|
夜道この道回り道
――間違えた。
向坂・嵐は、軽く目の前が暗くなるのを感じた。
実際、あたりは暗い。しかし、そういう問題ではない。
何せ、目の前には、目に光の灯っていない女性が、じっと嵐を見つめているのだから。
(こいつヤバい)
嵐はくるりと彼女に背を向ける。女は慌てる様子もなく、嵐の背を追う。
「ああああ、もう」
嵐は小さく舌を打つ。
間違えたんだよぅ、と呟きながら。
彼女に気付いたのは、行きつけの居酒屋からの帰り道だった。
路地の端っこに、蹲っている姿を見つけたのだ。
「もしかして」
嵐は呟きながら、近づく。
飲み屋の多い通りを抜けたところだから、気分が悪くなって動けなくなっているのかも知れない、と思ったのだ。
ふう、と吐く息が白い。暖かなジャケットを着ていても、冷気が体の奥底にまで入り込んでくるような、寒さ厳しい夜だ。
「連れ、いないのかな?」
あたりを見回すが、誰か連れが居るような気配もない。ならば、本当に一人きりで動けなくなっているのかもしれない。
(ちょっと何か買いに行ってるとかかも、しれないけど)
それでも、気になることには違いない。
連れが居るならば、それはそれで安心してその場を離れればよいだけのことだ。
ぱっと見女性のようだし、変な男に絡まれても可哀想だ。
「どうしたんだ?」
蹲っている女性に声をかけると、女性は一瞬ぴくりと体を震わせた。
「気分でも悪いのか?」
再び声をかける。言葉を口にするたび、白い息が宙に溶ける。
『……私の、こと?』
蹲ったまま、女性は言う。
返事があったことに一先ず安心した嵐は、気付けなかったのだ。
女性の言葉と共に吐き出されるはずの白い息が、無かったことに。
「こんな所で蹲ってたら、危ないぜ。今夜なんてめっちゃ寒いし、飲み屋から近いから絡まれるかもしれないし」
そこまで嵐が言ったところで、女性はゆらりと立ち上がる。そして、顔を上げて嵐を見つめた。
(しまった)
『……視えてるの?』
時は既に遅かった。
「はっきり見えてたから、間違えたんだよな」
さかさかと早歩きで嵐は突き進む。ついて来られるなら撒いてやろうと、必死になって街をぐるぐると歩き回っているのである。
しかし、彼女は着かず離れず、ぴあたりと後をついてきている。
振り返る必要なんて無い。その気配が、一向に消えないのだから。
「あーもう、どうしようかな」
一目見て「ヤバい」と感じるものを、家につれて帰りたくは無い。
だが、もうすぐ終電が近い。
帰りたいのに、帰れない。
「弱ったな」
大きく溜息をつき、嵐は気付く。
彼女が蹲っていた場所に、戻ってきてしまったのだと。
「んで、ここか」
はぁ、と大きく溜息をついた。
『どうして、逃げるの?』
ついてきていた女性が、話しかけてくる。
相変わらず目に光は無く、虚ろなまま。それでも不思議そうに、嵐に問いかけてきた。
「だって、ついてくるじゃん」
『私、一人だから』
「そうじゃなくってさ」
嵐は再び溜息をつき、煙草を取り出して口にする。
『……私一人だから、暗いの』
カチ、と音をさせてライターで火をつけると、不意に女は話し出した。
『だけど、それは、綺麗』
虚ろな目で、煙草の先端を見つめる。
ぽう、という光を、自らの目に宿そうとするかのように。
「俺はさ、あんたに何も出来ないぜ」
『私が、視えるのに?』
「見えるだけなんだよ、俺。あんたの周りを明るくしたりとか、行くべき所を示したりとか、そういうの無理」
きっぱりと言い放ち、頭を掻く。
襲ってくる様子は無い。ただただ、暗いと訴えてくる。
暗くて、一人だと。
(ああ、そうか)
トントン、と携帯灰皿に灰を落としながら、嵐は気付く。
(寂しいのか)
光を求め、嵐の後ろをひたすら歩く。一人だと暗いから、一人だと寂しいから。
動けないから。
(かといって、俺には何もできねぇし)
ふう、と煙を吐き出す。
白い息と交じり合った煙は、すぐに消えることなく天へと昇っていく。
(ああ、そうか)
ぼんやりと紫煙の行き先を見つめ、嵐は女に向かって笑いかける。
「上、見てみろよ」
『上?』
天に広がるのは、星空。今夜は寒いから、星が余計に輝いて見える。
「別にさ、俺の煙草の光になんて必死にならなくていいじゃん。あんたは見上げるだけで、いっぱい光が見れるんだからさ」
『でも』
「まだ暗いか?」
嵐に問われ、女は一瞬たじろぐ。
顔を上げれば、星空がある。星は輝き、女を照らす。
優しく、暗い中でも、光り輝いて。
『……暗いけど、明るい』
「ほらな」
ぎゅ、と煙草の火を灰皿に押し付ける。それを、女は咎めない。
彼女の目には、もっと輝く光があるのだから。
『私、あなたが明るいと思った。私一人で暗いから。だけど、こんなに簡単に、光が』
女はそこまで言うと、そっと目を細めた。
目を細め、小さく笑む。その目には、星の光を宿して。
――そして、消えてしまった。
「いったか」
はぁ、と嵐は溜息をつく。
なんとか説得だけで、消えてくれたと胸を撫で下ろしながら。
「終電、行ったよなぁ」
歩くか、と覚悟を決めた瞬間、通行人の声が耳に入ってくる。
「……だから、前にここで、女の人がダンボールに詰められて殺されてたんだって!」
「やだー! 犯人は捕まったの?」
「すぐに捕まったんだけどさ、なんだか気味が悪いよねぇ」
面白半分のような声に、嵐は改めて溜息をついた。なんという夜だろう。
(それなら、さぞかし暗かっただろうな)
嵐は再び煙草に火をつける。
彼女は、光を欲していたのだ。こんな小さな光でさえ、必死になるほど。
「でも、まあ……明るいと気付けて良かったな」
ただ、見上げるだけでよかったのだ。
たったそれだけで、彼女は光を目に宿す事ができたのだ。
それすらも気付かぬほど、蹲っていたけれど。
「そこ、明るいだろ?」
嵐は星空に向かって笑む。
狭い閉じられた暗い世界ではなく、どこまでも広く開けた明るい世界に向かって。
<長い岐路につきながら・了>
|
|
|