルが鳴るのを聞いていたあなただが、ベルは鳴り止まない上に、店員は戻ってこない。仕方なく受話器をとることにした。
「キミたち、ピアノの書き込みを見た人?」
喫茶店で手にした電話から、ノイズ交じりの声がする。どうやら、声の主は少年のようだ。あなたが返事をすると、ふうんと鼻を鳴らした。
「じゃあ、ピアノのことは頼むよ。地図は持ってる? 店員に聞いて」
ちょうど、喫茶店の店員が戻ってきた。あなたが用件を伝えると、彼は一枚の地図を差し出した。広げると、いびつな赤丸がひとつ付いている。
「この森の中に……うん、森の中にそのお屋敷があったんだ。今は、瓦礫の山になってるんだよね。で、ピアノも亡霊も、その真ん中に残ってる」
そこまで言うと少年は……彼が『黒電話』であることは間違いないはずだ……黒電話は、小さくうなった。携帯電話のバイブ音に似ていなくもないうなりだ。
「気になることがある。まずは屋敷のことだね。あいつは意地っ張りで、頭が固くて、気難しい。だから、燃やされたことをまだ根にもってるんだ。説得したけど、僕じゃだめだね。自分が燃やされる理由はなかったって、その一点張りだね。人が来ると、また傷つけられるんじゃないかって思い込んでるから、攻撃してくるんだ。ピアノのいる広間に近づくにつれて、攻撃は強くなるよ。気をつけてね、OK?」
そこまで一気にしゃべると、彼は息を吐いた。身体の中のあくを吐き出すような息。
「次は、屋敷が焼かれたことについて。どうもおかしいって、僕は思う。まわりは森だろ? それに、なんで普通に解体されなかったんだろうね?」
一瞬の沈黙。「解体は、そりゃ、いやだけどさ」と、ぼそぼそつぶやいている。
「とにかく、屋敷を撤去するにしては変な方法だって思うだろ。僕は、人がやったんじゃないかと思ってる」
ちきちきと混じるノイズの中、黒電話は確信を込めて言った。
「キミには、もちろんピアノたちのことも頼むけど……その謎の部分も解いて欲しいんだ。もう『屋敷』に愚痴られるのは勘弁だね」
あなたが了承すると、少年は「それじゃあ」と電話を切った。感情のない電子音。
「さて、どうなさいますか?」
隣に立っていた店員が、メニューを差し出した。
…
「じゃあ、全員図書館に向かうってことで……いいか?」
少年が振り向く。二人の少女が、応えるように頷いた。
黒電話に呼ばれ喫茶店に集ったのは、三人の高校生だった。一人は、先頭を歩く工藤・勇太。その後ろに着いて行くのが、双子の姉妹……日高・晴嵐と日高・鶫だ。
姉の晴嵐が、組んでいた両手を解く。
「ええ。まずは情報を集めてから。お屋敷に向かうのはその後にしましょう」
図書館での情報収集を提案したのは勇太だった。
黒電話との通話を終えた後、三人は喫茶店のテーブル席に移り、それぞれの指針の意見交換を行った。
結果、三人の意見はほぼ一致した。その内のひとつが、現場に向かう前に情報収集を行うこと、だった。
「図書館なら、火事が起きた当時の新聞も保管しているはず。日付も住所も調べたし、ネットも使ってみようか」
鶫の申し出に同意する二人。飲んでいたコーヒーや紅茶のカップを置き、店員に礼を言う。
「事件解決こそ、お代にふさわしい、です」
店員はそう言って、彼らを見送った。
都内の図書館。広さもさることながら、蔵書や館内施設の質は随一だ。案内を見れば、新聞のバックナンバーのコーナーも、インターネットにつながるパソコン室も、すぐに見つかった。
さて、と、鶫が息をつく。
「私はネットで事件のことを調べてみる」
「俺達は、新聞を捜してみるよ」
「よろしくね、つぐちゃん」
新聞バックナンバーのコーナーで、三人は別れた。パソコン室の扉が閉まる音。勇太と晴嵐が、別々の新聞を手にする。事故の起きた詳しい日付は解らないが、年数と季節だけは教えてもらっている。
新聞をめくる音。ある三か月に的を絞ったとはいえ、その量は膨大だ。朝刊、夕刊。火災の文字が目に付いたら、教えてもらった住所と照らし合わせる。本文には軽く目を通すだけにとどめ、すぐに机へ積み上げる。
数時間後、勇太と晴嵐の手が止まった。最後の新聞へと、ようたく行き当たったのだ。火災を取り上げた新聞は、調べた新聞の数よりもずっと少なかった。最も大きくて三面、たいていはそれよりずっと小さな欄にぽつんと取り上げられているだけだった。
「これで日付は絞れそうだな」
それだけでも、十分な情報になる。
勇太が、適当な新聞を取り上げた。火事の記事を調べる。日付を確かめ、持ってきた小さいメモ用紙に書き取る。
「つぐちゃんにメールしておくわ」
テーブルの下でこっそりと携帯を開き、メールを打つ晴嵐。
「俺は、とりあえずこれをコピーしてくる」
束にした新聞を振ってみせ、小声でささやく勇太。晴嵐が小さく同意したのを確かめて、財布を鞄から取り出す。幸いにも小銭に余裕があった。
(これって、領収書持ってけば返して貰えたり?)
