|
ミルタの行方
夜神潤が旧校舎の前を通り過ぎると、新聞部員が走っていくのとすれ違った。
インクの匂いがプンとした所から、今から刷るんだろうかと他人事のように思う。実際他人事なのだが。
旧校舎前を通り過ぎ、裏にある噴水に向かう。
相変わらず、この辺りは異質な空間だった。時が止まったかのように、蔦が噴水の周りを這い、苔が生し、蓮の花だけがぷかぷか水面を浮かぶ。
そこに白い少女はいた。
「こんにちは。また来たの?」
「ああ、こんにちは」
星野のばらは、噴水の縁に座って足をぶらぶらさせていた。
仕草は子供そのものだった。実際彼女の年齢は享年13歳なのだから、まだまだ子供の範囲なのだが。
潤は普段の生活があるからいいが、のばらは結界に阻まれて外に出る事もできず、人に見つからないようひっそりとここにいる事しかできない。
それは哀れな事だと、寿命のない潤は心の底からそう思った。
「踊らないか?」
潤がのばらに対して、手を差し伸べる。
その差し出された手を見て、のばらは不思議そうな顔をしながら首を捻った。
「あなたバレエをしている人なの?」
「こう見えても」
「嬉しい! 普段私はほったらかしなんだもの。一緒に踊りましょう!」
「「ジゼル」でいいか?」
「それ私の当たり役よ? いいの?」
「構わない」
少女は心底嬉しそうに、その手を取った。
冷たい。
いくら小さく華奢な女の子に見えても、彼女は人ではない。本当なら既に死んでこの世にはいないはずの人間なのだから、体温がないのはしょうがないのかもしれない。
曲はない。舞台の上のように平らな場所でもない。
それでも。踊ると決めたら、自然と足が、手が、リズムを刻んでいた。
のばらの顔にさっきまで浮かんでいた笑みは、すっと引いていた。それは、ジゼルが人ではなくなり、ウィリーになってしまったのと同じように、表情すらも人のものではなくなっていた。
彼女が跳べば、それは音もなく地面に降り、草をしゃくりと踏む音すら許さなかった。
彼女が回転すれば、白いチュチュはふわりと広がり、手を高く掲げれば、その手は柔らかく空を掻く。
彼女をひょいと持ち上げながら、潤は驚く。
彼女の動きは、ちょっと上手いと言われるバレエ少女のものではなかったのだ。
学園にはエトワールと呼ばれるバレエのもっとも上手いとされる称号があるが、もしのばらが生きていたのなら、それは彼女に捧げられていただろう。
地面に刻まれる足音は、潤のもの。
彼も人ではないとは言えども、演じる役は人のもの。
のばらは人ではなく、演じる役も人ではない。
ただ彼の刻む足音だけが、旋律となって噴水の水音と共に響いていた。
やがて、それも終わる。
1幕が、終わったのだ。
「ありがとう。楽しかったわ」
のばらが振り返る。
このバレエ自体は激しい動きは全くない。ただ、終始爪先立ちで踊り続けるものなので、体力が必要なだけだ。それを彼女は息1つ切らす事なく踊り切ったのだった。
「構わないが。しかし1つだけ訊いていいか?」
「なあに?」
潤は少しだけ襟元をくつろげた。
少しだけ汗を掻いて、気持ち悪くなったのだ。
それをのばらは面白そうに見ている。さっきまでの踊っていた少女とは、全くの別人に見えた。
「もし話したくない事なら、謝る。話したくないのならそれ以上は訊かない。
……お前は何でここにいるんだ? 4年前にここで何かあったと言う事だけは聞いたが……何があったのかまでは聞いてない」
「……ああ」
のばらは少しだけ目を細める。
笑顔が引っ込んだ所からして、あまり触れられて欲しくない事らしいが、訊かなければ分からない事もある。
「自殺したからじゃないの? 私がここにいるのは」
「自殺……」
「自分だけ不幸なのは嫌だから、皆巻き込んじゃえって、人が1番集まる中庭で自分を滅多刺しにしてやったわ。そしたら私の事、誰も忘れられなくなるでしょう?」
「……ああ」
少しだけ納得した。
目の前で女の子が1人、滅多刺しになって死んだのだ。
そりゃ通院患者も出るし、学園側でも取材規制が入ったのはそう言う事だったのだ。
「それで死にきれなくってここにいるのか?」
「いいえ」
ん……?
のばらの即答に、潤は思わずのばらの顔を見やる。
彼女は明らかに機嫌が悪くなり、唇をがぶがぶと噛んで、目を吊り上げていた。
彼女の言葉を思い返す。
自分だけ不幸と言うのはどう言う事なんだろうか?
彼女の性格は子供っぽいように感じるが、少なくとも技術だけは本物だ。彼女がそのまま生きていたら、そのままバレリーナとしてどこかの舞台で踊っていても不思議ではない。
だとしたら、不幸は別の所にあるのか……?
「ウィリーは1人じゃウィリーになんてなれない」
「…………」
実際、「ジゼル」においても、自殺したジゼルをウィリーにしたのは、ウィリーの女王であるミルタによるものだ。ミルタは確か、ジゼルの墓の前でローズマリーの花束で呪いをかけて、彼女をウィリーにしたのだ……。
ん……?
そこで1つ思い至った。
彼女からしていたきつい芳香。
それはもしかしてローズマリーではないだろうか?
「じゃあお前をウィリーにした奴がいるのか?」
「…………」
のばらはさっきまでの機嫌は完全に損ない。ただふてくされたように噴水の縁に座り、つんと明後日の方向を見るばかりだった。
今はこれ以上は話を聞き出す事はできなさそうだ。
「最後に1つだけ訊いていいか?」
「……嫌な事なら、私これ以上話さないわよ?」
「それで構わない。……海棠について、どう思う?」
のばらはようやくこちらの方に向き直った。
「それ……どっち?」
「話したい方で構わない」
「そうね……。秋也は好きよ? 愛してる」
「…………」
彼女は子供っぽいとは思っていたが、まさかそんな直接的な表現が飛び出るとは思わなかった。潤が黙って彼女の話に耳を傾けていると、のばらは少しだけ機嫌が直ったのか、先程みたいに足をぷらぷらさせながら話を続け出した。
「バレエも上手かったし、彼しか私の話をまともに聞いてくれる人がいなかったもの。
勝手に色眼鏡で見てくる人は嫌い。でも秋也は違う。秋也は私と同じ悩みを持って、それで一緒に悩んでくれたんですもの」
「話を聞かないと言うのは……?」
「私の事を勝手に持ち上げる人がいたのよ。
練習だって一緒にした。人より上手かった。それで努力してもできない人達が好き勝手に言ったのよ。私はできるだけ。その人達はできないだけ。その人達より私の方が踊りが上手いのは、私のせいなんかじゃないわ。
秋也も同じように悩んで、私の話を聞いてくれたから一緒にいられたのよ」
「…………」
黙って潤は耳を傾ける。
ここですら、織也の話を聞かない。
何故か誰も織也の話をしない。
秋也の才能を自分は見ていないから判断できないが、それをずっと目の当たりにしていた織也は、一体どう思う……?
「……今日はここまで。続きはまた今度。気が向いたらね」
「話、ありがとう」
「私も彼以外と話をできて楽しかった」
のばらに話を打ち切られ、仕方なく噴水を後にする潤。
……彼女をウィリーにしたのは、織也ではないのか? でも彼女を自殺に追い込んだ要因が織也だとすると、何故彼女をウィリーにしたのかが分からない。
潤は訝しがりながら噴水を見るが、既にのばらの姿は見えなくなっていた。
<了>
|
|
|