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夢抱く朝の。〜君見る夢に
死んでから、失ったものはたくさんある。失ったものを、まだ惜しむ事が出来るのは幸いであるかも知れないが、惜しんだところで決して取り戻す事は出来ないのだと、日々思い知らされるのはただ、寂しい。
もう死んでからしばらくになる来生・一義(きすぎ・かずよし)にとっては、すでにそれを悲しみ、苦しみ、辛いと思う気持ちはとうに通り過ぎた感情だった。或いは死んでからも弟の守護霊としてずっと傍に居たおかげで、それほどゆっくり悲しみに浸っていられなかったせいもあるかも、知れない。
けれどもやはり時々、惜しむものは、ある。それは例えば、年末年始の買い出しに出かけた街角で、楽しげに初夢について話しているのを小耳に挟んでしまった時。
(夢、ですか‥‥)
初夢。年が明けた最初の夜に見る夢。地方によっては1年の吉凶を占う意味もあり、一富士二鷹三茄子、と言われるように、縁起の良い夢を見れば見るほど素晴らしいのだと言う。
街角で立ち話の少女達が盛り上がっていたのは、そこまで本格的なものではなかったけれども、初夢に大好きな○○クンの夢が見たいとか、アイドルの××が夢に出て来たら良いのにとか、そんな可愛らしいもので。何かで読んだか、誰かから聞いたのだろう、良い初夢を見れるおまじないがあるらしいよ、という話題に花を咲かせて居た。
夢ですか、と胸の中でもう一度、呟く。ゆっくりと少女達の横を通り過ぎ、知らず、おまじないの手順を脳裏に刻みつけながら、それを思う。
死んで幽霊になってから、どうしてだか、眠っても夢を見る事が出来なくなった。死んだのに眠ること自体がそもそもおかしいのか、それとも幽霊という存在自体が夢のようなものなのだからそれ以上の夢が見れないのか、或いは他に原因があるのかは解らない。
ただ確かな事は、一義が最後に夢を見たのはもう随分と昔の、まだ自分が生きていた頃の事で。もう、それがどんな夢だったのかだって、思い出そうとしてもちっとも思い出せないということ。
当たり前に夢を見れていた頃は、取立てて気に留めもしなかったし、ましてやそれを羨む事など殆どなかった。夢を見ない事があるならそんなものだと思っていたし、どうしても見たい夢など思い返せばそんなにもなかったからだ。
けれども。いざ、自分が夢を見れなくなったのだと気付いたら、せめてもう一度だけ見てみたい、と思うようになった。それはこういう、ふとした瞬間にふわりと一義の胸に沸き起こってくる。
せめてもう一度。もう一度だけ。
「‥‥十四郎、頼みがある」
だからその日、新たしき年も始まったその夜に、ついにその願いを弟に向かって口にしてしまったのは、きっとその夜が特別な夜だったからだ。1年に一度、初夢を見る、特別な夜。
ささやかなお節で腹を満たし、今はお正月用にちょっと奮発したお酒を飲んでいた来生・十四郎(きすぎ・としろう)は、ん? とそんな一義を見て酔いの滲んだ眼差しを不審げに揺らした。
「新年早々何シケた面してんだよ、酒が不味くなるだろうが」
「あぁ、すまない。‥‥お前に、頼みがあって」
「頼み?」
弟に素直に謝りながらもう一度その言葉を繰り返すと、とん、とお猪口を置いた十四郎が胡乱げな眼差しで一義を見る。ああ、と頷いた一義は、そんな弟のお猪口に徳利から酒を注ぎながら、とつとつと拙い言葉を紡いだ。
幽霊となったこの身が夢を見る事が出来ないのは、それはもはやしょうがない事だ。けれども、当たり前だったそれをせめてもう一度だけ見てみたい――それも、折角ならば今日この日にしか見ることの出来ない初夢を、と一義は思ってしまった。
だが、繰り返すが一義自身は夢を見る事が出来ない。夢を紡ぐ事が出来ない。ならばせめて十四郎に、自分の代わりに初夢を見てもらえないだろうかと、思ったのだ。
だから。頼むと頭を下げた一義に、下げられた十四郎は鼻に皺を寄せ、眉を潜める。