そもそもコピー機に領収書があるのか。首をかしげながらも、蓋を開けて新聞紙をセットする。自腹だとするなら、失敗はできない……などと考えながら。
コピーが終わった。新聞紙の山が待つテーブルへ戻る途中、晴嵐とすれ違った。手に持っている束の厚みからして、自分だけですべてのコピーを済ませてしまうつもりらしい。頼みます、という意味のお辞儀をすると、まかせといて、という笑顔が返ってきた。
勇太はパソコン室の扉を開けた。鶫はプリンタの隣にいた。彼女は一人でネットの情報を整理していたはずだ。まわりに利用客がいないことを確認すると、勇太はかるく手を挙げて鶫を呼んだ。
鶫によれば、情報のまとめはもう少しで終了。先に集めた情報をプリントアウトして、勇太と晴嵐のところへもっていくつもりだったらしい。勇太は手伝いを申し出た。いくつか開かれていたニュースサイトの情報をまとめ、印刷ボタンを押す。データは無事にプリンターへ送信されたようだ。
鶫に手招きされ、プリンターのそばに歩み寄る。
「いくつか情報はあったんだけど、このあたりが確実かな」
印刷されたコピー用紙に、ざっと目を通す。いくつかのサイトから抜粋されたもののようで、特に犯人像の憶測や、屋敷の使用人、関係者の発言が記載されている部分が多かった。
「そっちは?」
「晴嵐がコピーしてる。一応、それっぽい記事はあった」
二人の会話をBGMにしながら、プリンターが静かに紙を吐き出していく。ニュースサイトの次にプリントアウトされたのは、おどろおどろしい背景を背負ったホームページだ。
「オカルト関連のサイトでも、あの屋敷は話題になってたね。小さくだけど」
それを聞き、勇太がため息をつく。
「俺、それ見るのはパスしたいな……」
一瞬きょとんとした鶫だったが、わずかに間をおいて、小さく笑った。
「意外だな、なんか」
「そういうサイトとかだと、ワザと怖く書かれてたりするんだよ」
「それじゃ、これは私と姉さんで読むよ」
書類を持ち上げ、机をぱたぱた叩く。
「オカルトサイトの分はこれだけ。他のは勇太に任せるよ」
「おう」
静まり返ったコンピュータ室でプリンターの作動音を聞きながら、無造作に広がっている資料を適当な束にする。最後の一枚のプリントアウトが終わるのを待ち、二人で部屋を出る。ちょうど新聞紙のコピーも終了したらしく、晴嵐が新聞を元の棚に戻しに行くところだった。
鶫が晴嵐を手伝い、勇太がそれぞれのコピーをまとめる。空いた机を見つけ、椅子を引く。コピー用紙の枚数は多くない。
持ってきたカバンの中からペンを取り出したところで、日高姉妹が戻ってきた。
「どうする? とりあえず、適当な記事から見ていくか?」
「まずは、これかな」
『――区高台にて、火災発生』と書かれた小さい記事だ。三人がペンを取り、各々が気になる部分に下線を引いていった。有用な情報の他、役に立ちそうもない文章もある。「記者の主観が入っている」と晴嵐が諭すこともあれば、「今回は気にしなくてもいい」と勇太が首を振ることもあった。「これはウソ」と、鶫が言い切ることもあった。
情報の整理が進んでく。持ち寄ったノートに、有力な情報をまとめる。その中の一行に、鶫が線を引いた。
『火災による犠牲者はなかった』
「やっぱり、そこが気になるよな」
勇太が顎に指を当て、首をひねる。手近に合ったコピーを手に取り確認すると、そこにも『幸いにも、死傷者はゼロ』という一文が載っていた。
「見つからなかった、っていうことだと思う」
遺体が、とは言わず、しかしはっきりと言う。
「それとね。これも見つけたの」
晴嵐が指差したのは、別のコピー用紙だ。日付と、一部の記事に赤い丸が付いている。火事のあった三日後の夕刊だ。
『――さんの長男、数日前から行方不明』
地方のピアノコンクールで準優勝に輝いた将来有望な少年が、家族に行き先を告げず外出し、戻らない。小さな記事だった。彼の住所と、両親の名前が載っていた。
