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■ 牡丹の休日 ■
騒がしい都会の中に、まるで切り取られたような場所があった。
竹林に囲まれた静粛な空間に、控えめな家が佇む。
引き戸障子のやや小さめの入り口に、12畳の畳が敷かれた部屋が見える。
和の別荘、茶室。
深々とした深緑の音が支配していた。
檜の柱にもたれかかり、着物を着崩した姿で茶を嗜む女性が一人。
手にした椀からは既に湯気は失せていた。
朱色の反物に、金で刺繍の施された牡丹の花が咲く。
左肩は無防備にも外気に晒され、自らの重みで朱金の着物がずれ落ちる。
薄桃色の長襦袢は彼女の豊かな胸の膨らみを淑やかにたしなめるも、紅の唇にかかる黒髪のせいで一層艶っぽさが増していた。
すらりと伸びた足は着物をかきわけ、イ草の香る畳の上に投げ出されている。
やや色白の素肌は絹のようで、一見すると戦闘のプロのようには見えない。
束ねることなく流れる漆黒色の髪の先は、深緑色の畳の上に無造作に広がる。
線の細い日本人独特の身体でありながら、グラマラスな体型からはどんな服でも隠しきれない色香を漂わせていた。
淡く降り注ぐ光はまだらで、一枚の美人画のようだった。
水嶋・琴美はただ縁側にて、物憂げに虚空を見つめているだけだった。
大手製薬会社潜入の任を終え、報告に帰還した。
任務達成の報告と、同時に保護した子供達を無事に家まで送り届けることとなった。
それだけならば、いつもの依頼と特に変わったことはなかった。
すっかり冷めてしまった茶碗に一口付け、再び物思いに耽る。
忍者という琴美の仕事上、凄惨な場面は幾度も経験している。
自分の手で命を奪うことだって何度もあるし、そう気分の良い物でもない。
だがあの光景だけは、脳裏から焼き付いて離れることはなかった。
某製薬会社の実験体となった子供達。
みんな製薬会社に攫われて来た子達だった。傭兵を雇い、裏で手引きをし、いかにも怪奇現象や真犯人がいるかのようにメディアを扇動して。
体中に点滴の管が繋がれ、カプセルのようなベッドに寝かされていた。瞬きをすることもなく、ただ天上を見つめるだけ。
年齢や性別、体型は違えども、助けることのできなかった全員が作り物であるかのように美しかった。
琴美は無意識にぽつりと呟いた。
「まるで人形みたいだった……」
怯えもなく、悲しみもなく、琴美はただその光景を忘れることがなかった。
研究所が作ろうとしていたものは、不老不死に繋がる麻薬の類だったという。
親から譲り受けたであろうそれぞれの容姿をしていたのだ。
それが薬ひとつで作り替えられ、精神は壊され。
彼等を親元に帰したとしても、より悲しみを背負って生きることになるだろう。
琴美はあえて自ら悪になった。
彼等が「既に死んでいる」ものと思わせるために。
世の中が全て善と悪の2種類で、1か2しかない世界でないことは物心付いた頃から理解している。
だが、いやそれでも、どのような措置をとったとしても悲しまなければならない人が出てきてしまう。
そういう場に出くわすと、少なからずためらいや後悔が残る。
仕事とは分かっていても、だ。
まだ自分が幼いのだろうか、そんな風にさえ感じてしまう。同時に人としての思いを無くしてしまうのなら、とも。
苦々しいものを流し込むように、冷めた茶を呷った。
つぅっ、と唇の端から茶が零れた。
終始怯えるように身を縮ませていた、あの子供達のこれからを憂う。
きっと体験したことは忘れられないだろう。
あるいは全てを忘れてしまうのかもしれない。
大人になるにつれてきっと。
ふいに立ち上がった琴美は乱れた衣服を直そうとはせず、竹林の中を歩き始めた。
風が琴美の髪の毛を柔らかに攫う。
葉っぱ同士が擦れ合って、さざ波のような音がする。
陽光は届くので暖かく明るい。
細い青竹を一つ一つ手で撫でながら歩く。
固くひんやりとした感触だが、不思議と優しい温もりを覚えた。
結界で守られたプライベートな空間でもあるため、周囲とは隔絶されている。
都会の中心にありながら、余計な物音一つしない。
枯れ落ちた葉の絨毯を踏む度、パリっとした音が聞こえる。
無数のシャボン玉のように、過去の自分が浮かんでは消える。
この歳のわりに多くを経験し、苦しいものや辛いものも多かった。
それでも、あの子達からすれば軽い方ではないだろうか。
隣で人が人でなくなっていくのを、日に日に目に刻まれていく。いつかは自分もああなるのではないか。
地獄とはまさにそのことなのだろう。
一本のしなやかな竹に触れ、額をつける。
「いえ、地獄なんてありませんわ。あるとするなら人の心の闇……なのかもしれませんわね」
振り切るように独白する。
そう言った琴美の目は悲しい色を帯びていた。
投資したスポンサーに、莫大な投資資金に目の眩んだ研究所。
もちろん、自らが老いることを恐れたかもしれない。
しかし老化を送らせる特効薬でも出来たなら、多くの需要を生み出すだろう。
誰だって若く健康でありたいと願うのだ。
自分はどうなのだろう。
密集して生えている竹に背中を預ける。
ハンモックのようなしなりを受け、心地よさに眼を細めた。
青々とした匂いが鼻孔をくすぐる。
歳を取ると同じようなことを思うのだろか。
「いつの間にか半日もこうしていたのね」
上空を見上げ、琴美は眼を細めた。
竹の葉が幾重にも重なり、柔らかい木漏れ日が降り注ぐ。
日の暖かさから正午を過ぎているくらいだと知る。
突如、携帯のバイブが振動する。
見ると次の依頼内容が記されていた。
先の任務が終わり、休暇を言い渡されたもののわずか半日で次の任務が指示された。
だが琴美の声は楽しげに響く。
「まったく人使いの荒いこと」
唇の端をわずかに上げ、
「もちろん、次の任務も完璧にこなして差し上げますとも」
不敵に笑った琴美にはいつもの覇気が戻っていた。
一瞬で着物を脱ぎ去り、ぴっちりとした黒タイツに黒い戦闘服を身に纏う。
タイツの部分がきらきらと反射し、すらりと伸びた四肢、細長く強調された首筋、胸や腰回りを艶やかに強調していた。
肩に掛かった髪を振り払い、真っ直ぐ見つめる漆黒の瞳には、強い色と揺るぎない自信に満ちあふれていた。
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