「兄貴の代わりに初夢を見ろって? 訳が判んねぇな」
「そう、だな。だが――」
「‥‥ああ判った、判ったから幽霊みたいな面すんな。ただし、見れるかどうかは保証しねぇぞ。あと、初夢のまじないとやらは兄貴がやれよ、んな面倒臭ぇことやってられるか」
「‥‥ああ! お礼にお前の晩酌にも付き合おう」
やれやれと、ため息を吐いてぶっきらぼうに了承してくれた十四郎に、ぱっと顔を輝かせて一義は何度も、何度も頷いた。そんな一義の言葉に、ニヤリと笑った十四郎は机の上のお猪口を飲み干し、また手酌で酒を注ぐ。
そんな弟の気が変わらぬうちに、と思ったわけではないが、一義はさっそく『おまじない』の準備を始めた。実はもう、とっくに道具は揃っていたりする。
窓際に出した小さな文机に、用意したのは少し大きな四角い紙。筆と墨は子供のお習字セット。フェルトの下敷きをしき、文鎮を乗せた何も書いていない紙をじっと見つめて、ほんの少しだけ息を吸って、吐く。
いつもよりちょっとだけ背筋をぴんと伸ばしたら、なんだか改まった気持ちになった。知らず、胸が高鳴るのを押さえられない一義を、面白そうに見ている弟の眼差しを感じる。
目の前にある窓の外は、雪。いくら寒い夜とはいえ、この程度なら積もりはしないだろう。
無意識にそう考えながら、いつもは気にしない座り方にも、ほんのちょっとだけ気を払って、よし、と筆を取り上げた。そうして一文字、一文字、慎重に紙の上に筆を乗せて綴っていく。
『なかきよの
とおのねふりの
みなめさめ
なみのりふねの
おとのよきかな』
静かに、慎重に。ただ、音も無き雪の気配を感じ、雪の匂いに満たされながら。
紙の真ん中に書き上げた字は、緊張していたせいか、或いは一義の胸の内の高鳴りが伝わってしまったのか、少し歪んでしまったかもしれない。けれども立派に読み取れる文字に、うん、と満足に頷いて、ちゃんと乾くのを待ってから、書いた文字を隠すように折り込んだ。
そうして出来上がったのは、子供の頃に誰もが1度は折った事があるだろう、帆掛け船。地方によってはこれのことを、宝船とも呼ぶらしい。
年の最初の夢見る夜に、こうして折った帆掛け船を枕の下に挟んで寝たら、良い夢を見られるのだという。それが、一義が街で聞いてきた素敵な初夢を見るおまじない。
だから丁寧に、丁寧に。どうか十四郎が良い夢を見れますようにと、願いを込めて、枕の下にそっと差し込む。
そうしてなんだかくすぐったい、わくわくした気持ちで弟を振り返ると、折りよく十四郎はふわぁ、と大きな欠伸をした。
「ま、用意が出来たんなら寝るとするか」
「ああ。頼んだぞ」
「だから保証はしねぇぞ。――んじゃ、お休み」
「お休み」
手早く寝間着に着替え、素っ気ない口調でそんな事を嘯きながら、十四郎はおとなしく布団の中に滑り込んだ。机の上を見ればまだ、先ほどまで飲んでいた日本酒がそのままだ。
やれやれ、と立ち上がって徳利とお猪口を片付け、脱ぎ散らかしたままの衣類をまとめて洗い場に置く。そうして戻ってきてみると、すでに弟は布団の中で、すやすやと寝息を立て始めていた。
寝付きの良いことだと、苦笑する。結構飲んでいたから、そのせいもあるのだろう。
落ち着かない気持ちで弟の布団の隣に正座しながら、一義はそう考えた。そうして知らず、じっと息を殺すようにして十四郎の寝顔を見つめる。
いったい、弟は明日の朝、どんな夢を見て目覚めるのだろう。それを思うとまた緊張と興奮が高まって、とうてい一義は眠れそうになかった。
◆
起きて過ごすには、冬の夜は長い。否、冬でなくとも、ただ1人で物思いに耽りながら過ごす夜は、時に永遠にも思えるほど長く感じられるものだ。
そう思えば、よくよく考えてみれば奇妙なことだけれども、幽霊となった自分がきちんと夜には眠りにつく事が出来る、というのはひどく幸いなことと言えた。果たしてその眠りで、生きていた頃のように体力なり、他の何かなりが回復しているのかは不明だが。