記事によれば、彼がいなくなったのは、火災があった日の前日。
「どう?」
まっすぐな晴嵐のまなざしが、代わる代わる二人を捉える。うーん、と、勇太が唸る。
「彼が『見つかった』っていう記事は載ってないのか?」
「同じ会社の新聞を、一か月分調べてみたの。でも、だめだったわ。他の新聞には、行方不明事件そのものが載ってないみたい。大きな事件じゃないから」
「少年が見つかったけど、新聞に載ってない……っていう可能性もあるよね」
「うん。それは、これから現地で調べてみたいの」
鶫に頷いてみせる晴嵐。勇太がテーブルに両肘を付いた。
「でもこれで、お嬢さんの友達が――たぶん、その行方不明になった少年ってのは、友達で間違いないと思う。――そいつが、自分の意思で家を出て行った……と考えていいんだろうな」
「そして、遺体は見つかっていない。もし、……火災に巻き込まれているとすればね」
鶫は言いづらそうだった。それを責めるでもなく、勇太が言葉を続ける。
「それがたぶん、『お屋敷の霊』の仕業なんだろうな」
「うん、そのとおりだと思う」
控えめに、しかし力を込めて頷く晴嵐。鶫も小さく同意の声を上げる。
「オカルトサイトの方はどうだった?」
勇太が鶫へ振り向いた。鶫は「んーと」とつぶやき、手元にあるメモの文字を読み上げた。
「場所が場所だから、あまり情報はなかったね。“噂の噂”が一番多かった」
「ネットだしな」
頬杖を着いたまま苦笑する勇太。
メモ帳のページをめくる音。
「ただの『事故現場』として扱ってるところと、『特殊な力』……これはたぶん、お屋敷や少年の霊力のことだと思う。『特殊な力のある場所』って紹介しているところがあった」
「『事故現場』として扱っているのは、ニュースサイトね。こっちの情報は、新聞の記事と似たり寄ったりだったわね。『特殊な場所』だと扱っているのは、オカルトサイト。『怪奇現象』として紹介しているのは……依頼主の黒電話くんがくれた情報とほぼ一緒ね」
テーブルの端を見つめ、ため息を飲み込む晴嵐。
「でも、新しい情報がひとつだけあるわ」
「霊の攻撃方法だよ。まとめといたから見ておいて、勇太」
勇太が受け取ったメモには、罫線いっぱいに書かれたボールペン文字が並んでいた。上から下まで目を通す。線の強弱と大きさで、姉妹どちらが書いたか一目でわかってしまう。こみ上げてくる小さな笑いをこらえ、勇太が礼を言った。
他、彼らが取り上げた情報はこんなものだ。
自然発火するような危険物は、屋敷に残っていなかった。屋敷に住んでいた住人達が恨まれていた覚えはないし、外部とのさまざまな問題は屋敷から人が出て行く前に片付いていた。立ち退きを強制されていたわけではない。火災さえなければ、あの屋敷と土地は売ってしまうつもりだった。あれから、屋敷の関係者が出入りしていた様子はなかった。
「本当に放置されていたんだね」
鶫が首を振る。
「そりゃ、お屋敷も怒るわけだ。ほっとかれたと思ったら、いきなり火事だよ?」
「お友達の霊がお屋敷に受け入れられているのも、お屋敷が……うーん……安心したから……、なのかもしれないね」
「でもさ、もうお嬢様はいないじゃん」
机に突っ伏した勇太が、唇をわずかに尖らせた。
「それなのに、最後の味方を囲って、守り続けて。それって、どうなんだろうな」
鶫と晴嵐は顔を見合わせた。
「それを教えてあげに行きましょう、みんなで」
音を立てないように椅子を引き、立ち上がる。晴嵐を追うように席を立つ鶫。
机に突っ伏したまま考え込んでいた勇太は、二人がコピー用紙を束ねるのをぼうっと見ていた。あっという間に半分のコピー用紙がきれいに整頓される。最後の書類を整える、机にぶつかるとんっという音で、ようやく我に返る。
「あー、悪い。考え事してた」
身体を起こし片手で頭を掻き、深呼吸。勢いよく椅子を弾き飛ばし――かけて、
「よし。行くか」
