|
A Chance Encounter
冷えた空気がまだ充満し、人々をぶるりと震わせるこの季節――。春の訪れの足音も、まだ聞こえはしない。
アリア・ジェラーティは開催される雪祭りのことをぼんやりと考えながら歩いていた。あまりに考えに没頭しすぎて、どこを歩いているのか本人がまったく把握していないほどに。
通りかかった三毛猫がさっ、と立ち退き、散歩中の老婆が明らかに足取りがおかしいアリアを心配しつつ横目で通り過ぎた……が、本人は一切気づいていない。
アリアの脳内は雪祭りでいっぱいで、いかにして素晴らしい雪像を作り上げるかでいっぱいだった。
だから。
気づかなかった。むぎ、と何かを踏んづけた際も。
そのまますたすたと通り過ぎようとした時、大きな声で引き止められたのだ。
「おい! ひとを踏んづけてそのまま通り過ぎようとするなあ!」
声音からして少女だろうことはわかったが、あまりのことに空気がびりびりと振動していた。
ひゃあ、と小さく驚いてから、アリアは振り向く。
猛烈にこちらを睨んでくる、不可思議な雰囲気の少女と目が合った。
小麦色の肌をした金髪の少女は、ずかずかと立ち止まっているアリアに寄ってくると、精一杯背伸びをして上から覗き込んできた。
「とにかく、あ・や・ま・れ!」
「…………」
アリアは少女が後頭部を指し示すので、そちらをうかがう。見事に自分の足跡がついていた。どうやら途中で泥水でも踏んだらしい。
ちら、と彼女を見てからアリアはぺこり、と頭をさげた。
「ごめんなさい」
丁寧なお辞儀に、まるで毒気を抜かれたように少女は困惑し、眉根を寄せる。
「あー、えと?」
「悪気はなくてもごめんなさい。痛かったですか……?」
そっと右手を差し出してくるアリアに驚き、少女は一歩分あとずさった。そして顔をしかめる。
「あーもう! いいよもう!」
「……え、で、でも」
痛かっただろう。かなり強く踏んだから、足跡がついているはずで。
少女は戸惑うアリアを見て、唇を尖らせて言う。
「ボクも悪かったから、いい!」
「?」
「ああもう言わせるのか!」
じたばたとその場で足踏みをする少女の元気の有り余っている様子に、アリアは圧倒される。
ふいに、アリアは周囲を見回した。
「……あの」
視線を少女に合わせる。
「ここは、どこですか……?」
「…………ハァ?」
*
「ボク柚葉」
名乗った彼女は、柚葉というらしい。ここはあやかし荘という場所で、柚葉の住処らしい。
あやかし荘の前で二人は対峙している。というより、アリアが柚葉をじ〜っと観察しているのだ。
「な、なんだよぉ……」
小さくなっていく語尾。柚葉としては、実はいきなり怒鳴った負い目もあって強く出られないようだ。
彼女は落としてしまった小銭を拾おうとして屈んだが、散らばったそれらを拾うのにかなり低い位置まで……つまり地面近くまでべったりとくっつくような姿勢でいたようなのだ。アリアでなくとも、踏んでしまう可能性は高い。
アリアの視線は柚葉の臀部近くに注がれている。
「さっきからなに!」
たまらなくなって叫ぶ柚葉に、アリアはいきなりきりっとした表情になった。雰囲気までががらりと変わっていた。
「いい!」
「え? な、なにがいいの?」
頭の上に疑問符を浮かばせる柚葉に、アリアはぐっと近づいた。思わず柚葉がのけぞる。
「氷の女王に、なってくれませんか!」
「…………」
二人の間に冷たい風が吹き抜ける。
柚葉はちょっと不可思議そうな表情を浮かべ、それから半眼になった。
「そ、それって変化しろってこと?」
妖狐の柚葉は変化術を得意……としている。一応。
ただし、腕が未熟なのでどうやっても尻尾だけが隠せない。そこが難点だった。柚葉も気にしていることだ。
アリアとしては、この一風変わった少女……特にこの獣の尻尾に惹かれて案が浮かんだわけなのだが、これは我ながら名案ではないかとふんでいる。
獣の耳も尻尾も、あったっていいじゃないか! むしろあればいい! これはウケる!