ふと窓の外を見やれば、先ほどから降っていた雪はまだまだ、降り止む気配はない。けれどもせいぜいうっすら白くなっているのは木の枝や、路上駐車をしている車のボンネットや、向かいの家の屋根くらいのものだ。
これなら明日の外出も支障はなさそうだと、ぼんやり考える。取り立てて出かける用事があるわけではないが、たとえば弟に急な仕事が入ったとしたら、交通機関が麻痺していると困るだろう。
窓の外から視線を逸らし、また、十四郎を見下ろした。深い寝息を立てている弟は、果たしてもう、夢を見ているのだろうか。
(初夢と言っても、縁起の良い夢でなくてもいいんです)
ぽつり、思った。一富士二鷹三茄子。今年の吉凶はどうなのかなんて、別に占いたいわけではない。
死んでから、見れなくなってしまった夢。どうせなら初夢をと思った気持ちは、嘘じゃないけれど。
(本当に見たいのは、まだ自分が生きていて、平凡でも幸せだった頃の夢。もう戻ることのない日常の夢なんです)
知らず、ため息がこぼれた。
幽霊となってしまった以上、どう願ったって生き返ることなど出来るはずもない。こうして弟の守護霊として、ほとんど生者と遜色のない生活を送れているけれども、やっぱり自分は死者なのだ。
ならばせめて夢の中だけでも、生きていた頃に戻りたいと、願うのはそれほどおかしくはないはずで。けれども何もかもを諦めよと言うが如く、眠れはしても夢を見ることは叶わない。夢の中ですら、夢見ることを許されない。
だから。もしかしたら一義は、こんなにも、夢を見たかったのかもしれなかった。
生きていた頃は当たり前に享受していた、仕事をして、時々は愚痴を言って、たまにうんざりして。家に帰れば弟が仏頂面で、さしたる感慨もなく日々の料理を食べ、疲れて泥のように眠る。
楽しい事もたくさんあった。友人付き合い、映画に本、マンガ、テレビ。幸せと数え挙げるには余りにも取るに足らない、ささやかな、ささやかな幸せ。
死んでからも出来なくはないが、それでも生きていた頃のそれとはやっぱり、違う。あの頃の、うんざりするほど平凡で、当たり前すぎた幸せな日々はもう、永遠に戻らない。
とはいえ――だから代わりに十四郎に夢を見てもらったところで、それが十四郎の夢であることに変わりはなかった。それもまた、一義にだって解りきっている現実だった。
もし本当に十四郎が、一義の日常の夢を見てくれたとしても――その夢は十四郎のものであって、一義自身のものでは、ない。
(こればかりは私にもどうしようもありませんが‥‥せめて十四郎にとって楽しい夢でありますように)
だからせめてもの祈りを込めて、一義は弟の寝顔を見下ろした。静かな、安らかな――否。
ふと、一義は眉を寄せた。
「ぅ‥‥ん‥‥」
「――十四郎?」
「まだ、だ‥‥ッ」
ふいに魘され始めた弟に、一義は不安になって呼びかける。けれども当然、眠っている弟が返事などするわけもなく、いつの間にか眉間に寄った皺が深くなるばかりだ。
一体どんな夢を見ているのだろう。なんだか不安になって、一義は無言でじっと弟を見下ろした。
問いただしたいけれど、起こすのも忍びないし、寝言に返事をすると永遠に目覚めなくなる、という話も聞く。この場合はちょっと違う気もするが、とにかく、何とはなしに起こすのも躊躇われ。
(十四郎の奴‥‥しかめっ面をして、本当に、一体どんな夢を‥‥)
もしかして初夢なのに悪夢なのだろうか。まさか一義は『おまじない』の手順を間違ってしまったのだろうか。せっかく一義の頼みを聞いて初夢を見てくれている十四郎に、よもや、自分の手違いで辛い思いをさせてしまったのでは――
後から後から湧き出てくる不安と戦いながら、一義はじっと弟の寝顔を見下ろした。どうやらいつもよりも、夜は長く感じられそうである。
◆
ようやく夜も明けて、窓の外を横切っていた雪の欠片もすっかり姿を消した頃、やっと弟は目を覚ました。否、起床時間だけを取れば、正月早々だというのに全くいつも通りの時間に起きたのだから、むしろ早い方だろう。