そっと手を添えるに留め、にっと笑って見せた。
…
「ああ、あの時の火事ね」
火災があった街で事件のことを尋ねれば、誰もが最初にそう言った。すごい炎だった、空が焼けていた、真っ赤な光が見えた。屋敷のある森からわずかに離れた町での火災の認知度は、その程度だった。しかし、近所の高台で起きた火災である。すぐ目に入る高台が炎に包まれているのを見て不安がる人々も少なくなかった。
「森には引火しなかったの。こっちまで飛び火したらどうしようって思ってたから、ほっとしちゃったわ」
そう言った女性も居た。
今でも緑の残る活気ある森とはいえ、長時間にわたって火災が起きたなら引火してもおかしくない。心配するのも当然だろう。
最後まで、ほとんど有力な情報を手に入れることはできなかった。屋敷の事情を知る者はおらず、火災の原因の詳細を掴んでいる者などいなかった。
しかし。街を歩き始めてから数十分。通りがかった女性が、お屋敷の話を聞き、「ああ、それなら」と手を叩いた。
「あのお屋敷の使用人さんなら、この先のお家にお住まいよ」
夕飯の材料でいっぱいになった手提げを揺らし、彼女は身振り手振りを交えてその家を教えてくれた。
日の落ちてきた空を見上げ、案内された道を歩く。
「なんとなく、なんだけれど」
雲の流れを追っていた晴嵐が、目を伏せうつむいた。
「その、お嬢様の友達は、火事が起きるのを知って、あのお屋敷に行ったんじゃないかしら」
言葉を選ぶように少しずつ、推理の断片を零す。
その隣で空を見上げていた鶫がふいにつぶやく。
「火をつけたのって、そのお友達だったんじゃない?」
夕日を眺めていた勇太が眉をひそめ、彼の影を眺めていた晴嵐が顔を上げた。
「お屋敷によく出入りしていたんなら、引火を防ぐための……そうだな、灯油の量なんかを、適当にできたのかな、って」
そういい終わった後に、はっとする鶫。ごめん、物騒だったよねと、苦笑する。
「もし、そうだとするなら、どうして」
勇太が口ごもった。だが、それも一瞬のこと。
「いや。それを解き明かすのも、俺達の仕事なんだよな」
夕日から目を逸らさずに、まっすぐに歩を進める。足跡の代わりに、三人の影が道路に伸びていた。
その家は街の中心からわずかに外れたところにあった。インターホンを押す手前で、戸惑う。どう説明すれば取り合ってもらえるのか――。そう相談していた中で、鶫がメモを取り出した。屋敷のお嬢様に関しての項目を指差す。
鳴り響く玄関チャイムの音。スピーカーに告げるのは、私立中学校の名前。同じ部活仲間です、火災のことがどうしても気になってしまって個人的に調べているんです。多少警戒されはしたものの、三人の真摯な態度を無碍にすることなく、家主は扉を開けてくれた。
「私達も、どうしても取り戻したいものがあって、あの場所を調べてみようとしたんですが」
彼女は丁寧に、申し訳なさそうに言った。
「焼け跡に近づくと、妙なことばかり起こるんです。ピアノの演奏が聞こえてきたり、瓦礫やレンガが飛んできたり。私も体験しました。普通じゃないこと、です。ですから、もうあの場所には近づかないようにしよう、と」
「他も……ええと、あなた以外の方。例えば警察なんかもあの場所へ行ったんでしょうか?」
「ええ。放火の可能性もあると言うことで。……しかし、調べに行った警察官も、青い顔をして戻ってきて……。それ以来、私や警察はあの場所に近づいていません」
あなた達も、できたらあの場所には近づかないように。わずかに表情をこわばらせた晴嵐が「約束します」と頷くと、家主はほっと息をついた。
「それと、非常に立ち入った話になってしまうんですが」
鶫が緊張した面持ちで切り出す。
「お嬢様は、それから……引っ越してから、どうされたんでしょうか?」
使用人の表情が曇った。
「お嬢様は、亡くなられました。大人になってから、お屋敷に戻ってくることになっていたのですが……」