アリアは真剣な表情でポーチに手を伸ばす。なにごとかと身構えた柚葉の前に、取り出したものを渡そうと掲げた。
「どうぞ」
「…………にくまん?」
「見えませんか、肉まんに」
「見えるけど……」
なぜ、にくまん?
柚葉の戸惑いに、アリアは空いている手にアイスキャンディを取り出す。
「冷たいほうがいいならこちらでも」
「ええええ!?」
「氷の女王になってください」
ずいずいと、両手に食べ物を持って迫ってくるアリアの目は真剣そのもの。思わず柚葉は気おされて、尻餅をついてしまった。
*
「やーだ」
「お願いします」
「いやったら嫌!」
「どうしてもですか」
肉まんを頬張っているのにそれはないだろうとアリアは見ているが、柚葉は気にした様子がない。これは踏んだ謝礼と勝手に解釈されたようだ。
「そもそも、ボクをモデルに作るってのならわかる」
「えっ、それじゃあ……」
期待に表情が晴れるアリアの鼻先に、柚葉の人差し指が触れるほどに突きつけられた。
「あのね、ボクをそのまま氷の彫像にするとかいうそのずるっこいところがヤだって言ってんの」
「でも時間がないので」
雪祭りの開催まで時間がなかったはず、だ。
しょんぼりと肩を落とすアリアを多少は気の毒に思ったのだろうか、柚葉がちょっと眉をひそめた。
「す、少しだけならやってもいいかも」
「えっ!」
「アリアちゃんが困ってるなら少しなら! ってこと。でも少しだけ。ずるはなし!」
「ずるではないです」
「だとしても、長時間氷になるとか、自分がどんな状態になるかわかんないのって怖いから、そこだけはわかってよ!」
アリアは首をかしげた。柚葉の強調している言葉の意味が理解できないのだ。
ちょっとだけ氷の彫像になってもらうことが、なにがいけないのだろう? 怖いことなどなにもない。
アリアの手からアイスキャンディも奪い、報酬とばかりに柚葉は食べ始める。
「ちゃんと……元に戻します」
「そういう問題じゃなくて、途中経過が怖いの!」
「はぁ……」
「だって不慮の事故で壊れたらどうするの! いくらなんでも壊れたら……」
青くなる柚葉はまだまだ言い足りないようだったが、アリアが小さな胸を軽く叩いてみせた。
「大丈夫。柚葉ちゃんは私が守ります」
「え……」
「だから、できるだけすごい、想像できうる限り素敵な女王様に、獣の女王様に変身してください……!」
「目をきらきらして言うことじゃない気がする」
仕方なく、柚葉はアイスキャンディを食べ終えて嘆息した。
「じゃあちょっとだけ。本当なら勝負してやるところだけど、まあ今回だけだよ」
「ありがとう、柚葉ちゃん」
頬を微かに染めて照れるアリアの前で、柚葉の変身奮闘が始まった。
*
――で。
公園に飾られた柚葉を、ブランコに座って眺めていたアリアは両頬を手でおさえるポーズをとった。
「私よりも似合ってる……すてき」
そのうっとりとした表情に晒されていたが、まるで空耳のように柚葉の怒りの声が聞こえた。
「早くもとに、も・ど・せーっ!」
「しばらくはそのままで」
小さく微笑むアリアの鑑賞の視線を浴びながらも、柚葉は動くことができない。これはただの拷問だ。引き受けるんじゃなかったと、彼女の怒りがじわじわと滲み出ていたが、アリアは気づく様子がなかった。
すでに雪祭りが終わっていたなど……柚葉にお願いした時のアリアは知らなかったのだ。
けれどももう少しだけ。あと少しだけ、この素敵な獣耳をつけた麗しい氷の女王を眺めていたかった。
|
|
|