けれども一晩、期待と、それから不安で眠れず過ごしていた一義にしてみれば、『やっと』と形容するより他はない。むくり、起き上がった十四郎に気付くや否や、枕元にすっ飛んでいってまだ寝ぼけ眼の弟にかじりついた。
「おはよう、十四郎。どんな夢だった?」
「‥‥ああ、お早う‥‥何だよ兄貴、寝てないのか?」
ふわぁ、と大きな欠伸で伸びをした十四郎は、それから寝る前と様子の変わっていない一義を見て不審げに眉を寄せ、首を傾げた。ああ、と頷くと呆れたようなため息を、一つ。
それから弟はごそごそ布団を這い出して、よっこらせ、と立ち上がった。そのまま顔を洗いに台所へ向かおうとするのは、いつも通りで。
十四郎、とそんな弟を呼び止める。そうして、んぁ? とまだどこか眠たそうな眼差しで振り返った弟にもう一度、どんな夢だった? と尋ねる。
ぽり、と頭を掻いた弟が実に面倒くさそうに、半眼で一義を見た。そうして「どんな夢だったかって」と、呆れたようにため息を、吐き。
「1日中会社で仕事してたよ、兄貴がな」
「‥‥私、が?」
「ああ。‥‥全く、夢でも働かせやがって。約束はきっちり守ってもらうからな」
年度末の決算報告書なんざ知らねぇよ、と心底うんざりした様子の十四郎の言葉に、けれども一義は気付かないまま、私が、ともう一度呟いた。――呟かずには、居られなかった。
十四郎に『代わりに初夢を見てくれ』なんて無茶を言ったのは、半分は嫉妬にも似た感情だった。幽霊となった永遠に一義には見ることの出来ない夢を、人間である弟は見る事が出来る。死んだ一義とは違って、生きた弟はそれが当たり前に許される。
――だから。ならば見れない自分の代わりに、お前が夢を見てくれと――そう言ったのは、弟への嫉妬の混じった我儘だった。
それなのに。
「おい、聞いてんのか、兄貴」
「あ、ああ‥‥聞いている。晩酌だったな。いつでも付き合おう」
「ッたく、大丈夫かね」
ぶつくさと言いながら、今度こそ十四郎は台所へと向かう。通り過ぎざま、ぽん、と肩を叩いていった弟の背中に、ありがとうと頭を下げた。
たとえ十四郎が見たのがどんな夢であっても、一言は必ず感謝の気持ちを伝えようと思っていた。けれども十四郎は、この上なく確かに一義の願いを叶えてくれたのだ――生きている頃の、仕事に追い立てられてうんざりして、それでも気力を振り絞って働いていた頃の、何気ない幸いなる日常を、夢見てくれたのだ。
だから、深く頭を下げた。そうして約束通り、今夜は気の済むまで晩酌に付き合ってやらねばと、酒のつまみをあれこれ考え始めたのだった。
━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業 】
0883 / 来生・十四郎 / 男 / 28 / 五流雑誌「週刊民衆」記者
3179 / 来生・一義 / 男 / 23 / 弟の守護霊・来生家主夫
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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いつもお世話になっております、蓮華・水無月でございます。
この度はご発注頂きましてありがとうございました。
というかこちらこそ、今年もどうぞ宜しくお願い致します‥‥もう2月も半ばですが(ぁー
ご兄弟の新年早々のほのぼのとした(?)物語、如何でしたでしょうか。
確かに、幽霊となられたお兄様の日常生活、どんななのだろうとちょっと興味が出てきました(笑
もう二度と手に入らない、もう二度と体験出来ないとなると、当たり前だった事が途端に、煌々しい宝物のように思えますよね。
ご発注者様のイメージ通りの、切なくも優しいノベルになっていれば良いのですけれども。
それでは、これにて失礼致します(深々と
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