三人の間の空気も、ふっと重くなる。
「私は、しらせを受け取っただけなので……詳しいことは存じ上げません」
顔を伏せて、悲しげに言葉を紡ぐ。三人は顔を見合わせた。彼女の言葉に嘘はないはずだ。そう、無言のうちに確かめ合った。
では、と、晴嵐が小さく咳払いをする。
「あなたの他に、使用人は雇っていらっしゃいましたか?」
「はい。少数ですが」
「その人達と連絡は?」
「残念ながら……。使用人同士で連絡を取り合うことは、当時もあまり多くなく……。住所は知っているので、手紙を書くか、今からそこを訪ねれば会えるかもしれませんが、引っ越した方もいらっしゃるかと」
この近くに住んでいるあのお屋敷の関係者は、彼女だけだった。他の者だけが知りえる情報はあるか、それを持つ人はいるかと問えば、主人の秘書の名を挙げる。しかし彼は遠方へと越していた。簡単に訪問できる場所ではなく、手紙の返事もいつになるかわからない。彼が仕事のために持っていた携帯電話の番号は、すでに使用されていなかった。
(向こうとこちらを行き来する渡り鳥さんなんて、めったに見つからないだろうし)
晴嵐がひそかに眉を曇らせる。空には闇が差し始めている。
これ以上、家主に時間を割かせるわけにもいかない。鶫と勇太が使用人に礼を言うと、彼女もすぐに正面を向き、深く頭を下げた。
「お嬢様とお屋敷のこと、私の分も調べてください。よろしくお願いしますね」
細かいしわの刻まれた顔をほころばせ、婦人は三人を見送った。
三人は森へ向かった。住宅街の奥にある高台の、コンクリートの側面。そこに刻まれた階段を、ひたすら上る。途中で晴嵐の休憩に付き合いながら、街を見下ろした。
「お嬢様もお友達も、みんなこの階段を上ってたのかな」
階段の中腹に差し掛かったところで、鶫が独り言のように言った。
高台には、森と屋敷の跡しかない。ましてや屋敷はいまやいわく付きだ。好き好んでこの階段を上る者はいないだろう。
これから街の人々は屋敷を忘れ、火災を忘れ、階段を忘れ、そこに住んでいた人々を忘れていくはずだ。
「姉さん、もう大丈夫?」
視線を晴嵐に戻す。
「うん、大丈夫。行こう、二人とも」
細い指で手すりを掴み、息を整えて、三人は再び階段を上り始めた。
森のにおいがする。土と緑の混ざり合った、しめったにおいだ。人の気配も、動物の気配もない。重量のある静寂で満ちた森だった。黒い土を踏みしめて、三人は歩く。
晴嵐は、この森に住む鳥達の意識を探していた。彼女の念能力が周囲を駆け巡り、鳥達にそっとささやく。
「ここにあったお屋敷のことを知ってる?」
眠っていた鳥達が、小さく返事をする。
『お母さんは失意のままに、お嬢さんは未来に怯え』
『固い絆で結ばれた、三人だけの家族でも』
『大きな力にゃ逆らえない』
『知っていたのはこの森の、お部屋と小さなピアノ弾き』
その言葉を受け取った瞬間、彼女の足は止まった。勇太が手振りで二人を制したのだ。
「たぶん、近い」
鶫が勇太の隣にそっと踏み出し、身を乗り出して遠くを見つめる。
道の先の開けた場所、人為の影と形が消えかけた広場の真ん中に、淡く光るものがあった。
…
白い柱。白いピアノ。白い服を身につけた少年。古びたタイルに乗る彼らはわずかな光を纏い、風化した瓦礫の中に浮かび上がっていた。
「ここから一歩踏み出せば、『お屋敷』の領分だな」
勇太がローファーで地面をつついた。硬い音が鳴る。目を凝らしてみると、土に半分埋もれている白いレンガが、ローファーのつま先にぶつかっていた。どうやら、ここはお屋敷の庭の入り口だったらしい。森の道を覆うレンガは火災を免れたらしく、焼け跡などは見られなかった。今でこそ、夜の闇と灰交じりの土に覆われてしまったが、ここには立派なレンガの道が広場に向かって伸びているのだろう。
いまやその行く先に屋敷の原型はなく、焼けて崩れた瓦礫と、天井と共に崩れ落ちた細い柱だけが残されていた。それらは、少年とピアノと柱の光にてらされ、ぼんやりとした光の輪郭に縁取られていた。
ピアノの旋律が聞こえてくる。細く甘く、冷たい音。かすかな音だった。物音ひとつしない森の中で、耳を澄ませばようやく聞こえてくるくらいの音量。
『今日は』
晴嵐の頭に、小鳥の声がささやく。
『悪い人がいないから』
『あなたはいい人達』
『だから愛の歌を、二人とも歌ってる』
二人。おそらく、少年とピアノのことだ。彼らが奏でる音以外は、聞こえてこない。
「行くよ、姉さん、勇太」
空に浮かぶ月を見上げ、鶫が拳を握る。
「そうだな。このままぼーっとしてたって、何も解決しないもんな」
「その通り、だね。あの意地っ張りな柱にも言ってやろうっと」
腕を回し屈伸する二人の後ろで、晴嵐がくすくすと笑う。
そして三人は、誰からともなく歩き出した。
靴の底がこつこつ鳴り、時々灰を踏み、炭を砕く。森の道は終わり、視界が開けた。今尚煤臭い焼け跡の真ん中で、ピアノの演奏を続ける少年。
少年は演奏をやめた。鍵盤の上で止まった細い指は白く、そのまま溶けて象牙の一部になってしまいそうだった。髪も肌も服も真っ白だ。全身が完全に同化している、純白のシルエット。
「と、いうよりも」
少年の意識を探っていた勇太が、心の中でつぶやく。
「あいつとピアノ、融合し始めてる?」
なぜそうなったのかまでは、まだ解らない。
少年の顔の真ん中に、黒い瞳が現れる。閉じていた双眸を開き、三人の客人を順々に眺めた。
そのとき。三人の頭に、ぴぃーんと糸を張るような音が響く。それと同時に、周辺の瓦礫が宙に浮かんだ。屋敷もこちらを感知したのだ。
勇太が身構え、鶫が腕を前へ突き出す。鶫は精神統一を行っていた。念能力により作られた光の刀が、彼女の両手に握られる。とたん、その流れる漆黒の髪が、風に吹かれた稲穂のように滑らかに、銀色へと変化していった。晴嵐はともかく、勇太がその変化に目を見張ったが――彼もまた超能力を持つ者。一切言及せず、再び正面を見据える。
こぶし大の礫が、三人目掛けて襲い掛かる。が、その速度は次第に緩まり、三人の目の前で止まった。勇太が腕を振ると、礫が押し戻され、弾き出される。続けていくつもの瓦礫が降り注ぐが、勇太のサイコキネシスの前ではなすすべもない。見えない壁ですべて受け止め、すべて弾き返す。
太陽が沈みかけた時のことだ。三人は森の入り口で、それぞれの作戦を口にした。
月の下、この調子で進めば、三人全員の目的が達せられるだろう。
鶫に目配せをした後、勇太は瞑想に入る。目を閉じて、辺りの残留思念を探る。かつてこの屋敷に住んでいた人々の思いが、勇太の心へ伝わっていく。その中でも、火事が起きた当時のものを探すため、意識を集中させる。
その邪魔をさせないように刀を振るうのは、鶫だ。四方八方から迫り来る瓦礫と岩の礫を、次々と切り払っていく。その刃の切れ味は、瓦礫の断面を見れば嫌でも解る。屋敷からの攻撃で、そして自らが振るう刃で味方を傷つけないために、彼女の剣舞は密やかで、静かだった。剣の先を使い、瓦礫に込められた怨念を切る。
思念と思念がぶつかり合うとき、より強い思いの込められた方が残る。念を集中させた刀が、細かく分けられた怨念によって操作される瓦礫をものともしないのは当然だ。
しかし、刀で捉えられないほど小さな瓦礫の攻撃を受け止められないのも事実。細かな石であれば、勇太が無意識のうちに発動している超能力で弾き返せる。だが、刃の切っ先とサイコバリアをかいくぐり、三人にダメージを与えることもあった。
「――っ!」
鶫が表情を歪める。すかさず晴嵐が手をかざし、彼女の癒しを願う。鶫の出血はすぐに収まり、傷が塞がっていく。
互いを守りあい、三人は少しずつ進んでいく。決して敷地を傷つけることの無いよう、いっそう慎重に。
飛び回る瓦礫の真ん中で、広場のピアノに手をかけながら、白い少年は三人を見ていた。
勇太は、彼の周りの思念を探った。少年のたたずむ広場は、ほぼ屋敷の思念に支配されていた。
(でも、)勇太が目を開く。(屋敷は『お屋敷』だけのものじゃない)
彼が見たのは、かつてここで暮らしていた人々の思い。そして、あの火事を発生させた張本人の思いだった。
「鶫、晴嵐。あいつに言ってやりたいこと、教えてくれ」
先に口を開いたのは晴嵐だ。
「もうあなたを傷つける者はいない、この場所を守り続けなくてもいい、と」
伝えてください。琥珀色の瞳がまっすぐな輝きを放つ。
「私も同感」
刀を正面に構えたまま、鶫が頷く。
「この場所にいなくてもいいんだ。あなた達の新しい居場所を、私も一緒に探してあげる」
尚も降り注ぐ瓦礫をいなし、破壊しながら、よく通る声でそう言った。
勇太は深呼吸をした。二人の声と自分の意識と、お屋敷に残る思い出をつなぎ合わせる。そしてそれを『お屋敷』への意識へと流し込む。勇太の強い思いを乗せて。
(ここにいれば昔の幸せが戻って来るって、思ってるんだろ?)
『お屋敷』が抵抗しているのがわかる。
「いつまでもここに居ちゃ駄目だ。アンタ達のお嬢様だって、そう思っているはずだ!」
ぽん。
と、音が鳴る。
飛び回っていた瓦礫が、静止する。奇妙な光景だ。焼けたレンガに四方八方を囲まれて、広場の入り口で立ち尽くす三人。白い瓦礫は夜空を背負い、まるで星のようだ。ただ、古い灰から立ち上る焼け焦げたにおいだけは、醜い。あんなにも白く輝くピアノの、一音が灰に消えていく。
少年は無言のまま椅子から立ち上がる。足取りからして、敵意がないのは明らかだった。
ぽん、と、再びピアノが鳴る。
広場のタイルから下りる少年。彼の前に浮いていた瓦礫とレンガが、道を空ける。
鶫が念を解き、刀が光となって散る。勇太も、超能力の盾を解除した。
「あなたは、お屋敷が燃やされたときからここに?」
姿勢を正し、晴嵐が少年に訪ねる。彼は頷いた。そして、黒い瞳があるだけの顔で、三人の顔を見上げ、覗き込んだ。
「アンタ、どうしてずっとここに? ずっとここに居たって、仕方ないだろ。『お屋敷』も。『ピアノ』だって」
勇太がそういいきる前に、少年は広場へ向かって駆け出した。逃げた、というようには見えなかった。ためらいながらも、三人が後を追う。
広場――いや、ピアノの置かれていた部屋には、まだ家具が残っていた。そのうちのひとつを、彼が指差す。その戸棚に一番近い場所にいた鶫が、指差されるがままに引き出しを開けた。
「あ」
と、思わず声が出てしまう。晴嵐と勇太が駆け寄る。そこには、真珠やルビーやサファイヤや……いまだ輝きを失わない宝石達が眠っていた。別の棚にも。
勇太が、棚に残る残留思念を探った。
『これは、あなたがお嫁にゆく時、持って行くのよ』
『これは、お父様に買っていただいたネックレス』
『これは、いつかあの子と一緒に付ける指輪』
『これは、娘のために取っておく真珠』
棚だけではない。宝石ひとつひとつに、そこにしまわれたもの一つ一つに、それぞれの思い出が詰まっている。いくつかの宝石を調べてみるだけでわかった。
「あなたは、これを守るために?」
「いや、違う」
晴嵐に返事をしたのは勇太だ。彼は広場からはずれ、焼け落ちた『部屋だった場所』へと向かう。
「ここに残ってる思念。たぶん、火事が起きたすぐ後の思念だと思う」
勇太がつぶやいた言葉、ここに残る思念は、悪意に満ちた言葉ばかりであった。お屋敷やその主に向けての敵意は少なく、ただ、この焼け跡に残された宝石を拾い集める、汚い欲の痕跡が残っていた。
『お屋敷』が怒り、守り続けていた物は、その思い出だった。自分が守れなかった思い出に怒り、この部屋に残された最後の思い出を守っていた。
「それじゃ、あなたは? 一体、どうしてここにいたの?」
晴嵐が膝を曲げ、少年と目を合わせる。
「もしかして。お嬢様のところに、お家とピアノと一緒に……行きたかった?」
少年が頷き、ピアノが鳴る。
「だからって、こんなこと」
鶫が渋い顔をする。少年はわずかに目を伏せ、うつむいた。
「ねえ。この子、なんて言ってる? あなたならわかる?」
「ん。それが」
晴嵐を振り返り、勇太が首の後ろを掻いた。
「こいつとピアノの思念が混ざり合ってて。こいつはもう、ほとんど物質みたいなものらしいんだ。だから、はっきりした言葉がない。なんとなく、こうかな、っていう感じでならわかるけど……」
「いいよ、もったいぶらなくて。で、こいつはどうしたんだ?」
勇太の肩を叩く鶫。
「えーと。守るためにやったことが、傷つけた。だから今度は本当に守る。……だって。それと、悲しいとか、愛しいとか……いろいろ抱えてるみたいだな」
目を閉じて意識の同調を図る勇太が、ぽつぽつと語る。
「でも、もう大丈夫」
勇太の声にピアノの音が重なる。
「思い出は全部、行くべき場所へ。ってさ」
目を開き、顔を上げた。
とたんに、三人は目を見開く。ピアノと少年は、跡形もなく消え去っていた。
残っているのは屋敷の焼け跡だけ。焦げたタイルと崩れた天井と、灰の山。大黒柱。そして、部屋の隅に置かれた宝石棚。
朝日が昇ろうとしている。
三人が散り散りになった。それぞれが思う彼らの思い出を、あるべき場所へ還すために。
…
「で、業者の方はなんだって?」
勇太が、テーブルにひじを付きながら言う。再び喫茶店に戻ってきた三人が、それぞれが後にとった行動を報告し合っていた。
「いわくつきってところで渋ってたけど、そういうのを集める博物館があってさ。そこの『柱』として、使ってもらえるって」
鶫が提案したのは、『お屋敷』の大黒柱を、どこかの施設で再び利用してもらうことだった。ひとまずその道の人物に浄化してもらい、表面を丹念に磨き上げ、引き取り先を探した。その引き取り先というのが、アンティークを集めた博物館。館長が、いわゆる物好きだったのが決め手だ。
「宝石は、使用人さんに渡しておきました」
晴嵐が穏やかな微笑みを浮かべる。
「あの宝石は、それぞれの持ち主の元へ返すそうです。ご主人、お母様、お嬢様……きっと喜んでくれていますよ」
「ああ。あいつらもな」
霊が消えたということは、心残りもなくなったということ。彼らは自身が思い出で出来ているようなものだ。あるべき場所へ帰るというのは、彼らが本当にいるべき場所へ行くということ。もう再びこの世に姿を現すことはないだろう。
(というよりも、現さないように、この世の俺達がどうにかしないといけないんだけど)
決して簡単なことではないが、不可能でもない。
「それで、勇太は? ご両親は、受け取ってくれた?」
「ああ」
勇太は、少年の遺骨を拾った。彼の骨は、ピアノが不思議な力で守っていたらしく、広場の真ん中に……ピアノの残骸に埋もれるようにして、残っていた。全焼してもおかしくない火災が森中に広がらなかったのは、もしかして『思い』のせいだろうか。と、誰もが一度は考えた。
「納得させるの、大変だったけど。使用人さんが手伝ってくれて、鑑定もして。それでちゃんと、かえしてきた」
俺、こういうのに弱いんだよな〜。ため息をつきながらも、どこか満足げな表情を浮かべ、笑う。
「お電話です」
突然、店員が三人の座るテーブルに近づいてきた。指差す先には黒電話。保留、に、なっているのだろうか。とりあえずと立ち上がった勇太が受話器に耳を付け、しばらく耳を澄ましていた。が、すぐに二人を呼び、かわるがわる、受話器から流れるメロディに耳を澄ました。
ピアノの旋律。悲しさの一切ない、愛しさと喜びのメロディ。
録音できないことを恨みながら、三人はそれを聞き続けた。言葉にならない気持ちを浮かべ、言葉にならない気持ちを受け止めながら。
おしまい
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